七話
「私のどこを気に入ってくださったのでしょうか?」
いつもは婚約者である俺と二人きりのお茶会でも素の態度を見せていたエミリーが、緊張したような様子で、強い視線を向けながら俺にそう聞いてきた。
今、目の前にいる彼女は、まるで毛を逆立て警戒をしている猫のようだった。
最近の彼女は、少しは俺を意識をしてくれているようだった。その変化を嬉しく思っていたが、まさかそこから挑むような目を向けられながら、自分のどこを好きなのかと問われるとは思ってもいなかった。
そういう真っ直ぐなところも彼女らしいと思いながらも、さてどう説明したものかと、俺は考えを巡らせた。
俺の王妃の息子で、国王の次男であるというのは、中々複雑な立場だった。
兄のフェルナンドは長兄ではあるが、母親は側妃。どちらが次代を担うかは、非常に複雑な問題であった。
しかし、俺と母の住んでいた離宮にいた大人たちは、皆口を揃えて、幼かった俺にレックス殿下こそが王位を受け継ぐに相応しいと言ってきた。
その頃の俺は、無知であるが故に純粋で、それだけ自分は皆に期待をされているのだと思っていた。しかし普通に考えれば、俺たちの下で働く者たちが、俺が王太子になるのを望むことは当然のことだった。彼らは俺の資質も見ていてくれたのかもしれないが、それよりも自分の担いでいる御輿に王座を取ってほしいという欲の方がきっと大きかっただろう。
俺はそんな大人たちの言葉を鵜呑みにし、子供ながらに懸命に努力をした。その努力は、成長し、ある程度周囲のおべっかを理解してからも、己のために続けた。
そのおかげもあって、俺は学業、剣術などにおいてフェルナンドより優秀な成績を修めることができた。そうなると徐々に周囲の目も変わり、本心から俺に王位を受け継いで欲しいと言ってくれる人も増えてきた。
血筋、能力、周囲からの期待。それらから、俺は心のどこかで王太子になるのは自分だろうと思っていたのだろう。陛下が、ミレッタ侯爵令嬢との婚約をもってフェルナンドを王太子にすると宣言されたとき、ぽっかりと心に大きな穴が空いてしまった。
積み重ねたものを一瞬で崩されてしまったような気持ちだった。しかも、その理由が陛下が側妃を寵愛しているからということだったことも、俺の虚しさに拍車をかけた。
俺の問題であれば、フェルナンドの資質が理由であれば、もう少し納得することができただろう。意地で表には出さなかったが、それを境に俺は色々なことに諦めを覚えてしまった。所詮自分は指し手ではなく駒なのだと、割り切ることで理不尽を無理やり飲み込んだのだった。
そんなことを知るよしもない大人たちは、己の主義や正義、利益のために、懲りることなく俺を王太子にしようと様々な言葉を囁いてきた。
「王家の血筋を正しく引かれているのは貴方です、レックス殿下。見た目しか取り柄のないようなあの女の子供が王太子など間違っているのです」
「陛下もレックス殿下のすばらしさをきちんと知ってくだされば、すぐに目を覚まされます」
「いくらフェルナンド殿下の婚約者が帝国に連なる者であろうと、優秀だろうと、やはり大事なのは本人の資質なのです。優秀なレックス殿下こそ、次代に相応しい」
最初に俺にエミリーの話を持ってきたのも、そんな有象無象を吹き込みに来る人間の一人だった。
「フェルナンド殿下の婚約者に新しく妹ができたことはご存知でしょうか?」
表面上だけはにこやかにそう話しかけてきた大人の顔には、他人の弱みを見つけた人間特有の粘っこさがあった。
ミレッタ侯爵令嬢の父親が再婚したという噂は聞こえてきていた。このタイミングで妹ということは連れ子がいたということか。そんなことを思いながら、俺は黙って男に話の続きを促した。
「その妹と言うのが、なんでも夫人が存命中に生まれていた妾腹だとか。ミレッタ侯爵令嬢がいくら帝国と血縁があろうとも、そのような家の娘を王家に迎えるなど醜聞になりかねませんな」
どうすれば己の手柄でもない話をここまで自慢げに話せるのだろうか。そう内心呆れながらこの話を聞いたときには、エミリーについて俺は特に関心を向けていなかった。平民から急に侯爵令嬢になった上に、こうして大人たちの思惑に巻き込まれることを少し不憫には思ったが、次の日には思い起こすこともない程度だった。
