四話
小汚ない下町で、必死に日々を生きていたある日、私は母さんから「エミリー、明日からお父様のところに行くわよ」と言われた。それは唐突な話だった。
てっきり死んでいるとばかり思っていた父親の話を急にされ、私は混乱した。
「私の父さん?生きていたの?」そう聞いたが、「お父様のところに行く」の一点張りで、母さんは詳細については何も教えてくれなかった。よく分からない状況であったが、母さんに急かされるままに私は荷造りを行った。
翌日、私たちを迎えに来たのは、それまで見たこともないような豪華な馬車だった。訳も分からぬまま柔らかな座り心地の馬車に乗せられ、連れていかれたところは、大きな大きなお屋敷だった。
お城みたいなお屋敷に迎え入れられ、キラキラしたドレスに着せ替えられた。その日私はただのエミリーから、侯爵令嬢エミリー・クレメンドに変わった。
そこからの変化は劇的だった。目にするもの全てが変化した。見たこともない豪華な食べ物、華やかな服、広い部屋、そして私なんかにかしずく使用人たち。夢ですら見たこともないような生活が私を待っていた。
何もかもが、それまで生きてきた中で触れてきたものと違っていた。おとぎ話の世界にでも迷い混んだような気分だった。それらのきらびやかで、非現実的とさえ思えるものの中でも、平民として生きていた私から見て、最も輝いて見えるものがあった。
それがミレッタお姉様だった。
ミレッタお姉様は美しい人だった。私が持つ男たちが喜ぶ甘ったるい、見せかけだけの美とは違って、内面の知性だとか、高潔さがにじみ出てくるような、そんな美しさを持つ人だった。
いきなり父親の愛人の娘としてお姉様の家に招き入れられた私は、彼女に忌避されても当然の存在だった。その上、この家に来た頃の私はただの平民でマナーも教養も何もなくて、お辞儀一つまともにできない小汚ない子供だった。
下町でさえ、父親がおらず、周囲に馴染めない母をもつ私は、周囲から下に見られるような存在だった。にこやかに近づいてくるように見える人もいたが、彼らは大概私の容姿を気に入り、下心を隠し持っていた。
それなのに、彼女はそんな私に嫌な顔一つ見せることはなかった。初めから私に優しく微笑みかけてきた。
初対面の日、握手のために差し出されたミレッタお姉様の手は、日の光を浴びたことがあるのかと疑いたくなるほど、白く美しいものであった。
その綺麗な手で、彼女は少しもためらうことなく私のあかぎれのある荒れた手に触れた。
清廉潔白で、心の有り様まで美しい人だった。悪意を向けられても腐らず、己を律し、あの人は正しくあり続けていた。下町でうまく生きるために腹の中で毒づきながらも、唇で美しく弧を描く私とは正反対の生き物だった。
けれど美しい反面、とても危うい人だとも思った。正しくて、優しくて、まじめ。この汚い世界では生きづらい人だと思った。
私のその最初に抱いたイメージは大きく外れてはいないようで、お姉様に近づく人間の中には、表面上は味方のような振りをしながらも、彼女を上手く利用しようとする人が多くいた。
お姉様は誰もが羨むものを多くのものを持っていた癖に、あまりにも真っ直ぐだった。そのため、そこに付け込もうとする悪意に、よく狙われていた。
私も彼らと同じく、そんなミレッタお姉様の美点であり弱点である部分を、私のある目的を達成するために利用した。卑怯な手を尽くし、彼女を『腹違いの妹を虐める姉』に仕立て上げた。
例えば昔、ピアノのレッスンをお姉様にお願いしていた頃、「まだまだ下手で、他の人に聞かれるのは恥ずかしいんです」なんてセリフをモジモジしながら言えば、簡単にお姉様と部屋で二人きりになることができた。
バカな人。第三者の目がない場所なんて、どんな嘘を仕立て上げられても反論が難しくなるのに。
ひねくれた私と違って、笑顔を向けてくる他人がそんなことを仕掛けてくるとは思わなかったのだろう。
そうして屋敷の使用人から始めて、徐々にお姉様の周囲の人間に虚偽のイメージを植え付けていった。ときに思わせ振りな演技をして、ときに侯爵令嬢という新たに得た地位の力を使って、私はそれを進めていった。
さすがにお姉様をよく知るお父様や専属侍女は騙しきれなかったようだけど、お姉様の婚約者であったフェルナンド殿下までもが、私の思惑通り彼女を疑うようになっていった。
フェルナンド殿下は長らく婚約者としてお姉様と接していたはずなのに、簡単にこちらの味方にすることができた。殿下が腹にくすぶらせていたお姉様に対するコンプレックスをつついてやれば、すぐだった。
