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5話




 蒼太は、来年一月に出るメンズファッション雑誌の二月号の撮影で、神保町にある新英社の撮影スタジオに来ていた。蒼太はこの雑誌の専属モデルだ。来年二月号の特集は「女性に聞いた、バレンタインデートで着てほしいキュンコーデ」。ヘアメイクをしてもらい、スタイリストが用意しコーディネートした服を着て、撮影スタッフと見せ方を打ち合わせをしながら、背景が真っ白のホリゾントスタジオで撮影を進めた。

 夜七時を過ぎたころに全ての撮影は終わり、編集部のスタッフたちと一緒に近くの台湾料理の店で夕食を食べた。楽しくおしゃべりをしながら食事をしていたら、あっという間に時間は過ぎ、八時半を過ぎたころに解散となった。

 今日はマネージャーがいなかった蒼太は神保町駅から電車で帰るため、店の前でスタッフたちと別れた。駅までは近く、徒歩五分ほどだ。

 交差点で信号待ちをしていた時に、LINEの着信音が鳴った。煌からのグループLINEで、澤田と会う日時を知らせるメッセージだった。確認してOKのゆるキャラスタンプを返した。


 「『黒須』に関して何か教えてもらえたのかな」

 「薬物系のライターだって言ってたし、期待したいな」

 「流哉と蒼太が掴んでくれた手がかりもあるし、きっと大きく前進できるはずだ」


 やり取りをしていると赤信号が青に変わった。変わった音がなかったので、蒼太は合図の青信号のカウントが半分以下になったタイミングで気付いて横断歩道を渡り始めた。その時、黒いバイクが駅方面から横断歩道に侵入しようとしていた。バイクは、歩行者の蒼太に気付いて一時停止するはずだった。

 ところが、スピードを緩めることなく横断歩道を渡る蒼太に突っ込んで来た。


「!?」


 自分に向かって来たライトで危険を感知した蒼太は慌てて避けようとして足を縺れさせ、尻もちをついて転倒した。

 危険運転をしたバイクは歩行者の蒼太の存在に気付いていたはずだが、轢きそうになったことすら気にかけず被害者を無視してそのまま走り去って行った。


「大丈夫ですか!?」


 通りすがりの親切なサラリーマンが駆け寄ってくれ、蒼太の身体を心配した。救急車か警察呼ぶかと訊かれたが、転んだだけだから大丈夫だと蒼太は気遣ってくれた男性に礼を言った。本当は警察を呼ぶべきなのだろうが、大事おおごとにすることではないと判断した。

 もう十一月も後半だと言うのに気温は例年より高く、まだ厚手のコートも不要で、夜風は涼しいくらいだった。だが、背中に流れ落ちた一筋の冷や汗が、一瞬だけ蒼太を極寒の冬へと連れて行った。





 その週末。(こう)たちと澤田は、いつもと同じ店で落ち合う予定だった。夕飯時だったので店内はほぼ満席で、それぞれの個室から乾杯の声や笑い声が漏れ聞こえてくる。

 料理の匂いも漂ってくる中、先に到着した四人は飲み食いを我慢して待っていた。しかし、約束の時間を三〇分過ぎても澤田は現れない。三度目にして初めての遅刻だ。


「全然来ないな。連絡は?」

「全く。こっちからメッセージ送っても既読にもならない」

「電話してみたら?」


 蒼太が言うので、煌は澤田のスマホにかけてみた。ところが、

「おかけになった番号は、現在電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため、繋がりません」

 とアナウンスが応答しただけだった。


「電話にも出ないなんて、どうしたんだろう」

「いつも連絡が付くのに、こんなこと珍しいね」


 何か事情があって遅れているのかもしれないと、四人はもう少し待った。しかし、一時間以上待っても澤田は現れず、二度目の電話も繋がらなかった。

 四人は澤田が来るまで食事は待とうとしていたが、空腹が限界になったので、たぬき豆腐や炙り〆鯖、大山鶏の串焼き盛り合わせなどをビールのお供に食べ始めた。この日は結局ただの食事会となり、そのまま解散した。





 現在好評放送中のテレビ大洋の秋ドラマ『猛獣は眠らない』の撮影現場。この日は、都内の河川敷で最終話のロケをしていた。

 のだが。始まる前から現場はピリピリしていた。最終話の撮影だからではない。貴美(たかみ)の機嫌が、現場に入った瞬間から既に大変不機嫌だったのだ。それはもう、表情を見れば一目瞭然の不機嫌さで、挨拶するスタッフは誰も彼も猛獣を目の前にした赤子のように恐れていた。一番偉いプロデューサーすらもだ。