そうしてすっかりエミリーのことなど忘れていたが、そこから数年経った頃に、俺はまた彼女の名前をよく聞くこととなった。
それは整った容姿を噂するものもあったが、ほとんどは姉であるミレッタ侯爵令嬢との確執を囁くものであった。
平民から侯爵令嬢となり、懸命に努力を重ねる健気な妹と、それを認めず、虐める姉。皆、エミリーのことをまるで悲劇のヒロインであるかのように語っていた。
耳に入る噂はそのような類のものが多かったが、俺の知る限りミレッタ侯爵令嬢はそんな下らない虐めをするような人ではなかった。
さらにその頃にはエミリーとフェルナンドが親しげに話す姿も見られていたため、彼女はフェルナンドを陥れることで、俺に恩を売ろうとしているのではないかと言ってくる大人までいた。
それらもあって、俺はエミリーを少し警戒するようになっていた。彼女もまた俺に王太子になるよう押し付けてくる分子の一人なのかもしれないと、俺は疑っていた。
だから王宮で開催された同年代の子女を集めたお茶会で彼女を見かけたとき、俺は不自然にならないように気を付けながら彼女を避けた。
王太子になってほしいと期待を向けられることにはもう慣れてはいたが、だからと言ってそんな勝手な他人の願望をいなすことに、進んで労力を割きたいとは思わなかったからだ。
そうして俺は気を張っていた訳だが、お茶会の最中、当のエミリーは俺に関心など寄せる仕草すら見せなかった。俺は見事に見向きすらされていなかった。彼女が視線を、注意を向けていたのは姉であるミレッタ嬢だけだった。
俺は拍子抜けするのと同時に、なぜ彼女がそんなことをするのか俄然、興味がわいた。何のために姉に悪評が向くよう仕立てているのか、知りたくなった。
生まれながらの貴族で、髪の毛の一本に至るまで侯爵令嬢たるミレッタ嬢と、急に貴族へと転身した市井育ちのエミリー。彼女が何を企み、ミレッタ嬢を貶めようとしているかは分からなかったが、彼女たち姉妹の持っているものの差は歴然だった。教養、周囲との関係性、積み上げてきたものがミレッタ嬢とエミリーでは段違いだった。
そんな圧倒的に不利な状況でありながらも、諦めずに突き進める理由を、俺はどうしても知ってみたくなった。
ミレッタ嬢の周囲には高位貴族も多く、エミリーの意図する方向に物事が進んでいないように見えることも多々あった。しかし、それでもエミリーは飽くことなく足掻き続けていた。どんな不利な状況でも、彼女の言葉を不審に思う者がいても、彼女は諦めなかった。
俺は諦念と共に受け入れてしまったのに、なぜ彼女は行動し続けることができるのだろう。疑問が深まれば深まるほど、彼女への興味は加速していった。
そうして彼女を知っていく中で、俺はエミリーの出生の秘密を知った。そして彼女の本当の父親である現侯爵の兄の身に起こった真実も知った。
それらのことと、エミリーがときおりミレッタ嬢に向ける焦燥感にも似た視線から、俺は彼女の意図について結論を出した。
彼女の真の目的は、姉を引きずりおろして自分が王太子の婚約者になることなどでもなく、フェルナンドを失脚させて俺を王太子にすることでもなく、ミレッタ嬢を王宮の手から解放することなのだろう。亡くなってしまったエミリーの本当の父親の姿をミレッタ嬢に重ねて、彼女を救おうとしているのだと思った。
途方もない、無茶な目標だと思った。王宮の決定を、彼女のようなたった一人の令嬢が覆せるものかと思った。
しかしそんな俺の予想とは裏腹に、フェルナンドが単純であったことも味方し、エミリーはどんどんその手を詰めていった。
その様を見ている中で、俺は気がつけば彼女に夢中になっていた。理不尽を、無茶をはねのける強かさが眩しくてならなかった。その憧れのような気持は、いつしか恋心となっていった。
彼女の隣に立ちたい。彼女の隣に立てる自分になりたい。そう思ったら、かつて諦めと共に蓋をしたはずの熱意が、ふつふつと腹の底から沸きあがってきた。
「どうしても手にしたい女性がいます」
