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狼の裔~念真流血風譚~  作者: 筑前助広
第五章 寂滅の秋(とき)
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間隙 波乱への胎動(前編)

 添田甲斐の朝は早い。

 まだ夜も明けきらぬ払暁前に床を抜け出し、顔を洗い身支度を行う。

 その頃には、古女房のおえんが朝餉を作り終えているので、それを半刻ほどかけてゆっくりと食す。そうしていると、執事の木下弥兵衛が朝の挨拶に現れ、耳に入れるべき報告をする。その後、駕籠に揺られ登城するのだ。

 この日も、城下の家老屋敷から駕籠に揺られ、藩庁を目指していた。


(今日も今日とて忙しいのだろうよ)


 甲斐は、憂鬱気味に溜息を吐いた。

 ここ最近は、激務が続いている。疲れも溜まり、どうも気分が冴えないのだ。

 本当は、利景の死と共に隠居するつもりだった。殉死は固く禁じられていたので、せめて隠居と思ったのだが、それも禁じられた。


「夜須は、まだまだ先生のお力が必要です」


 病床で、利景にそう言われた。人払いをした、二人の時である。

 先生、と呼ばれた。蘭学を学んでいた甲斐は、幼き利景を指導していたのだ。学問の師。それがいつしか、利景の器量に魅せられ軍師のようなものになり、兄の利之を押し退け藩主にまで登らせた。

 生まれは、長崎。浪人の子で、オランダ商館で下働きをしながら、語学・数学・工学・法学・商学を学んだ。夜須藩に雇われたのは、商館長カピタンの妻に手を出したからだ。商館に雇われた破落戸ごろつきに追われ、それを救うという条件で夜須藩に雇われた。そうでなければ、こんな辺鄙な山奥になど来る事はなかった。


(あれから二十余年……)


 利景と組んで犬山派を追い落とし、広く人材を求め、改革を進めた。そうした自分は、既に学者ではない。言うなれば、権力の犬である。

 もう六十を迎えようとしている。四人の息子は既に長じ、その全員を夜須ではなく他の親藩譜代藩に仕えさせた。

 夜須の添田家は自分限り。そして、全ては利景の為。そのつもりで仕えてきたのだ。息子達に、何かを残すつもりはない。

 藩庁の御用部屋に入ると、祐筆ゆうひつが既に待っていた。

 祐筆は六人いて、全員が十代から二十代前半と若い。この六人は、甲斐が藩校から直々に見出した者達だ。祐筆として使いながら育て、ある程度の力がついたら、役人として独り立ちさせている。

 人材は宝だ。利景が常々そう言っていた。甲斐もそう思えばこそ、自費でこのような事をしている。

 六人から、それぞれ報告を聞いた。時には、質問をしたりする。それが的外れだった場合は、容赦なく追い出す。それを繰り返した場合は、祐筆そのものを解雇する。


「厳し過ぎるのではないか?」


 と、一度だけ利景に言われた事がある。それに対して甲斐は、


「御家のみならず、藩士ひいては民百姓の命を預かる立場になるのです。これでも生ぬるうございます」


 それで、利景は納得した。我ながら厳し過ぎると思う事もあるが、それほど冷酷にならねば、一流と呼ばれる官吏を育てる事など出来ないのだ。

 報告を聞くに、民政は滞りなく動いている。町奉行に任じた、羽合掃部の力量があればこそだろう。最近では、騒ぎ出した勤王派を早々に捕縛し首を刎ねた。


(羽合は出来る男だのう)


 甲斐は、いずれは若年寄に昇進させようと思っている。羽合の才能は稀有なものだ。政治家としての手腕だけなら、ゆうに自分を超えている。今の内から、藩政全体を見る事に慣れさせるべきだろう。

 他にも諸事の報告を受けた。が、祐筆から話されるものに、機密性の高いものは少ない。重要な情報は、別の経路から入るようになっている。

 祐筆を下がらせると、書類仕事に取り掛かった。祐筆の報告だけでなく、各部署の毎日の報告を文書でも吸い上げるのだ。それを非番の日以外は、全て目を通す。これは利景と決めた事で、今も続けている。

 その報告書を読むだけで、昼になった。家老は昼で下城していい事になっているが、帰る事は滅多にない。午後は相賀を呼び、彼が担当している地蔵台の開墾について話し合う予定にしていた。

 地蔵台は、夜須の北部に広がる谷戸やとと原野が広がる一帯である。土は肥えているが、水源が遠い為に集落もなく、手付かずの自然が残っていた。

 地蔵台が開墾されると、夜須の懐はかなり豊かになる。その成果に期待はしているが、この地蔵台での開墾は、立藩以来三度も失敗しているので、甲斐も注意深く見守っていた。

 その相賀が自ら訪ねて来たのは、昼餉を平らげた後だった。

 相賀は甲斐が最も頼りにする中老で、恐らく自分の後継となるのは、この男であろう。


「自分ならこのぐらいは出来て当たり前」


 という強烈な自負を持ち、利景の改革実現に貢献してきた。


「これは奇遇だな。これからお前を呼ぼうとしていたのよ」

「火急の知らせです」


 相賀が、甲斐の言葉を無視するように言った。元々相賀はこうした男だが、今回はその声色に緊迫さが込められている。


「どうした?」


 思い当たる事と言えば、兵部が無断で京都を離れた一件だ。しかもその後、貴人を同伴させ江戸城へ入っている。その情報は、清記から得たものだ。その清記は、何と伊達継村あら聞かされたというのだ。すぐに真偽を探らせたが、兵部の途城と拝謁は本当らしい。


「御別家様が、夜須に入られています」

「とうとう戻って来たか」


 相賀が頷く。


「会われますか? 今は城下の屋敷におられるとの事ですが」

「そうだな。早速……いや、登城するように命じろ。栄生の血筋だが、今は犬山家の者。儂の方が職位は上だ」

「わかりました」

「問い質す事は多い。特に江戸城途上の一件だ。お前も質問を準備しておけ」


◆◇◆◇◆◇◆◇


 兵部が寵臣を引き連れて登城したのは、次の日の事だった。

 寵臣は江上弥形部の一子で、八十太夫という若者だ。その弥形部は、清記が役目で斬っている。

 相賀と並んで兵部を迎え入れた。


「これは、ご家老」


 まず兵部が開口一番、京都を無断で離れた事を詫びた。

 だが兵部のかおは、詫びながらも不敵にわらっていた。

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