第29話 山岳訓練④
それはふざけているとか、はしゃいでいるとか、そういった類の声では無かった。あまり良く聞き取れはしなかったけど、どうも切羽詰まった叫び声のようで、近くで野営している班に何事かが起きたようだった。
私は一瞬どうしようかと判断に迷ったけど、私達の班の安全にも関わる事なので様子を見に行く事にした。
とはいえ、辺り一面に立ち込めた濃霧で視界は極めて悪く、闇雲に動けば自分自身が遭難しかねない。
「ちょっと様子を見てくる。ひとみ、一瞬に来てくれる?エリカと真樹と史恵はロープを確保して待機していて。」
「「「「了解!」」」」
私はロープの先端に小さなもやい結びを作ってベルトのカラビナにかける。そしてひとみのベルトから伸びる腰綱のカラビナを伸ばしてあるロープにかけて検索隊形をとった。このようにすれば、先行して検索する私とロープを確保するエリカ達との間をひとみははぐれることなく自在に行き来できる。
ロープの元をエリカ達にはしっかりと確保してもらい、私とひとみは叫び声がした方へと向かった。
「おーい、誰かいるか?」
私とひとみは中腰の姿勢で、左右を手分けして両手両足を伸ばし検索しつつ進む。誰かが倒れていたら手先か足先が触れる筈だ。ロープの長さは50m。まだ検索距離には余裕がありそう。
すると、私の左爪先が何かに当たった。私がヘッドライトを点けると、果たして他班の男子候補生が倒れていた。
「ひとみ!」
「うん。」
私とひとみは手分けして倒れていた男子候補生の意識とバイタルサインを確認。
「わかる?」
その男子候補生は私の呼びかけにう〜んと唸った。良かった、意識はある。しかし、全身を観察すると野戦服の左肩部分が裂けて出血が認められた。
「大丈夫よ、安心して。」
「有難う。済まない。」
「どうしたの?何があったの?」
「熊だ。俺達の野営地に羆が出て、襲われたんだ。」
「「ヒグマ⁈」」
この山岳訓練に参加するに当たっての諸注意の中に、北海道の野生動物に関するものもあった。北海道には毒蛇などの有毒生物は少ないものの、羆や蝦夷狼(19世紀末に絶滅しているけど、21世紀のクローン技術で復活)などの大型肉食動物が生息している。特に羆は秋に冬眠に向けて捕食が活発になる事から要注意とあった。
私はロープを1回引っ張り、野営地にいるエリカ達班員に要救助者発見を知らせると、合図を受けた真樹と史恵がロープを伝って来た。
「咲、どうした?」
「5班の野営地が羆に襲われたの。それで倒れていた松本君を発見して。左肩を受傷しているからウチの野営地で応急処置をお願い。私達はもう少し検索してみるから。」
「了解です。二人ともくれぐれも無理はしないでね。」
真樹と史恵が松本候補生を私達の野営地へと搬送し、私は現場にて北条隊長にこれまでの経過を無線で報告した。
「2班班長朝倉から小隊長。」
「こちら小隊長、北条。どうした?」
「緊急事態発生。5班野営地に羆が出現。隊員の負傷あり。現在2班にて1名を救助、継続して付近を検索中。」
「…小隊長了解。直ちに検索を中止し避難せよ。訓練指揮本部に救助要請する。」
「了解。」
もしかしたら、これでこの訓練は中止になるかもしれない。死者がでなければいいけど。私達の装備品の中にはサバイバルナイフがあるけど、いくらなんでも羆相手にナイフ一振りで挑むのは無謀というものだ。
「ひとみ、小隊長から避難命令が出たから野営地に戻ろう。」
「わたったわ。」
私はロープを3回引っ張りエリカ達に現場からの脱出を伝えた。そしてロープを辿って野営地へ戻ろうとしたところ、何かが動く気配があり、強烈な動物の臭いがしてきた。と、同時に首すじから背中にかけてゾゾゾとうぶ毛が逆立つ。動悸も早鐘のように激しい。
(何なの、この感じは)
何か私なんかよりも遥かに大きい質量を感じるのだ。
(何かがいる!)
すると、少し風が出たようで、立ち込めていた濃霧が薄らぎ始める。そして目の前の視界が開けると、仁王立ちする巨大な羆が私とひとみを見下ろしていた。
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