第30話 山岳訓練⑤
後ろ足で立ち上がり私とひとみを見下ろす巨大な羆。事前学習の資料では羆は視力が良くないという事だった。きっと明け方の暗さと立ち込めている濃霧で私達は見えていなかったのだろう。だけど視力が悪い分嗅覚が優れているというから、私達の存在は認知しているはずだ。そして暗中模索の中、こうして霧が晴れて、お互いバッタリ出会ってしまったと。
私はこれ巨大な羆と対峙しながら考える。
(どうしよう。どうすればいいの?)
羆から目をそらす事は出来無い。逃げ出して背中を見せるなんて論外だ。そんな事をすれば羆は背中に襲いかかって来るだろう。私のすぐ横にはひとみがいるし、ロープの先にはエリカ達がいる。みんなを危険に合わせる訳にはいかない。そして、そして、私は班長なのだ。
私は羆を睨みながら右手を野戦服の左胸ポケットに収められているサバイバルナイフに伸ばす。正直、ここで死ぬなんて真っ平ゴメンだ。お父さんの敵を討つ前に、敵と戦うどころか羆に喰われるとか冗談じゃない。でも、そうだけど、だからといって私はここで自分だけ逃げる訳にはいかない。大事な、大切な仲間を守らなくてはならないから。ナイフ一本であの羆に勝てる訳ないのはわかってる。それでも、やらなくちゃ!
私はナイフを構える。羆からは目をそらさない。お父さん、ごめんなさい。敵討てないかもです。でも大切な仲間なんです。お母さん、七海、私の分も生きて敵討ちよろしくです。
私は自らの死を覚悟して、ひとみに現場からの離脱を命令しようとした、その時。
「咲耶、ここは私に任せて。」
え?ひとみ、それはこんな時に一番言ってはいけない台詞だよ!
「何言ってるの!私が時間を稼ぐから、みんなを連れて逃げてよ。」
「本当に大丈夫だから。私に任せて。」
あぁ、二度も言ってしまった。しかし、ひとみは落ち着き払い、そのまますっと私の一歩前に進んだ。気付けば辺りの空気は張り詰めていて、ひとみの後ろ姿は緑色の光に縁取られ、神聖なオーラを出しているよう。そして更に二歩三歩と進み、あろう事か仁王立ちする巨大な羆に両腕を広げ、羆に向かって静かに語りかけたのだ。
「あなたが冬眠前でお腹を空かしているのはわかっているわ。でもね、私達はやらなければならない事があるの。この星を侵略者から守るため戦わなければならないから、ここであなたに食べられる訳にはいかないのよ。」
ひとみと羆はそれでも暫く対峙していたけど、やがて羆は前に屈んで前足を地面に付け、「ケッ、わかったよ」と言わんばかりにふんっと盛大に鼻を鳴らし、プイとそっぽを向いて霧の中に消えて行った。
羆が霧の中に消えて行っても両腕を広げたままでいるひとみ。私は後ろからひとみを抱き締めた。
「有難うひとみ。」
ひとみは暫く何も言わなかったけど、やがてゆっくりと私の方へと向き直り、崩れるように倒れかかった。
「ひとみ!」
私は咄嗟にひとみを抱き締めて支えたけど、支え切れずにそのまま二人してしゃがみ込んでしまった。
「ひとみ、大丈夫?」
ひとみは閉じていた瞳をゆっくり開いて私を見た。
「はぁ、何が何だか。」
「それはこっちの台詞だよ。」
私が再びひとみを抱き締めると、ひとみは両腕を背中にまわし、子供をあやすようにポンポンと叩いた。
「ごめんなさい、心配かけて。」
「うん。でもどういう事なの?お陰で助かったけど。何かひとみがひとみじゃないみたいだったよ。」
ひとみは少し逡巡した後、あの時に何が起こったのか教えてくれた。
「私の実家が伊豆の神社なのは知ってるでしょ?咲耶に靖国の英霊がついて下さっているように、私にも私の神社の御祭神様がついて下さっているの。だから、あの時、御祭神が私に力を貸して下さって羆を追っ払ってくれたのよ。」
そうか、だからあの時のひとみは緑色の光を放っていたんだ。
「でも、え?野村大尉の事知ってたの?」
「野村大尉っていうのね。うん、夏休み明けてすぐに気付いたよ。まあ、この事は二人の内緒にしておこう?」
「そうだね。その方がいいよね。」
流石、本物の巫女様は凄いや。
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