六話
王宮に居を移してからの日々は、多忙を極めた。
侯爵家の一員となった日から、ずっと勉強は続けてきた。母さんには最低限でいいわよと言われていたが、お姉様の計画のこともあったので、学べる機会のあるものは全て取り組んできた。
だから、王宮での教育にもある程度ついていけるのではないかと思っていた。しかし、ここでは求められるレベルが全く違っていた。
毎日が勉強漬けだった。このレベルの教育を、教師が太鼓判を押すほどこなしていたお姉様のすごさを、私は改めて実感した。
「根を詰めすぎていないかい?」
定期的に開催される、使用人も完全に下がらせた二人きりのお茶会で、レックス殿下は毎回、最初に私にそう聞いてきた。
「今の私に必要なことですので」
それにそう簡潔に答えるのも、毎回のことだった。
そこから私たち二人の会話は、大きく盛り上がることなく続いていくのが、いつものことだった。
私は王子様に憧れていた訳でもないし、この国のお妃様になりたかった訳でもない。がんばって勉強はしていたが、それも別にこの人のためなどではなかった。立場として必要とされているからしているだけだった。誰かのためというなら、お姉様の妹としてみっともないことはできないという思いの方が、よっぽど強かった。
そのため、周囲の目のないところで、腹黒い私の本性を知るこの人相手に取り繕う必要もないと思っていた。もちろん相手は王族だし、これから長い時間を共に過ごす相手であるので尊重はしている。でも、過度に接待をする気はなかった。
よそ行き用の愛想のいい私の仮面を外した結果、私たちの会話は静かな、淡々としたものとなっていた。それなのに、相変わらずレックス殿下はどこか楽しそうに私の正面に座っていた。
二人きりのときはそんな態度だったが、人目のあるところでは王子様に愛される幸せな女の子を全力で演じた。唐突に王太子とその婚約者に選ばれた私たちには、常に誰かしらの視線が向けられていた。
外ではあくまでも、私たちは相思相愛の二人でなければならなかった。
殿下が微笑みかけてくれば、それにとろけるような作り笑顔で応じた。歯の浮くようなセリフには、恥じらいながらも嬉しそうな顔をしてみせた。優しい視線と共に差し出されるレックス殿下の手を、はにかみながら取った。
どういう顔で微笑めば、他人に受けるかはよく知っている。母さんに譲ってもらったこの整った容姿を全力で活かした。
しかし、さすがは王宮だけあって、私の技量だけでは対応できないことも多々あった。小さなミスをあげつらわれたり、本当はレックス殿下を慕っていないのではと遠回しに指摘されることもあった。
王妃様の根回しや、レックス殿下の手助けにカバーしてもらいながら、私は何とか大きなミスをすることなく過ごしていた。
神経をすり減らす毎日に、クタクタになるときもあった。そうなるとなお、外面を取り繕う必要のないレックス殿下との二人きりのお茶会は静かなものとなった。
そんな態度をとる私に、殿下は文句の一つもおっしゃらなかった。いつも穏やかに私の前に座っていた。
その日もレックス殿下との時間が設けられていたが、前日に同じ年頃のご令嬢たちとのお茶会があったため、私は疲れていた。
彼女たちの実家のパワーバランスを考慮しながら会話を振り、自慢にならない程度に殿下との仲を印象づける。席の配置、用意するお菓子、当日の衣装、どれを取っても気を抜くことはできなかった。
そのため、その日のレックス殿下とのお茶会の最中も、私は静かに過ごしていた。窓から入る風にカーテンが揺れるささやかな音さえも聞こえそうな沈黙の中でも、目の前の王子様はどこか楽しそうにしていた。
何が彼をそうさせているのだろう。疲れで気が緩んでいたのもあって、ずっと思っていた疑問を私はつい口にしてしまった。
「どうしてそんな楽しげにされているんですか?」
しばらく黙っていた私から急に話しかけたからか、レックス殿下は少し驚いたような顔をされた。そして、そのあとに口元を手で隠しながら、軽く咳払いをした。
「ん、私はそんな顔をしていたかな?」