そう母に打ち明けに行ったのは、その熱意が冷めやらぬうちだった。
母は珍しく驚いた顔を俺に見せたが、すぐににまりと楽しそうに笑うと、俺に続きを促してきた。
「相手はフェルナンドの婚約者であるミレッタ嬢の妹のエミリー嬢です」
「ああ、あの『可哀想な妹』ぶっている子ね。確かに見目麗しいお嬢さんだけど、どうして彼女なの?」
「その可哀想ぶっている姿に惹かれたからです」
「ふふっ!あはは!貴方が彼女に執心だとは聞いていたけど、思っていたより面白い理由のようね。いいわ、詳しく聞かせて頂戴」
そこから俺は彼女の行動の目的、俺が彼女に惹かれた理由について説明をした。全てを聞いた母はもう一度楽しそうに笑ってから、俺にこう言った。
「陛下が誰を寵愛するかは勝手だけど、それが今後のこの国に影響するのはどうかと思っていたところよ。そうね、このままフェルナンドが能力を高めることがなく、かつ、あの子が目的を達成してフェルナンドが失脚したら、貴方たちのことを認めてあげましょう」
「ありがとうございます、母上」
「それまでに貴方も自分を十分に高めておきなさい。地位にはそれに見合う能力が求められます」
「心得ております。必ずや相応しい人間となってみせます」
「その言葉、覚えておくわ。楽しみにしていますよ」
「——そうして俺は陰ながら君の手助けをしつつ、自分のための努力も積み重ねたんだ。そして、フェルナンドが婚約破棄を言い出して、君が目的を達成したところからは、君も知っている通りだよ」
かいつまんでにはなったが、俺がエミリーのことを知り、彼女に惹かれ、今に至るまでの経緯を説明した。恋心を自白することは正直気恥ずかしかったが、ここまで来れば今更だと思い、全て素直に話した。
俺の話が一段落着いたところで、難しい顔をして黙って話を聞いていたエミリーが、おずおずといった様子で口を開いた。
「その、そんな昔から私のことを見てくださっていたなんて、私、全然知りませんでした」
「腹芸には多少の自信はあるつもりだよ。ま、それより何より君は俺には関心を示してなかったしね」
「それは、その」
気まずそうな顔をするエミリーに、俺はそのことは別に気にしていないことを伝えた。
「いいよ、君はそれだけ自分の目的を見ていたということだからね。そんな君に惹かれたのだけれど、婚約してからもちっともこっちを向いてくれないからね。つい魔が差して、いきなりあんなことを言ってしまった訳なんだよ」
我ながら子供っぽいことをしたと思うが、自分ばかりが意識をしているのが悔しいように思えて、つい勢いに任せてあんな風に彼女に気持ちを伝えてしまった。本当はもっと雰囲気のある告白も考えていたが、それまでも俺の甘い言葉は演技と流されていたから、これはこれでよかったのかもしれなかった。
未だに目の前で緊張したように縮こまる彼女に、俺はゆっくりと言葉を伝えた。
「君はどうしてと言ったが、俺は君がミレッタ嬢にしてきたことを見て、君を意識したんだよ。エミリー、君の過去も全てと言うとおこがましいかもしれないが、これまで君がしてきたことも含めて、俺は君が好きなんだ」
俺の言葉に、目の前の可愛い人は頬をぼっと赤く染めた。今までにない反応に、これは脈があるということだといいなと思いながら、俺は彼女の返事を待った。
結局その日彼女からもらえた返事は「お友達からなら!」という、なんとも言えないものだった。お友達もなにも我々は既に婚約者だがと思ったが、まずは俺のことをしっかりと知ろうとしてくれるようなので、野暮なことは言わず、笑顔で了承した。
そこからエミリーは宣言通り、公務や周囲に見せるための交流以外でも、俺との時間を意識して取ってくれるようになった。俺の取り組んでいる執務について質問をしてきたり、剣術の鍛練にも見学に来たりしてくれた。
俺の個人的なことについても、彼女は色々と聞いてくれた。
好きな本は何かと聞かれたので、自室の本棚からおすすめを何冊か見繕って渡した。意外にも彼女が気に入ったのは、俺が少年の頃に夢中になった冒険譚だった。今では本棚の半分は、既に彼女が読んだものとなっていた。
