五話
私、エミリーがその日記帳を見つけたのは偶然だった。
その日、私は母さんが仕事に出ている間に、母さんのクローゼットを勝手に開けていた。その頃、年相応に大人っぽい服装への憧れを募らせていた私は、前に一度だけ見た母さんのよそ行きのワンピースを身に着けてみたいと思っていた。そのため、母のクローゼットをこっそり探っていたのだった。
クローゼットの奥まで探したが、お目当てのワンピースは見付からなかった。もしかして、いい服だったから別のところに仕舞い込んでいるのかも。そう思った私はダイニングからイスを持ってきて、クローゼットの上の戸棚まで捜索の範囲を広げることにした。
戸棚の中には、いくつかの箱が置かれていた。それらを全部取り出して、宝探しでもするような気持で、ドキドキしながら私は箱を一つずつ開けていった。
しかし、そんな期待を裏切るかのように、箱の中身は男物の古着だったり、保存食を入れるための瓶だったりで、私をときめかせるようなものは何も見つからなかった。とうとう残る箱は一個だけになり、どうか素敵なものが入っていますようにと願いながら、私は最後の箱を開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、ただの白い布だった。この箱もハズレかと思いながらその布を何気なく摘むと、その下にキラリと輝くものが見えた。
萎みかけていた気持ちが、期待で一気に膨らんだ。ドキドキしながらその布をどけると、下から綺麗な装飾が施された本が現れた。
先ほど見えた輝きは、どうやらその本の表紙の金色の部分だったようだった。手に取ってみると、キラキラと複雑な模様が描かれた表紙も綺麗だったが、横から見える紙の色も真っ白で、子供の私でも一目で高価だと分かるようなものだった。
どうして我が家にこんなものがあるんだろうと思いつつも、わき上がる好奇心に後押しされながら、私はその本の最初のページをめくった。
まず目に飛び込んできたのは、教会で勉強を教わるときに使っている教本に書かれている文字よりもはるかに美しい文字たちだった。少し色の薄い、質の悪いインクで書かれているはずなのに、それは文字だけで品というものが伝わってくるような気にさせるようなものだった。
その雰囲気に圧倒されながら、私は美しい文字で書かれたその本を読み始めた。
最初はどんな荘厳なストーリーが書かれているのかと思っていたが、文字こそ美しいが、その内容はごくありふれた下町の日常が描かれた日記であった。ただ、この日記を書いた人、どうやら大人の男の人はそんなものをひどく愛おしそうに綴っていた。
『黒パンをスープに浸して食べる。彼女はこんな固いパンがあるのねと苦笑いをしていたが、私は固いが故にこうして二人でゆっくりと食べ進めるのも悪くないと思った』
『周りの光が少ないからか、星の瞬きが強いように感じる。こうして穏やかな気持ちで夜空を眺められることを、とても幸せに感じる』
『屋台で温かなコーヒーを一杯買って彼女と分け合った。彼女の好みだという甘いものにしたが、私には少し甘すぎたようだった。しかし彼女が美味しいと笑う笑顔が見られれば、私にはそれで十分だった』
『彼女』と生きる日常に対する愛情が、そこかしこに散りばめられていた。私は温かな気持ちになりながら、続きを読んだ。
穏やかなありふれた日常が続いたある日、珍しくいつもの綺麗な文字が少し乱れているページが現れた。逸るように書かれたその日の記録には、こう書かれていた。
『大変だ!彼女が子供を授かった!ああ、私がこんな幸せな気持ちで父親になれる日が来ようとは!名前、産着、ああ何から取りかかればいいのか』
そこからは『彼女』に加え、産まれてくる子供の話が中心となった。パラパラと読み飛ばしながら、過保護なほど心配をする様子を見守り続けると、ついに日記はその子供の誕生の日を迎えた。
『男というものは無力だ。私は痛みに耐える彼女の手を握ることしかできなかった。しかし彼女は苦しみを乗り越え、無事女の子を産んでくれた。ああ、なんて可愛い。奇跡とはこのことか。君以上の存在などこの世にはいないと思った』
そこまで読んで、私は一旦、彼の日記を読む手を止めた。父親というものを知らない私からすると、この赤ちゃんには羨ましいばかりの愛情が注がれていた。それは胸を苦しく感じさせるほどのものであった。
こんな思いをするほどなら、もう読むのは止めようか。そう思いつつも、私は惰性でパラリと次のページをめくった。
すると、そこには信じられない言葉が書かれていた。
『エミリー、最愛の我が娘。生まれてきてくれて、ありがとう』
一瞬、綴られていた言葉が理解できなかった。何かを確かめるように文字を指でなぞったが、何度見ても、そこには間違いなく『エミリー』と書かれていた。
「父さん……?」
零れた声は震えていた。今までどこか架空のストーリーのように読んでいた日記が、一気に現実に降りてきた。