これは誤魔化そうとされているのだろうか。そう思ったが、聞いてすぐに「そうでもなかったです」と答えるのも変かと思った。どうせ気になっていたことだし、覆水はもう盆には返らないのだ。この際、聞いてしまおうと私は思った。
「はい。私は、その正直あまりいい態度を取っていませんのに、どうしてでしょうか?」
言ってから中々傲慢な質問だなと思ったが、開き直って殿下の返事を待った。彼は少し考えた後、視線を私に戻してこう答えた。
「君がそういう態度をするのは、私の前だけだろう?気を許されているというか、特別な存在になれている気がして、悪くなく思っているんだよ」
それは予想外の返答内容だった。殿下と王妃様は私のことをおもしろいと評していたし、私はてっきり珍しい生き物を観察でもしているような気分でいるとか、そういう答えが返ってくると思っていた。
「確かに、他ではこんな態度取っていませんが。むしろ気分を害されたりしていないんでしょうか?」
高貴な身分すぎて、むしろ雑に扱われるのが新鮮で嬉しいのだろうか。そんな失礼なことを考えていた私に、殿下は真剣な顔でこう答えた。
「する訳がないよ。大体、好きな子といて機嫌の悪くなる人間ってそういないんじゃないかな?」
「やはり、私から好意を持たれているとは思っていなかったようだね」
沈黙を破ったのは、やや苦笑いをしながらそう言ったレックス殿下のお言葉だった。好きな子、好きな子?私はいまだ殿下のおっしゃった言葉を飲み込みきれないままだったが、殿下の質問に答えるために、ぎこちなく首を縦に振った。
「まあ、薄々そうじゃないかとは思っていたけどね」
確かに今までの私の態度は、自分に好意を持ってくれている人に示すようなものではなかった。この人と遠くない将来に夫婦になるのは理解していたが、まさか異性として好意を持たれているとは思ってもいなかった。
正直、私は社交界での動きが王妃様の目に留まったために選ばれただけの存在なのだと思っていた。そこにレックス殿下の意思というか気持ちがあるとは思っていなかった。
「結構気持ちを表していたつもりだけど、君のことだ、仲睦まじく見せるための演技だとでも思っていたんだろう?」
私は殿下の気持ちにすら気づいていなかったのに、こちらのことは完全に見抜かれていた。どう答えていいかが分からず、先程までとは別の理由で黙った私に、レックス殿下はにこやかにこうおっしゃった。
「あれは俺の本心だよ。これからは、そういうつもりで向き合って」
レックス殿下の発言のせいで、お茶会の前と後では世界が変わってしまった。
お茶会の終わり、別れ際に「名残惜しいな。次にこうして二人で会えるのを心待ちにしているよ」などと言って、私の手に殿下が唇を落とすのはいつものことだった。唇が離れたあと、殿下がキラキラした金髪の前髪の間からこちらを見つめてくるのも、何も変わっていなかった。
けれど、今はそれを受け取る私が変わってしまった。今までは結構な演技力で、と受け流せていたのに、言葉も仕草も彼の本心だと知ってしまっていた。
「私も寂しいですわ」と、甘えた声で余裕を持って返せていた私は、もうどこにもいなかった。人目のあるところで隙を見せてはいけないと分かっているのに、殿下に返す言葉が何も浮かんでこなかった。
結局私は、もごもごと何も返せぬまま、レックス殿下の前を辞した。
そこからはもうガタガタだった。レックス殿下の前でうまく振る舞えないのはもちろん、他の人と彼の話題を話すときも、どこかぎこちなくなってしまった。
そんなとき、皆が何かを言いたそうにこちらをじっと見ることには気がついていた。ボロが出てしまっていることは分かっていたが、私はどうすることもできずにいた。
そうして一週間ほど過ごしたある日、私は王妃様からの呼び出しを受けた。
用件は特に聞いておらず、お茶のお誘いだと言われているが、十中八九レックス殿下への態度のことでお叱りを受けると思った。
自分でも、ここ最近の対応の悪さは自覚していた。潔く怒られて、できればアドバイスをいただこう。そう腹を括って、王妃様に指定されたサンルームへと足を運んだ。
日の光が明るく差し込む部屋で対峙したのは、ご機嫌に見えるほどにこやかな王妃様だった。さすが王妃様ともなると、腹の内を不用意に見せることはないのだなと感心していると、こう声をかけられた。
