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狼の裔~念真流血風譚~  作者: 筑前助広
第四章 末路
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第五回 腑抜け(中編)

 穂波郡、若菜村。

 山裾に沿うようにある、中規模の村だ。

 あの茶屋の騒ぎから、十日後の事である。

 村へと続く農道。歩みを進める度に、胸が高鳴り、雷蔵は奥歯を噛み締めた。

 今日と明日の非番を利用して、眞鶴に会いに行くのだ。表向きは、他郡の見聞という事にした。いずれは内住郡を継ぐ身。その為には、他郡の状況を頭に入れる事も必要なのだ。父にもそう伝え、同意してくれた。

 しかし、全ては眞鶴に会う為だった。会えば、この気持ちも変わるかもしれない。兎に角、今のままでは何も手に付かないのである。事実、道すがら穂波郡の民情を知ろうと思ったが、気が付けば全てが上の空だった。

 どうしたらいいのか判らない。そう思う程、初めての感情だった。会いたい。話して、眞鶴という女性をもっと知りたい。しかし、会う事が怖い。気おくれと、恥ずかしさもあるのだ。


(今更遅過ぎるかもしれない……)


 と、やり場のない感情が、不安の種が大きくさせる。

 いや、社交辞令を本気にしたと、眞鶴は困るかもしれない。もし、少しでもそのような素振りを見せたら、すぐに帰ろう。立ち寄っただけだと言えば自然なはずだ。

 これが、恋というものなのか。人が人に惚れる。そうした感情があるという事は知っていたが、こんな気持ちになるのは初めての事だった。

 恋より先に、女を知った。初めての女だったゆふには、覚えなかった感情だった。ゆふには、会いたいとか話したいという気持ちより、抱きたいという身体への執着が大きかった。

 しかし、眞鶴は違う。何をしていても、翳りのある美しい彼女の横顔が浮かんでくるのだ。そんな彼女を、もっと知りたい、もっと知りたいと願ってしまう。

 勿論、眞鶴に対する肉欲が無いわけではない。時に淫らな妄想で穢してしまう夜もあった。しかし、それを想像する事が禁忌なのだと思っているからか、その後に猛烈な罪悪感に苛まれてしまう。


(誰か潜んでいる……)


 雷蔵は、ふと歩みを止めた。右手は池、左手は菜の花が生い茂る一本道である。

 何者かの気配。殺気だった。それも、素人が発するものではない。言うなれば、玄人が放つ殺気。如何にも、わざと気付いてくれと言わんばかりの、挑発的なものだ。


「誰ですか」


 雷蔵は、誰もいない菜の花畑に向かって訊いた。

 すると暫くして、低く抑えたような笑い声だけが聞こえた。


「素人ではないという事か」


 姿を現したのは、三十路ほどの男だった。総髪で、着物に乱れた所はない。医者のように見えたが、大小を佩いている。すると武士。家中の者か判らないが、浪人にしては小ざっぱりとしていた。

 一瞬、深編笠の男が浮かんだが、背格好は些か違う。この男は若干だが横に太い。


「そうですね。素人ではありません。しかし、玄人というまでもないですよ」

「そうか。あいつは、素人に毛の生えた子供ガキられちまったか」


 男が自嘲気味に言った。


「刺客ですか?」

「まぁそうだが、事情はちょっと違うな」

「何です?」

「仇討ちだよ。惚れた女の」

「あ、ああ……あの」


 匕首車のお百。あの女の事か。


「思い出したようだな」

「ええ。私が始めて斬った女性ですからね。忘れられませんよ」

「気持ち悪い奴だな。こんな野郎に、られたのかよ」

「何です、あなたは。お百さんの相棒ですか?」

新田宗介にった そうすけ。同業者だよ。たまに組んだりはしていたが」

「始末屋が仇討ちとは、笑えますね」

「笑うなら笑えよ。俺はお百に惚れていたからな。あいつの仇を討って、念真流の首に掛かった賞金を頂戴する」


 男の闘気が膨れたが、雷蔵はそれを逸らすように溜息を吐いた。嫌になる。これから眞鶴に会うと言うのに。着物を血で穢そうものなら、会えなくなるではないか。折角、勇気を振り絞って此処まで来たというのに。