好きな食べ物は何かと聞かれたので、時間が取れるときは昼食を共にし、そこに俺の好物を出してもらった。その食事の最中に、既に城を辞しているが、かつて俺の世話をしてくれていた乳母が作るカスタードのパイが好きだったという話をしたところ、エミリーはわざわざ彼女に連絡を取ってくれた。懐かしい笑顔と共にパイがサプライズで届けられ、彼女の前だというのに俺は危うく涙ぐみそうになった。
そうしてエミリーとの距離は縮まっているように感じたが、ときおり俺を意識するような仕草は見せてくれるものの、基本的に彼女のスタンスは告白前と変わらなかった。しかし、王子としてではなく、俺個人を見てもらえる日々は、想像していたより遥かに幸せなものだった。
誰かを好きになった以上、その心が欲しいと思うのは当然のことだろう。俺だって例外ではない。けれど、例え俺の抱えている気持ちと同じものが彼女から返ってこなくても、こうして俺と向き合ってくれる彼女とこの先共に歩めるだけで、十分幸せかもしれないと俺は思い始めていた。
そうしている間に月日は流れ、俺とエミリーは結婚をした。婚約後に彼女が積み重ねてくれた努力や、きめ細やかな社交界での対応のおかげで、今や彼女は誰もが認める王太子妃となっていた。
結婚式の当日は、起きてからずっと、エミリーと共に『仲睦まじい理想の二人』の姿をいつも以上に周囲に見せた。
式の最中も、その後のパレードの間も、その日は隣を見ればずっと幸せそうに頬を染める彼女がいた。普段に増して美しく輝く彼女の側にいられて、俺は演技でもなんでもなく、心の底から幸せだった。
それは夢心地のような一日だった。例えそれが仮初めのものであっても、俺はその幸せを存分に噛み締めた。そして、その日の夜、使用人により寝支度を整えられた俺は、夢から醒めて、現実と向き合うため、新たに俺たちの寝室となった部屋へと足を踏み入れた。
「疲れただろう?」
そう声をかけると、寝間着の上に薄いショールを羽織って、ソファの端に座っていたエミリーがこちらを振り向いた。部屋の明かりが絞られているのもあるが、その顔に昼間と同じような輝きは見られなかった。
それも当然だろう。彼女はこれから結婚を命じられた相手と一晩を過ごさねばならないのだ。
この国の次代を担う王太子である俺には、王家の血を受け継ぐ子供が必ず求められる。王族において、血縁のない養子など決して許されない。俺の子を産むこと、それはこの結婚で彼女に課される義務の一つだった。
俺としてはエミリーに無理強いはしたくなかった。ただの先延ばしにしか過ぎないが、彼女が望むなら、今夜はただこの部屋で過ごすだけでもいいと俺は思っていた。
「エミリー、今日は君も疲れただろう。色々気にしてくれているかもしれないが、今夜はゆっくり休むといい。まあでも俺が同じ部屋にいるから、気が休まりきらないかもしれないが」
エミリーの座るソファに少し距離を空け座り、言い訳のような言葉を先にこちらからかけたのは、彼女からはっきりとノーを突きつけられるのが怖かったからだろう。なんとも情けないと自嘲していると、ぼすりと急に頭に何か柔らかいものが当たった。
「……エミリー?」
頭に当たったものの正体は、ソファに備え付けられていたクッションだった。それを俺の頭に押し付けてきたエミリーの意図が見えず、名前を呼ぶと、そこには目に溢れんばかりの涙を湛えた姿があった。
「ご、ごめん。そんなに嫌だったとは……」
慌ててソファから立ち上がり、さらに距離を取ろうとすると、今度は勢いよくクッションを投げつけられた。
反射的にそれを受け止め、投げつけてきたエミリーに視線をやると、ちょうど彼女の涙が決壊し、頬をつうと伝うところだった。
そんな状況ではなかったが、その涙に思わず見入っていると、エミリーが涙を流しながらもこちらを睨み付けてきた。
「バカ!鈍感!何なのよ嫌だとか、ゆっくり休めだとか!人のことをさんざん鈍いって言ったけど、貴方だって鈍いにもほどがあるわ!」
バカバカと言いながら、はらはらと涙を流す彼女を、俺は茫然と眺めていた。まさか、と思った。願望から自分の都合のいい解釈をしているのではないかと思おうとした。しかし、何度反芻しても、彼女から投げかけられた言葉の意味は、そうとしか理解できなかった。
