敗北者-ルーザー
情報の海に生じた世界。幻想の世界において、人々は際限なく力を、その「極端」を求める。
持てる全ての能力、戦略、戦術、あらゆる「力」を駆使し、最強のゲーマーの座をかけて戦士たちが、集う。
あるところに、かつて悪魔と言われた女がいた。
彼女はある意味で人類の存在を賭けた戦いをしていた。
チェス。それは一対一で行う盤上の戦争。白と黒に分かれ、互いの駒を討り合う。
ボードゲームは世界最古のゲームであり、その歴史は紀元前にまでさかのぼり、古代の王もまた嗜んだという。
やがて、ルールが画一化され、ボードゲームの中でもチェスは世界で広く行われるようになった。ある者は言った。チェスはゲームであると同時に「スポーツ」でも「芸術」でも「科学」でもある、と。
戦いを制するためにはこれら全ての能力が必要であると言われる。
彼女はチェスのグランドマスター、事実上の世界最強のチェスプレイヤーだった。
最強の者には常に挑戦者が現れる。彼女は強かった。強すぎるが故に、彼女に挑むものは終には、いなくなってしまった。
だが、その日、久しぶり現れた挑戦者は他とは異なっていた。
相手は人間ではなく、考える機械だった。
名は「ディープブルー」。
人間と機械によるチェスの歴史は古く、1940年代から始まっているが、グランドマスターが機械と戦ったことはなかった。
それはつまり、長い人間の歴史の中で、初めて行われた、最強の人間と最強の機械との戦いだった。
彼女と「ディープブルー」の間で長く短い戦いが始まった。数日をかけて六局の勝負を行う。
結果は3勝1敗2引き分けで、人間側の勝利だった。
その日、人間が、世界最強の機械よりも強いことが証明された。多くの者が喜び、安心をした。ただし、研究者にとっては、初めて人間のグランドチャンピオンから1局であれ勝利を収めた、という功績は賞賛に値するものだった。
人間の栄光は長くは続かなかった。
翌年のことだった。彼女らの再戦が行われた。
結果は人間側の敗北。
人間はついに機械に敗北した。
この時から、チェスにおけるグランドマスターは機械のモノとなった。
研究者はこの勝利を永遠のものとするために「ディープ・ブルー」は解体され、グランドマスターであった、彼女はチェスのプロを引退。人間の名誉回復戦は行われることはできなくなってしまった。
彼女は人々から敗北者と呼ばれた。
それから、幾度となく、人間が機械に対局を挑んだが、勝利を掴むことはなかった。
東京のとある街の片隅で、彼女はバーを開いていた。
そこにある男がやってきた。
男は言った。
「お久しぶりです」
「これは珍しいお客さんがいらっしゃいましたね。何になされますか」
「おまかせします。あいかわらずですね」
「はい」
「あれからもう、十分な時が経ちました」
「はい」
「もういいんじゃないでしょうか」
彼女は答えない。
「私は、もう一度見たいですね。かつて《盤上の悪魔》と呼ばれた貴女の戦いぶりを」
彼女は笑った。
「あなたが見たいのは、かつての、腐ってもグランドマスターという称号を持つ者が、派手にやられるところでしょう」
男もまた笑った。
「戦いの結果がどうなるかはプレイヤー次第ですよ」
男は出された酒を飲むと一枚の紙切れを出すと言った。
「これが大会出場予定者のリストです」
紙切れの目を通すと彼女の表情が変わる。
彼女は言った。
「ゲームですか?」
「そうです」
「ゲームなんて私はやったことがありませんよ」
「興味はお持ちのはずです」
「なんでもお見通しですか」
「ええ。時間もあります。支援もしましょう」
彼女は両腕を組みながらしばらく考えた。
彼女は言った。
「何か、企んでいますね」
男は鼻で笑うと言った。
「そんなのはいつものことです」
彼女は、溜息をつくと、小さくほくそ笑んだ。
そして、おもむろに店の表に向かう。
店の扉にかかったオープンの札をクローズにした。