「最近、レックスとの仲をうまく見せてくれているようね。皆からも、そのように聞いております」
「え?」
身構えていたところに思ってもいなかった言葉をかけられて、私は思わず声を漏らしてしまった。そんな私を王妃様は少し怪訝そうに見やった。
「ふーん。無自覚だったのね」
「申し訳ありません。私、何かしでかしてしまったのでしょうか?」
「ふふっしでかしたどころではないわよ。皆、最近の貴女のことで持ちきりよ」
王妃様はとても楽しそうに笑いながら、こうおっしゃった。
「初々しい反応が可愛らしい、初恋を思い出す、とかね。あの子のことを意識してくれているのが、いい効果を発揮しているわよ」
「い、意識……」
「していないの?」
してないと答えるには、言われてみれば思い当たる節が多すぎた。王妃様に指摘されて、私はやっとレックス殿下を意識してしまっていたのだと気付かされた。
「フェルナンドのことはあんなに上手くあしらってたのに。これは、うちの息子は脈があるってことかしら?」
フェルナンド殿下のときは、頼ったり、おだてたり、自分から好意を向けられるように仕掛けたような部分があった。それにフェルナンド殿下は、私を素直でか弱い、姉に虐められる可哀想な妹だと信じていたはずだった。
でもレックス殿下には、そんなことはしていなかった。仲睦まじく見せる演技はしていたが、殿下はあれが演技だと十分理解されていたはずだった。それにあの方は、お姉様にしたことも含め、可愛いか弱い妹なんかじゃない、私の素顔を知っていた。
どこにも好かれる要素が思いつかなかった。それなのに、彼は確かに私を好きだと言った。
訳が分からなかった。色々考えすぎて、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「レックス殿下のことを意識していたのは確かです。でも、好意というより、殿下は私の本性をご存じのはずなのに、どうしてなんだろうっていう戸惑いの方が大きいです」
王妃様相手に虚勢を張っても意味はないため、私は素直に心の内を明かした。そんな私に、王妃様はさっぱりとこうおっしゃった。
「他人の気持ちを推し量ろうなんてことは、土台無理よ。本人に聞かなければ分からないわ」
「殿下に私のどこが気に入ったんですかって聞くんでしょうか?」
まさかそんなはずないですよね?というつもりで聞いた質問は、真面目な顔をした王妃様にあっさり肯定された。
「そうよ。政略とはいえ夫婦になるのですもの。これから腹を割って話さなければならないことは、いくらでも出てきますよ。練習とでも思って聞いてみなさい」
王妃様とのお茶会の後も、私はかけられたお言葉をずっと反芻していた。相手の本音など聞いてみなければ分からない。それが正論なのは分かっていたが、中々踏み出す勇気が出なかった。
しかし、お茶会の最後に「分かっているでしょうけど、初々しさが受けるのは最初だけよ」という釘も刺されていた。いつまでも問題を保留にすることは許されていなかった。
考えに考えたが、王妃様のお言葉通りレックス殿下のお気持ちを私がうかがい知れるはずもなかった。私は観念し、次の殿下とのお茶会で殿下に質問をぶつける決意を固めた。
「今日は随分難しい顔をしているね」
いつもと違い、その日の二人きりのお茶会で、レックス殿下から最初にそう声を掛けられた。殿下と二人きりであるとはいえ、そう察せられてしまう顔をしていたことを反省しながらも、私はこれは話を切り出すチャンスなのではとも思っていた。
どうせ今日聞かなければならないと思っていたし、この流れに乗って言ってしまおう。そう思った私は、決意を固めるように短く息を吸い込んでから、こう答えた。
「はい、今日はレックス殿下に伺いたいことがあるのです」
「私に?何かな?」
こちらばかりが意識をして、向こうが余裕のある顔をしているのを少し悔しく思った。半ばやけっぱちのような気持ちで、私は殿下にこの数日考え続けていたことを聞いた。
「先日のお話です。その、私のことを、好きだと言う。殿下は私の本性をご存じでしょう?それなのに、私のどこを気に入ってくださったのでしょうか?」