小さく唾を飲み込んでから、一歩分だけ距離を詰めて、潤むエミリーの瞳を真っ直ぐに見つめながら俺はこう言った。
「俺はお友達以上になれていたんだな」
彼女を泣かせてしまっているのに、嬉しくて、少し浮ついた表情になってしまった。締まらない顔をしているだろう俺に向けて、彼女は唇を尖らせたままこう答えてくれた。
「バカね、今日旦那様になったばっかりじゃない」
彼女の頬に赤みが少し差していることに気が付いて、更に愛おしさがこみあげてきた。
「うん。ありがとう。今思い出したよ」
そう言って俺はもう一歩分、彼女との距離を詰めた。
そうして俺とエミリーは、名実ともに夫婦となった。しかし妻となってからも、エミリーは俺への態度を甘くすることなどなく、彼女のスタンスは変わらなかった。
しかし忙しい公務の中でも俺との時間を取ってくれ、側で自然体でいてくれることが彼女の愛情表現なのだと今の俺は知っていた。そんな彼女に飾らない自分を見せ、他愛もない話をする。紛れもなくそれは幸せだった。
そこから数ヶ月経ち、俺たちが夫婦としてすっかり馴染んだ頃、ミレッタ嬢の結婚式が執り行われた。エミリーと共に招待された俺は、彼女のすぐ隣で、彼女ががむしゃらに救おうとした姉の晴れ姿を見守った。
その日の主役である花嫁は、フェルナンドといたときには見せたことのないような柔らかな表情をしていた。あれがきっと本来の彼女なのだろう。そんな幸せそうな姉の背中を、エミリーは一心に見つめていた。
隣にいる俺のことなど全く眼中にないようなその態度に、少し嫉妬心のようなものがわきそうなほどだった。しかしそれは心中にだけに押し留めておいて、彼女が自分を犠牲にしてでも救おうとした姉の幸せを感じ入る姿を見守った。
「声を掛けなくてよかったのかい?形式ばった挨拶しかしていないだろう」
式場を離れる時間が迫って来たときに、俺はエミリーにそう声を掛けた。彼女の努力の結果が、今日こうしてミレッタ嬢の幸せと言う形で花開いたのだ。掛けたい言葉の一つや二つ、あるのではないかと思った。
しかしエミリーは小さく首を振り、視線は姉の晴れ姿から外さぬままこう答えた。
「いいの。お姉様にとって私は良くない存在だもの」
ミレッタ嬢の今の幸せがあるのは、エミリーのおかげだ。彼女の働きなくして、今の状況は起こりえなかっただろう。それなのに君はそれでいいのか、そう問おうと思ったが、彼女の表情を見て、俺はその言葉を口にするのをやめた。
そのときのエミリーの表情には、姉に真実を打ち明けられない悲しみや後悔などは、微塵も見られなかった。そこにあったのは己の信念を貫く強さと、姉の幸せをただ喜ぶ気持ちだけだった。
エミリーがそう決めたのなら、外野は何も言うべきではないだろう。けれども、彼女の努力を知る人間として、どうしても彼女に声を掛けたかった俺は、考えた結果、こうとだけ彼女に伝えた。
「今日の花嫁は本当に幸せそうだな」
するとエミリーは、ミレッタ嬢に負けないような幸せそうな表情でこう返してくれた。
「本当にそう見えますか?そうであれば、本当に、よかった」
瞳を潤ませながらそう言った彼女の言葉は、微かに震えていた。きっとこれが彼女が心から望んでいたことだったのだろう。
そこまで姉を想いながらも、彼女はミレッタ嬢の悪評を消すために動いても、姉の誤解を解くために動く様子は見られなかった。恨まれる覚悟で始めたことのけじめを、最後までつけるつもりのようだった。
「君のことも同じぐらい幸せにするよ」
周囲の音にかき消されるほどの小さな声で、しかし彼女に負けないほどの確固たる気持ちで、誓うように俺はそう言葉を紡いだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
感想等含め、何かございましたら下の拍手ボタンかメッセージからご連絡をお願いいたします。特定の作品に関する場合は、お手数ですが作品名の記載もお願いいたします。返信が必要なものはメッセージからお願いいたします。