ミレッタお姉様は優秀で正しい人だ。だから色々足りないあの殿下に、よく助言をしたり、正論を説いたりしていた。
お姉様は間違ったことは言っていなかっただろう。けど、正しいからと言って殿下がそれを気持ちよく受け入れられるはずなどなかった。
だから彼の自尊心をくすぐるために、ちょっとしたことで彼を頼り、大袈裟に感謝を示した。
「さすがですわ、フェルナンド殿下!」
「こんな頼りになる方がお側にいてくださるなんて、ミレッタお姉様は幸せ者ですね」
上目遣いで、目をきらめかせながらそう言えば、殿下はコロリとこちらに落ちてきた。
そうなるとあとは簡単で、フェルナンド殿下は私の曖昧な言葉を、裏付けも取らずに私の思惑通りに受け取ってくるようになった。そうして王太子を味方につければ、もう勝負はあったも同然だった。
中にはお姉様が本当に虐めをしていたかを疑問に思っている人もいただろうが、殿下の意見に逆らってまでそれを表す人はいなかった。他人の家の姉妹喧嘩など、わざわざ王族と異なる意見を出すような話ではないから当然だろう。
そうして社交界の誰もが表面上は私を可哀想な妹として扱うようになった。
私が『可哀想な妹』の立場を確かなものにしつつあったあの日、私はフェルナンド殿下から王宮に呼び出され、お姉様の婚約破棄の場に同席することとなった。
フェルナンド殿下からは味方になるというところを越えて、あからさまな好意を示されるようにまでなっていた。それまでも遠慮をするような言葉で殿下の好意から、のらりくらりと逃れていた。けれど、まさかあんな場でプロポーズ紛いなことを言い出すとは思ってもいなかった。
驚きはしたが、今までと同じように間違っても嫌悪感は出さず、遠慮をする体で殿下の話をやんわりと断わった。確かに好意を得られるように仕向けたし、それを利用もさせてもらった。しかし私はフェルナンド殿下を好きな訳でも、殿下の婚約者になりたい訳でもなかったからだ。
その後、フェルナンド殿下の悪足掻きはあったが、殿下とミレッタお姉様の婚約は破棄された。長らく求め続けていた願いが成就するのを、私は目の前で見守った。ああ、これで私の目的もきっと達成される。こんな馬鹿なことを、やっと止められる。お姉様をこれ以上傷付けなくて済む。
お姉様がポロポロと涙を流すのを見つめつつ、私はそっと安堵の息をついた。
今回の騒動で、ミレッタお姉様は王族の婚約者ではなくなったし、フェルナンド殿下も王太子の立場が怪しくなり、私に粉をかけるどころではなくなった。
もう王族とあれほど密接に関わることは二度とないだろうと思っていた私のもとへ、その王宮から手紙が届いたのは、お姉様の騒動のすぐ翌日のことだった。
王太子を降ろされたフェルナンド殿下の母親である側妃様からの怒りのお呼びだしかと思いながら封筒を確認すると、予想外にも差出人は王妃様だった。
側妃様から叱責されるのも面倒だけど、レックス殿下の母親である王妃様から、貴女のお陰で私の息子が王太子になれたわと言われるのも、同じぐらい面倒なことになりそうだった。
そう思ったが、王妃様からの招待を私なんかが断れるはずなどなかった。私は『よかったらいらして』という実質的な命令に従い、再び王宮に出向くこととなった。
前回は呼び出された理由が分からなかったので万全の用意で臨んだが、今回は少しばかりマナーを外して、子供っぽい雰囲気の格好で王宮へ出向いた。王妃様の招待に充分に応えることなどできない振りをすることで、権力争いの最前線に組み込まれることを避けたいと思ったからだった。
リボンの装飾が多い、甘ったるいドレスに身を包み、私は嫌々王宮へと向かった。
使用人に案内された場所は、バラが品よく咲き誇る美しい庭園の一角であった。緊張に身を固くしてイスに座りながら待っていると、しばらくして王妃様と彼女の息子であるレックス殿下が現れた。
王妃様は私の姿を認めると、少しだけ笑みを深めた。この甘いドレスが狙った効果を出せているといいのだけれどと思いながら、私は頭を深く下げた。
「クレメンド侯爵令嬢、来てくれてありがとう。私、貴女と少し話してみたかったの」
「ありがとうございます、王妃様。大変、光栄なことでございます」
「ふふ、そんなに固くならないで。今日は息子も同席させてね。さ、レックス、挨拶をして」
「クレメンド侯爵令嬢、母のわがままに応えてくれてありがとう」
「レックス殿下。いえ、お声がけいただいたこと大変嬉しく存じます」
次期王太子と目されているレックス殿下も同席する。予想外の事態に、私は嫌な予感がしていた。今すぐここから逃げ出したいと思ったが、既に二人と同じ席に着いている状態でそんなことができるはずもなかった。