「全く迷惑な話ですね」

「何が?」

「これから私は人に会うのです。そうした事情などお構いなしに襲って来るのですから」

「自分の悪名を恨めよ」

「私は何もしていませんよ。まぁ十以上は人を斬りましたが」

「それだよ。念真流宗家である平山家の血脈にゃ、怨念が刻まれているのさ。そいつがお前のような子供ガキにも、人を斬れよと掻き立てる」


 何を勝手な事を。雷蔵の腹立ちは覚え、男を睨みつけた。


「おお怖い」


 新田は肩を竦め、


「この先に誰にも邪魔されねぇ、うってつけの場所がある」


 と、道の先を顎でしゃくった。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 向かい合った。

 距離は五歩。既に潮合いは達しているが、雷蔵は抜いていない。

 ある事を試そう思った。その余裕を与える腕なのか判らないが、この後の事を考えれば試すには絶好の機会だった。父にも、いつかは実戦で試せと言われていた事でもある。


「抜けよ」


 そう言った新田は、既に抜いていた。

 雷蔵は首を振る。新田の表情に一瞬だけ困惑の色が浮かんだ。


「どうぞ遠慮なく」

「どこまでも気持ち悪い奴だ」


 新田が正眼に構えた。雷蔵も腰をやや落とす。

 間合い。それだけに集中した。間合いさえ見誤まらねば、負ける事は無いはずだ。稽古も重ねた。城下の他流にも学んだ。〔柔術〕だけで、人は殺せる。それを試したかったのだ。父も若い頃は、何度か挑戦したという。

 新田が気勢を挙げた。八相に構えを移す。禍々《まがまが》しい殺気。肌に粟が立った。そこまで、俺を殺したいのか。それほど、あの女を愛していたのか。


(どうでもいい)


 俺は、火の粉を払っただけなのだ。何も悪い事はしていない。

 地擦りで、にじり寄ってくる。一歩。もう、一歩。更に、今一歩。そう思った時、新田が、予想に反して大きく踏み込んできた。

 刃。その斬光が、意外なほど伸びた。

 雷蔵も躱しながら、懐に踏み込んだ。右手で新田の腕を掴み、左の肘で脾腹を打った。

 新田の身体に衝撃が走る。踏み止まろうとする新田の力を利用し、担ぎあげた。これは他流の技だ。念真流の柔術には、当身しかない。

 掴んだ袖を固め、力ではなく氣で投げた。固い地面に、背中から叩きつける。土埃が舞った。これで暫く息が出来なくなるはずだ。雷蔵は、すかさず新田の手から刀を奪い放り投げた。


「今からお百さんに会わせてあげますよ」


 雷蔵は冷淡に告げた。喘ぐ新田の顔。一瞥し、首に手を回した。そこで初めて力を込めた。一息に捻る。両手に、命を奪う鈍い感触が伝わった。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 若菜村に入った。

 眞鶴の名を出せばすぐに判ると言われた。すると、庄屋の娘かもしれない。それならば、あの品の良さも納得出来る。

 雷蔵は百姓女を掴まえて訊くと、


「眞鶴様ですね」


 と、慧法寺すいほうじという真宗の寺院を教えてくれた。

 女によれば、眞鶴はそこで手習いの師匠をしているという。雷蔵は得心した。眞鶴の美しさは、高い教養を感じさせるものもある。

 慧法寺に行くと、寺の小坊主に誰何された。雷蔵は素直に名乗って会いたい旨を伝えると、離れに案内された。


(ほう……)


 七畳ほどの一間で、子ども達が文字の稽古をしていた。眞鶴は一人一人見て回り、時折子どもの手を取って教えている。穏やかな雰囲気の中で、手習いを指導する眞鶴の姿には、ある種の神々しさすらあった。