 それだけでなく。貴美は撮影が始まる直前に誰かに電話をかけていたのだが、「一体なにをやっているの! 早くしなさいよ!」と怒号を飛ばしていた。煌たちに配慮して一応離れた場所での電話だったのだが、関係者らがいる方まで聞こえて来るほどだった。さすが元・華丘(はなおか)歌劇団トップと言うべきか。

 しかし、いざ撮影になると役のスイッチに切り替え、いつも通りの完璧な演技をこなした。あの怒号に驚き戦いた関係者一同だったが、その俳優魂には感嘆してしまった。

 昼休憩になり、共演者の差し入れのケータリングを芝生の上に座ったりしながらそれぞれ食べていた。そんな中、煌はディレクターチェアに座って台本を開き、にらめっこをしていた。実は熱心に台本を読み込んでいるのではなく、考察ノートを見て考え込んでいた。

 失踪してから一ヶ月が経とうとしている東斗(はると)の捜索は、ついに長野県外に範囲を広げて続けられていた。だが、当時の服装や身体的特徴を聞き込みをしても誰一人として目撃者がおらず、痕跡を辿ることができていない。再び世間の注目を集めさせ、東斗をまた心ない口撃から守るために公表は伏せていたが、こんなに手がかりが掴めないとなると、公表してしまった方がいいのではと煌は考えている。

 この前、東斗の両親にもそれを相談した。しかし彼の両親は、回復した息子が再び病んでしまうことを恐れ、判断を倦ねている。煌もその心配は大いにしていた。けれど芳しくない現状を考えると、また世間から注目を浴びてしまうことになってしまったとしても、東斗の身の安全を最優先に考えるならそうするしかない、という考えを伝えた。また同じことが繰り返されたとしても、自分が必ず東斗を守ると約束して。

 賢志たちにも同じことを伝えるとやむ無しと賛成してくれ、事務所の吉田社長もその方がいいと首肯してくれた。あとは、東斗の両親が決断してくれるのを待つだけだった。


(と言うか。なんで東斗は未だに連絡をよこさないんだ)


 必要な連絡先を書いたメモは財布に入れていて、いつでも連絡ができるはずだった。なのに煌たちにしないどころか、実家にも連絡をしていないようだった。なぜ助けを求めて来ないのか。やはり近しい人物が『黒須』の共犯者で、居場所を知られて再び狙われることを恐れて連絡をしないのだろうか。

 東斗が狙われた二度目の理由は、恐らくいると思われる共犯者の意趣だと煌は考えているが、その理由も未だに見当が付かない。早く東斗を無事に助け出したいのに、時間が経過すればするほど焦燥感が募っていく。


「ケータリング食べないの?」

「ふえっ?」


 考え込んでいたところに急に話しかけられ、煌は間の抜けた返事を返してしまった。顔を上げると、声をかけたのは貴美だった。煌は慌てて台本と一緒にノートを閉じた。


「お腹、空いてないの?」


 ひと言目に何と話しかけられたのか耳に入っていなかったが、貴美が手に持っているサンドイッチとドリンクに気付き、声をかけられた意図を汲んだ。


「もう食べました」

「早いわね。台本読み込むため? でも今日は、そんな難しいシーンはなかったわよね?」

「読み込んでいたんじゃなくて、アンケートを書いていたんです」


 そう言って、予め台本の間に挟んでいたアンケート用紙を見せた。ドラマの最終回の告知で呼ばれている番組に提出するものだ。

 貴美は、煌の隣の自分のディレクターチェアに座った。


「難しい顔をするくらい難しいアンケート内容なの?」

「子供のころ得意だったことや、役者業で大変なことが、特に」

「すぐに書けそうだけれど、そんなにエピソード持ってないの?」


 子供のころの得意なことなど特になかったし、母親と二人で大変な思いをしながら生活していたことしか覚えていない。なので、役者業で大変なことの方なら考えれば何かしらある。


「特にないなら、適当に書くしかないわね」

「因みに貴美さんは、得意だったことや仕事で大変なことはありますか?」

「どうして私に訊くのよ」

「適当に書くのが苦手で。なので、参考までに」


 煌が尋ねると、貴美はちょっと困ったような顔をした。もしかして貴美も、思い付く得意なことや仕事の苦労はないのだろうか。

 十六歳で華丘歌劇団の厳しい受験を一発で合格し、練習生ののちにキキョウ組に入り、僅か三年後にトップ男優の座に登り詰め人気を博した貴美。三十三歳で退団した後に俳優としてドラマや映画に出ると、その演技力は共演した大御所俳優からも称賛された。貴美も能力に関しては公表していないので、持って生まれた能力か努力かはわからないが、華丘では早くに花を咲かせ、俳優としても引く手数多となった貴美には、その才があるのだろう。