私は腹をくくって、服装に合わせた少し幼稚な笑顔をわざとらしく浮かべた。
レックス殿下も交えた会話は、私の心中はさておき、和やかに進んでいった。賢しく見えないように、失礼のない範囲で無邪気に見えるように懸命に振る舞っていると、会話の途中で王妃様がくつくつと笑いだした。
「ふふ、ふふふ。レックス、貴方に聞いていた通り面白い子ね、エミリー侯爵令嬢は」
「そうでしょう、母上。私が彼女を気に入った理由、分かっていただけましたか?」
目の前の親子のとんでもない会話に、思わず素が出そうになった。まさか、まさかと思っていると目を細めた王妃様が、楽しげなままこうおっしゃった。
「ええ、姉より余程、王宮向きね」
「と、とんでもございません!」
失礼を承知で言葉を遮るように声を上げた。自分がお姉様と違って性格が悪いのは分かっている。実際、誉められたものではない手段でお姉様の評判を落とした。
私は自分の目的のために、それを決行した。その因果は全て受け止めるつもりでいた。しかし、まさかこんなことが起こるとは思っていなかった。
焦る私を楽しげに見つめながら、王妃様はこうおっしゃった。
「あら、あんなに社交界をうまく渡り歩いておいて、王宮から声がかかるとは思っていなかったの?だとしたら、まだまだ鍛えなきゃいけないところがありそうね」
「あの、王妃様、一体何のお話でしょうか?」
とぼけた振りをして、何とかこの話題から逃れられないかと足掻こうとした。しかし、王妃様はそんなことを許してくれるような甘い相手ではなかった。
「その可愛らしい演技は、この場ではもう不要よ。単刀直入に言うわ。貴女の狡猾さ、気に入ったわ。レックスの妻として、王宮にいらっしゃい」
向けられる言葉も、表情も、全て柔らかなものであった。視線は慈愛に満ちているようにすら見えた。でも、それは有無を言わさぬ命令であった。
無駄な足掻きだと知りつつも、私は王妃様にこう答えた。
「で、ですが私は元平民ですし、王族に嫁げるような身ではございません」
「あら、貴女の母親は元伯爵家の人間でしょう。実家は没落しているとはいえ、平民の血筋ではないでしょう。それに貴女は歴とした侯爵家の者なんだし、問題はないわ。むしろ、長子相続の考えから見れば、侯爵家の正統な血筋は貴女の方でしょう?」
何てことないように、お姉様も知らないはずの自分の出自のことを告げられ、私は言葉を失った。
「息子のお嫁さんにしたいお嬢さんのことですもの。最低限のことは調べているわ。母親のことはもちろん、父親のこともね。貴女、その社交界をうまく渡り歩けるところは父親とは真逆のようね」
浮かべられる優雅な微笑が、恐ろしく見えた。本当の父のことも含め、この人には私のことが筒抜けなのだろうと思った。
「ね、悪い話ではないでしょう?王子様に見初められるなんて女の子の憧れじゃない。それに私、思うの」
にこやかに、優しげに、言葉は続けられた。
「貴女がここへ来れば、貴女の目的は確実に達成される、とね」
誰にも悟らせてはいないと思っていた私がミレッタお姉様を陥れた本当の理由を、この人は理解している。その言葉を聞いた瞬間、そう思った。
何かを反論しなければ、完全に取り込まれる。抗おうとしたが、焦りからか、恐れからか、思考がうまくまとまらなかった。何も言えずにいた私に、王妃様は聖母のような表情でこうおっしゃった。
「姉の評判を落としてでも、自分が姉に憎まれてでも、彼女を王族の婚約者から降ろして、この王宮から逃したかったのでしょう?その判断は賢明だったと思うわ。王宮という濁った沼で、清廉なあの子は生き残れなかったでしょうね。もしかしたら文字通り、生命すら脅かされていたかもしれないわ」
嫌な汗が背中を伝った。表情を取り繕う余裕すら、最早なくなっていた。
「でもその姉の評判を下げる中で、貴女はうまくやりすぎたのよ。王宮という魔物と関わりたくなかったのなら、もう少し自分を愚かに見せる努力もすべきだったわ」
過去に行ってしまったことを、今更変えることなどできない。それでも何とか逃れようとする私の心を見透かすかのように、王妃様はゆったりとこう告げた。
「貴女が嫁いでくれば、姉の自由を保証してあげるわ。それに権力を持つことは悪いことばかりではないわ。貴女が王太子妃になって、姉と仲良くする姿を見せたら彼女の悪いイメージなんてすぐ払拭できてよ。ね、悪くないでしょう?」
言葉こそ私に問いかけるものであったが、私の前に提示されていたのは、選択肢などではなかった。それは無慈悲な命令であった。