よく考えれば赤の他人の日記が家にあるはずもない。それに、そう思って読めば、静かでおっとりとした、甘党の『彼女』は、全て母さんに当てはまるように感じた。
そうして、私は美しい文字たちの中に自分の父親を見つけたのだった。
父さんの日記は全部で3冊あった。母さんが帰って来るまでに全てを読み切るのは難しいと思ったため、私はこっそりと日記を自分の部屋に持ち帰った。
その日からは、夜に自分の部屋で父さんの日記を読むのが日課になった。最初に手に取った日記は、私が産まれた後、父さんが病気で亡くなるまでの日々が綴られていた。
日記には後半になるにつれ、体調への不安も増えていったが、大部分は私や母さんへの想いで溢れていた。大きくなった私と一緒に本を読みたい、手を繋いで歩きたい、興味のあるものを共に見つけてあげたいなど、私としたいこともたくさん書かれていた。
記憶の中に父さんとの思い出はほとんどなかった。しかし、日記を読み進めるほど、どれだけ自分が愛されていたかを知ることができた。まるで父さんが残してくれた愛情を遅れて受け取っているような気持ちになった。
もちろん日記なので、幸せなことばかりが書かれている訳ではなかった。病気のこと以外でも、不安や後悔などが、そこには正直に吐き出されていた。
『この病魔は全てを投げ捨ててきた私への罰なのだろうか』
『弟に私と同じような重責と苦しみを与えてしまっているのかもしれない』
『戻りたいとは思わない。しかし、正しかったのかは今でも分からない』
まるで直視することを避けるかのように、父さんの悩んでいることについて、具体的に触れられている箇所はなかった。しかし、確かに過去に何かあったことだけは、間違いなく読み取れた。
そうして、大きな幸福と小さな疑問を胸に残したまま、私は一冊目の日記を読み終わった。
その余韻を残したまま、私は二冊目の日記を手に取った。早速開いてみたところ、最初のページに書かれた日付が、一冊目と比べずいぶんと昔のものであることに、まず気が付いた。もしかしたら父さんの独身時代の日記だろうか。少しドキドキしながら、私は視線をページへと落とした。
一冊目と同じく穏やかな日々が綴られているだろうと思っていたが、その予想は大きく外れた。そこには信じられないようなことばかりが書かれていた。
領地経営、夜会への参加、共に事業を行う伯爵家との打ち合わせ。一冊目では目にすることがなかった単語が、ずらりと並んでいた。
思わず一冊目の日記を再び開き、両方に書かれた文字を見比べてしまった。しかし、そこに書かれた美麗な文字はどちらも同じで、それは間違いなく父さんの筆跡だった。
混乱しながらも、二冊目の日記を読み進めた。一冊目とは違い、難しい単語も多く、分からない部分も多かった。しかし、一つだけ、はっきりと分かったことがあった。
それは、私の父親は貴族、それも侯爵家の人間であることだった。
到底、信じられるようなものではなかった。しかし、それを書いた文字も、言葉の癖も、間違いなく私と母さんへの愛情を綴っていたものと同じであった。
一冊目とは違う理由で、ページをめくる手が途中で止まった。この先に書かれているであろう真実を知るのが怖くなった。
知ると後悔するかもしれないと思った。しかし、知ることも怖かったが、知らないでいることもまた不安だった。
しばらく迷ったが、結局その不安に押しやられるかのように、私は再び日記の続きを追った。
日記を読むことに没頭していたため、気が付くと窓からは明るい朝陽が差し込んでいた。睡眠不足とは別の理由でも痛む頭を抱えながら、私は一晩かけて読んだ日記の内容を反芻した。
私の父親は侯爵家の跡取り。これは間違いない。そして、母親は恐らく没落した伯爵家の令嬢。
そんな二人は母さんの家の没落を機に、貴族という身分を捨て、下町へと降りてきたようだった。
しかし、母さんの家の没落は、父さんが貴族をやめるきっかけにはなったが、直接的な原因ではなかったようだった。二冊目の日記には、貴族として生きていた頃の父さんの苦痛が詰まっていた。
それは悲痛な叫びであった。綴られた言葉から、息苦しさすら感じるほどであった。
貴族らしく生きられない己への失望、嫡子であるが故に押しかかる重責、なまじ勉学ができたため周囲から向けられた嫉妬と期待、領民への責任感。父を取り巻く様々なものが、その身をがんじがらめにしていた。
優秀で責任感があり、真面目であったがために、父さんは深く傷つき、そして己を責めていた。心と体をすり減らし、溺れるように生きていた。
『思うことは色々あるが、あのとき逃げることを選んでよかったと思う』
一冊目の日記に書かれていた言葉の意味が、やっと理解できた。父さんはあのまま貴族でいたら、きっと心か体を壊してしまっていただろう。
父さんの日記を全て読み終わった後も、私はときおり寝る前に日記を読み返していた。自分が成長するにつれ、初めて読んだときには理解できなかったことが分かったり、受け取る印象が変わったりした。