「それじゃあ、得意なことだったらいいわよ。だけど自慢するようなことじゃないから、周りに言い触らさないでよ?」


 少し考えた貴美は注意事項を言ってから、煌の質問に答えた。


「学生のころは、絵を描くのが得意だったわ。母は褒めてはくれなかったけれど、先生や他の大人がとても褒めてくれた」

「コンクールに出したりしたんですか?」

「知らない間に出されてて、銅賞を取ったことがあったわ。私は出したくなかったのに、先生が勝手にね」

「才能があったんですね。それじゃあ俳優で成功してるのも、芸術的な感性が幼いころからあったからなんですね。そう言えば昔、こんなこと言われてましたよね。貴美さんの演技が、日本が誇る昭和の名優とそっくりだって」

「そんなことを言われた時期もあったわね……」


 その話が広まったのは、共演した大御所俳優が貴美の演技を見て「演技が似ている」と言ったのがきっかけだった。当時は彼女の生き写しとまで言われたりして少し話題になったが、貴美自身はその話題には一切触れていない。


「なんだか恥ずかしくなってきたわ。これで参考になったかしら」

「なったような、なってないような……クシュッ!」風が吹いた瞬間、煌はくしゃみをした。

「大丈夫? 暦は冬になったとは言え、まだ気温差があるものね。ちょっと待ってて」


 煌の体調を心配した貴美は、ケータリングカーから生姜入りスムージーをもらって来てくれた。

 確かに、十一月下旬になってようやく暑さのない日が来たかと思えば、次の日には急に気温が上昇したりで、身体が寒暖差に追い付くのは大変だ。ドラマの撮影スタッフの中にも、体調を崩す者もいる。煌のくしゃみもそのせいもあるが、日々夜更しをして考察をしているのも祟っているのだろう。

 煌は、貴美からスムージーをもらって飲んだ。ピリッとした生姜の辛味が、じんわりと身体を温めていってくれる。


「そう言えば。人探しはもう終わったの?」

「いいえ。まだ」

「まだ探しているの!? もう結構長いわよね。これだけ探してもまだ見つからないなんて、忍者みたい」

「本当ですね。でも、近付けるチャンスが訪れたんです」

「本当に?」

「これでようやく、事件の真相に近付けそうなんです」


 煌は、『黒須』の姿を目の前に捉えたかのような表情をする。そんな彼の表情を見た貴美は、眉を顰めた。


「危ない人に近付こうとしているのに、それでも、他の誰かに任せようとは思わないの?」

「東斗には、個人的に“借り”もあるので」

「だからって、随分お人好しで向こう見ずじゃない?」

「ですね。だからみんな、俺たちをバカだと思って傍から見てるんでしょう」


 貴美は明らかに心配してくれているのに、煌は全く気に留める様子はない。けれど、“借り”があるからと言ってもお人好しで向こう見ずだと言われるのは、もっともだと思っている。それでも、ここまで首を突っ込んだ以上、もう引き下がることはできない。

 そんな決意を胸に秘める煌に、貴美は真剣な顔付きになって話をし始める。


「仲間思いなのは、とても素晴らしいことだわ。緑川くんたちの意志を聞いた森島くんも、喜んでくれたでしょうね。だけどあなたたちが探している相手は、接触してはいけない人でしょ。どんなに警戒しながら近付いても、向こうの罠に嵌ってしまうかもしれないわよ」

「東斗の二の舞になる、ということですか」

「そう。緑川くん。悪人ていうのはね、念入りに蜘蛛の糸を張っているのよ」


 煌たちの正義感は、巧妙に画策する悪人の頭脳には勝てない。貴美はそう言って諭そうとする。


「それに、これからの生産性を考えた方がよっぽど尊敬できるわ」

「それは、仕事のことですか」

「それだけじゃないわ。あなたたちが行動したことで、森島くんがまた危険な目に遭うかもしれないのよ?」


 言われた瞬間、煌は余裕のあった表情を一瞬強張らせた。彼の中に、急にふつふつと煩慮はんりょが湧いて出る。

 貴美の指摘が、現実に起きている。

 もしかしてそれは、自分たちのせいだったのか。

 東斗の身に起こることを顧みず、気付かないうちに正義のヒーローを気取っていたんだろうか。


「それに。森島くんに続いて緑川くんたちにも何かあれば、またファンに心配させるし、悲しませることになるわ。それどころか、今度は絶望させるかも。それでもいいの?」


 貴美は、冷静な第三者からの目線で意見する。煌も真剣な顔になるが、何も答えずただ黙っていた。

 それまで出ていた太陽が、どこからともなく現れた薄灰色の雲に隠された。足元にあった自分の影が、見えない別世界へと連れ去られたように消えた。

 影とともに、自分の命の半分のように大切にしていた正義まで連れて行かれたような気がした。




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