先日お姉様に優しいお言葉をかけてあの人を自由にしたのも、こうして私を捕まえる算段があったからなのだろう。全ては王妃様の手のひらの上だったのだ。この方は、私が勝てるような相手ではなかった。
毒と知りながら食べ始めたのは、他ならぬ自分だ。ならば責任を取って皿まで舐めきれと、目の前の人は言外に言っているように感じた。
一瞬のうちに、様々な考えが目まぐるしく脳内に浮かんでは消えた。しかし、どれだけ思考をめぐらせても、私が取れる選択肢は一つしか存在していなかった。
私が心中で覚悟を決めると、それを見計らったかのようにそれまで静かに座っていたレックス殿下が席から立ち上がった。そして優雅な動きで私の手を取った。
促されるままに立ち上がると、殿下は私の手を取ったままその場にひざまずいた。その流れるような仕草は、まるでよく作り込まれた優雅な舞台のワンシーンのようであった。
「エミリー侯爵令嬢、どうか私の伴侶となり、共にこの国のために生きてくれないか」
宝石みたいにキラキラと美しい深い青の瞳を見つめながら、私は最後通告を聞くような気持ちで王子様からのプロポーズの言葉を聞いた。
そうして私は、お姉様の代わりに豪華絢爛な檻へと入ることとなったのだった。
「エミリー、おめでとう。王太子妃となるお前のことを名誉に思うよ」
話が決まれば早速教育をするわよ、という王妃様の鶴の一声で、私はあの日からそのまま王宮で過ごしていた。急にレックス殿下の婚約者となった私のもとへ訪ねてきたお父様は、最初にそうお祝いの言葉をかけてくれた。
両親と面会をしているこの部屋は、入り口に警備の兵はいるが、部屋の中にいるのは父と母と私の家族三人だけだった。そのためか、口では祝いの言葉を告げていたが、両親の気持ちのあり様は表情にいくらか出てしまっていた。
特に母さんは、お父様より取り繕うのが元々不得手なのもあり、不安がはっきりと表に出ていた。私の本当の父親といい、なんとも貴族らしからぬ人たちだなと思った。
母さんに比べるとまだ落ち着いた様子のお父様に、私はこう返事をした。
「ありがとうございます、お父様。我が侯爵家のためにも、このお役目を立派に務めあげたいと思います」
「そうか。エミリー、お前ならきっとできるだろう。だが、無理はしないようにな。何かあれば私に相談をしなさい。私はいつだってお前の味方になろう」
私への心配を言葉にして、お父様はそう伝えてくれた。
この人は、恐らくだが、私がお姉様を陥れたことも、その理由も察している。だから私がお姉様にしたことについて私を叱責せず、むしろ代わるように王宮へと嫁ぐ私の心配をしてくれているのだろう。
その気持ちはありがたかったが、お姉様にしたことも含め、これは自分で蒔いた種だった。それに、王妃様の言葉ではないが、この話にメリットがあるのも間違いはなかった。
「ありがとうございます、お父様。でもご心配なさらないで。これも含めて自分で決めたことなのです。努力を重ね、やり遂げたいと思います」
「そうか。お前がそう決めたなら、私からはもう何も言うまい」
お父様は、『これも含めて』という言葉に込めた意味を正確に汲んでくれたようだった。少し逡巡する素振りは見せたが、最終的には私の決意を受け止めてくれた。
しかしそんなお父様と違い、母さんは納得ができていないようだった。
「本当に大丈夫なの、エミリー。下町で育った貴女が、王宮なんてところでやっていけるか心配よ」
母さんは元伯爵令嬢のくせに、今は社交を最低限しかしていないこともあり、私が何を意図して、何を行っていたかを、お父様ほど理解できていないようだった。
だから、そんな母さんに伝わるように、私は今まで黙っていたことを伝えることにした。
「大丈夫ですわ、お母様。レックス殿下も、私を支えてくださるとおっしゃってくれております。それに私は生まれた場所が下町だっただけですし、どうやら父親の気質は受け継いでいないようです。社交界も上手く渡り歩いてみせますわ」
母さんに似た顔ににっこりと笑顔を浮かべ、何事もないようにそう告げた。母さんは、私が本当の父親のことや、母さんのことを知っているとは思ってもいなかったのだろう。驚きで言葉をなくしていた。
「エミリー、貴女、どうしてそれを?」
「それって、私の本当の父親はそこにいる「お父様」の兄ってことでしょうか?それとも、お母様が平民の生まれではなく、没落した伯爵家のご令嬢だということでしょうか?」
私だって、あのことがなければそんな事実、知るよしもなかっただろう。もはや泣きそうな顔をしている母さんに向かって、私は過去を思い出しながらこう告げた。
「お母様、大事な日記帳はもっと厳重に隠すことをおすすめしますわ」