何かを迷ったりしたときに思い起こすことはあったが、父さんの日記は私にとってあくまでも過去の、遠い世界の話であった。自分の生きる日々に、直接関係するようなものではなかった。
しかしあの日、私は父の生きた世界に急に引きずり込まれた。叔父であるはずの人を『お父様』と呼び、その人の子として、侯爵令嬢になることとなった。
本当の父親ではない人が『お父様』となり、父さんがもがき苦しんだ世界で生きることとなった。混乱したが、本当の父さんを誰よりも知るはずの母さんがそれを受け入れていた。
日記を勝手に読んだことは、母さんにも言っていなかった。告白して今の状況の詳細を聞きたかったが、どこか覚悟を決めたような母さんに真意を聞くことができなかった。
不安だった。父でない、叔父であるはずの人を『お父様』だと母さんが言うことも、おどろおどろしい貴族の世界に足を入れなければならないことも、ガラリと変わった環境も、全てが怖かった。
しかし、それを誰に吐き出していいか分からなかった。そんな出口のない袋小路のような不安の中に、清浄な光を差し込んでくれた人がいた。
それがお姉様だった。
きっと正確な私の不安の原因は、お姉様も分かっていなかっただろう。だけど、あの人は私の目を見て微笑んでくれた。大丈夫よと、手を包んでくれた。私の少し前を、守るように、導くように、寄り添うように歩いてくれた。
そんなお姉様を好きにならない理由がなかった。お父様のことは分からないままであったが、この人を姉と呼べるなら、それも悪くないと思ったぐらいだった。
この家にやって来てすぐの頃は、それでよかった。環境に戸惑いつつも、お姉様がいてくれたし、肉親である母さんも側にいた。私は怯えながらも、少しずつ自分の足で歩ける範囲を拡げていけばいいだけだった。
しかし、そうして見えるものが増えてくると、私はあることに気が付いた。
それはお姉様が、私の父さんにひどく似ているということだった。
優秀で真面目で優しくて、頑張りすぎる人。この清濁入り交じる世界で、真っ直ぐすぎる人。
そのことに気づいたとき、真っ先に思い出したのは父さんの日記のことだった。傷付き、もがき苦しむ父の言葉だった。
お姉様にそんな思いをさせたくないと思った。この人を守りたいと、私は強く思った。
もちろん、初めはちゃんとした正当な方法で守るつもりだった。お姉様に胸を張れるような方法で、今度は私が守るようにあの人の前に立つつもりだった。
でも、現実を知れば知るほど、それがどれだけ難しいかも見えてきた。私には、綺麗な方法でお姉様を守るだけの力がなかった。
だから、自分にできることを必死に考えた。お姉様を王宮という社交界の一番深い場所から救いだすために、私にできることを探り続けた。
その結果たどり着いたのが、お姉様を『意地悪な姉』とすることだった。
お姉様を王太子の婚約者という立場から解放するために、私が取れる手段はそれしかなかった。
しかし、なるべくお姉様の名誉は傷付けたくなかった。変な偽りで、お父様と父さんのこの家に迷惑もかけたくなかった。
だから、直接的なことは言わず、人のミスリードを誘って状況をコントロールすることにした。
あくまでも嘘は言わない。そして、お姉様に明確な瑕疵も付けないように注意した。
全部終わった後に、苦しく聞こえるとしても「そちらの誤解なのでは?」と言えるようにした。
私の作り出した状況に傷付くお姉様の姿に、胸が痛んだ。しかし目的のためには必要なのだと、唇を噛みしめながら計画を続行した。
うまく行かないかもしれないと思っていたが、フェルナンド殿下が単純なことも手伝って、私はついに目的を達成した。王宮からお姉様を解放することに成功した。
それなのに、まさかその代償として自分が目をつけられるとは思っていなかった。元々、自分のことは二の次にしていた。お姉様のことを誤解させた、卑怯な妹と見られても構わないと思っていた。
しかし、これは予想外の結果だった。
「後悔してるかい?」
婚約者同士の交流という名目のもと調えられたお茶会の席で、目の前の見目麗しい王子様は、ゆったりと微笑みながら私にそうおっしゃった。
この人も、王妃様と同じく、私がお姉様にしたことを知っている。今さら猫を被っても仕方ないかと思って、私は正直なところを吐き出した。
「後悔はしていません。お姉様の枷を外すことができましたもの」
「その代わりに君は捕らわれてしまったのに?」
投げ掛けられた言葉は軽そうな響きであったが、正面に座るレックス殿下は思いの外、真面目な表情をされていた。それに応えるように、私も偽りのない心情を伝えた。
「私はお姉様よりはここで生きるのに向いております。それに貴族の娘となったからには、いつかは嫁がねばならないでしょう。殿下には私の性根もバレていますし、今さら繕わなくてもいいと思えばそう悪くはないと思います」
我ながら、王族相手に中々失礼なセリフだとは思った。しかし、当のレックス殿下は、何故か悪くなさそうな顔をされていた。