「眞鶴殿は、いつもこうしておられるのですか?」


 雷蔵の問いに、小坊主は頷いた。


「ええ、三日に一度。ああして百姓の子どもに読み書きや算術、時に御伽噺おとぎばなしなど話して下さる事もあるようです」

「なんと」

「これは、眞鶴殿の御主人がしていた事なのです」

「御主人?」


 雷蔵は思わず声を挙げてしまった。それは落胆故の事だが、眞鶴の年恰好を思えば結婚していたとしても不思議ではない。


「昨年亡くなりましたが、その意思を継いでいるのです、眞鶴殿は。村の者は皆慕っております」


寡婦かふか……)


 雷蔵は、そう思って胸を撫で下ろしたが、


(いや、何を考えているのだ俺は)


 と、次の瞬間には、自らの浅ましさを雷蔵は嫌悪した。

 それから雷蔵は、寺の庫裡で暫く待った。小坊主が呼ぶと言ったが、流石にあの雰囲気を邪魔するわけにもいかず、それを固辞したのだ。


「雷蔵様」


 手習いを終えた眞鶴が現れた。


「来て下さったのですね」


 そう言って、口許に笑みを浮かべた。薄幸な印象があるが、雷蔵は自分の心が吸い込まれる感覚を覚えた。


「ええ、近くまで寄りましたので」

「ふふ。嬉しゅうございます」

「私は、ただ」

「これから我が家に来て下さいまし。ちょうど昼時でございますし」

「しかし」

「どうぞ、ご遠慮なさらずに」


 村の外れにある眞鶴の屋敷は、笹の生垣に囲まれ、質素であるが趣きのあるものだった。

 例えるならば、隠士の草庵。亡き夫の趣味なのだろうが、教養ある眞鶴には似合うように見える。

 雷蔵は囲炉裏がある一間に案内され、ささやかな歓待を受けた。


「急でしたから、何の準備もないのですが」


 と、出されたのは、菜の花のおひたしや土筆つくしの卵とじ、筍飯などだ。銚子もついてある。出来合いと言っていたが、彩が豊かな膳に眞鶴の奥ゆかしさを感じた。

 緊張していた。このような美しいひとと、二人でいる事に。折角の料理も、味を感じない。雷蔵は何とか平静を取り戻そうと、箸を進めながら身の上について色々と訊いた。

 眞鶴は、天領・豆牟田まめむたで私塾を開く学者の娘で、その弟子と夫婦になり夜須に移り住んだという。小坊主が言ったように、夫は昨年亡くなったと言った。何でも、宇美津への旅行中に、卒中で倒れたらしい。


「すみません。込み入った事を訊いてしまって」


 眞鶴の横顔に、深いかげりを見て取った雷蔵は、慌てて頭を下げた。


「平山様、謝らないで下さいまし。女は強いのですよ。勿論、悲しいのですが、少しずつ遠い記憶になりつつあります」


 そう言うと、眞鶴は銚子を差し出し、雷蔵は慌てて猪口を飲み干して酌を受けた。

 元服して覚えた酒の味。慣れていないとは言え、この酒が上等な代物である事ぐらいは判った。

 眞鶴の料理と酌で、したたかに酒を飲んだ。緊張と高揚もあってか、自分の酒量以上に過ぎてしまい、気付けば眠り込んでしまっていた。

 目が覚めると、夜の帳が下りていた。

 吐息を感じて上を向くと、眞鶴の顔が眼前にあった。


「眞鶴殿……」


 息を飲んだ。何故? どうして? と、考えるよりも先に、薄絹越しに香る甘い匂いに目眩がしそうになった。


「雷蔵様、わたくし」

「いけません、斯様な事を。眞鶴殿のような方が」


 雷蔵は、今すぐ抱すくめいた欲望を抑えて言った。


「いいのです。私は夫に先立たれた独り身。遠慮はいりません。好きに抱いて下さいませ」

「……」

「その為に、来たのでございましょう?」


 返答に詰まり、息を飲んだ。女の匂い。しっとりとした、肌の感触。そして、温もり。それに抗う理性が飛んだ。


「この眞鶴に、全てを任せて下さいまし」


 囁かれ、耳を舐められた。何がどうして。そして、急に。疑問は浮かんだが、思考が緩慢になるばかりだ。

 抗いようはない。打ち寄せる、快感の波。もう、どうなってもいい。丹念に舌を這わせる眞鶴に、雷蔵は身の自由を委ねていた。

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