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ウラカンレオン号の航海記録  作者: 阿蘭素実史
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4. 少女の名は

 船長も人が好い……、船内では、そんな話で持ちきりだった。

 アレックスが漂流者の少女を救助して、三日が過ぎた。彼の乗り組むスループ船の船長、エリオット・ブラックストーンは少女を医者に診せるため、ナッソーの港に引き返すという判断を下した。

 それはすなわち、「仕事をフイにして、手ぶらで帰る」ということだ。当然のように多くの船員が反対した。とりわけ猛反対したのは、航海長であり船長の娘であるレベッカだった。

 漂流者が年端もいかない娘だったことや、『記憶喪失』であることに同情は禁じ得ないが、だからと言って、見ず知らずの少女のために手ぶらで引き換えし、ただ働きのくたびれもうけををしてまでナッソーの人々や同業者に後ろ指さされるのは、お人好し過ぎる、とレベッカは主張した。

 しかし、この船のナンバーツーである副船長のローランド・モランも船長の判断に従う、とあってはレベッカや他の船員たちにそれ以上口出しは出来なかった。船の上では上下関係と規律は、自主的に守らなければならない掟がある。そのため、船員たちは渋々ナッソーへの帰投に賛同しつつ、影で「船長も人が好い」とヒソヒソ話に明け暮れていた。

 そのためか、レベッカは父親であるエリオットから「あの娘の面倒をみてやってくれ」と頼まれた時には、相当渋ったそうだ。そして、そのストレスのはけ口として、アレックスはこの三日間、ずっと愚痴を聞かされるという、ある種の苦行に直面していた。

 そんなアレックスは、少女を救助してから一度も、少女と顔を合わせていない。それと言うのも、船員たちがナッソーへの帰港に不満を抱いていることを承知しているエリオットが面会謝絶にしたためだ。血の気が多い船員たちと、少女の間に不要なトラブルが起きることを避けるためだったのだろう。

 それでも、アレックスは少女にひと目会いたいと思っていた。

 自分の助けた少女がどうしているのか気になるだけでなく、あの時に見た彼女の可憐な美しさと、かすかに聞こえた助けを求める声が忘れられなかったのだ。

 しかし、医務室は船医のレイが常在しており、簡単には忍び込めない。実際の所、何度か医務室へ忍び込もうとしたが、その度レイに見つかってつまみだされた。

 そうして、なす術なく三日が過ぎた。もうじき船はナッソーの港に到着する。おそらく今夜が最後のチャンスだ。何とかして、レイの監視をかいくぐり、医務室に忍び込まなければならない。

 アレックスは、十時間交代の見張り番の間中、マストの上で手立てを探った。だが簡単に妙案が浮かぶわけもなく、

「アレックス、交代の時間だ」

 と、交代要員が見張り台に上がってくる頃には、カリブの海に太陽の下半分が沈んでいた。

 アレックスは、がっくりと肩を落として双眼鏡を交代要員に渡すと、異常のないことを報告して、シュラウドを伝い下りた。

「お疲れ」

 甲板にたどり着いたアレックスを待ち構えていたのはレベッカだった。その良く陽に焼けた顔には、憤懣と同時に「今日もあたしの愚痴に付き合ってもらうわよ」と書いてある。

 医務室へ忍び込むための妙案が浮かばず、途方に暮れていたアレックスは、諦め半分にレベッカの愚痴に付き合うことにした。

 二人は船の縁に寄りかかり、オレンジ色と藍色の溶け合う水平線を眺めつつ、レベッカの持参したヤギのミルクを呷った。

「ったく、何処のお嬢様なのよ、あの娘! 服は自分で着られないだの、肉は一口大に切ってなきゃ食べられないだの! あたしは召使じゃないっ!!」

 口から砲弾でも吐き出しかねない勢いで、レベッカは怒りを露わにする。どうやら、漂流者の少女とレベッカは全く持ってそりが合わないらしい。

 父親が船乗りだった関係で、ほとんど船の上で生活し、屈強な水夫たちの間で育ったレベッカは、かなり男勝りな性格である。

 一方、話に聞く漂流者の少女は、彼女の記憶がない以上明確なことは言えないが、立ち振る舞いはどこかの良家の娘のようで、かなり大人しい性格で、世間ずれしているようだ。

 そんな二人は言うなれば、太陽と月のように正反対の存在と言ってもいい。

「それで、ちょっと声を荒げたら、ポロポロ泣き出して『ごめんなさい』ってすぐ謝るし。レイにも『泣かした』ってあの仏頂面で言われるし。なんだか、あたしが悪いみたいじゃないっ!?」

「そうだね……」

 アレックスとしては、レベッカの肩を持って彼女の怒りに賛同してやりたいと思う反面、あの少女のことを悪く言いたくもなかった。自然と、適当な相槌になってしまう。

「きっと泣いてれば、可愛いと思ってるのよ! そんなの、みっともないだけじゃない!」

「そうだね……」

「ホント、何であたしが貧乏クジ引かなきゃいけないの?」

「そうだね……」

「ちょっと、ちゃんと聞いてる!?」

「うん、聞いてる」

「まったく! だいたいローランドもローランドよ。あっさりナッソー帰投をオッケーするなんて。それでも副長かっていうのよ! 『船長の意思は船の総意だ』とか抜かしちゃって、あのカタブツ!!」

 高まるレベッカの怒りは副長のローランドにまで飛び火し、甲板を抜いてしまいかねないほど強く地団駄を踏む。

「仕方ないだろ、副長なんだから。船長を補佐するのが仕事だ。正しい判断だよ」

「なによ、あんたも父さんやローランドの味方なの?」

「違う。俺だって、このまま手ぶらでナッソーに帰りたくねえよ。それは、船長や副長だって同じだと思うよ。ただ、あの子をこのままにしておけないじゃないか」

「それはそうだけど」

「だから、正しい判断だと思うってこと。それとも、レベッカは帰投を取りやめて、もっとあの子の召使いをやりたいっての?」

 アレックスがそういうと、正論を突かれたと思ったのか、レベッカは口ごもりコップに注がれたミルクを一気に呷った。

「おおーい、航海長!」

 と、後部甲板の方からレベッカを呼ぶ声がする。二人が振り返ると、船員がこちらに駆け寄ってくる。

「おっと、二人で夕日を眺めて愛でも語らってたのか、お二人さん?」

 だしぬけにそう言って、ニヤニヤとする船員。レベッカが一瞬だけ赤くなり、そして船員を憎々しげに睨み付けた。

「はぁ? なんで、あたしがこいつと愛を語らうのよ。冗談じゃなかったら、今すぐ両手両足に錘付けて、海に叩きこむわよ」

「おお怖い。機嫌悪いとこすまねえが、ちょっと大変なことになっちまった」

「どうしたのよ?」

「レイモンドのヤツがちょっと目を離した隙に、あの娘が医務室を抜け出したらしい」

「なんだって!?」

 アレックスとレベッカが驚きの声を挙げたのはほぼ同時だった。

「それで、船長やローランド副長にバレる前に、探し出して連れ戻してほしいって、レイモンドの奴が言ってるんだが」

「まったく! 何やってんのよ、レイっ! どうしてあたしたちが、お嬢様なんかと鬼ごっこしなきゃいけないのよ! 世話焼かせるのも大概にしてよね!」

 怒りが頂点に達したのか、ひときわ眉間にしわを寄せるレベッカ。アレックスは「まあまあ」となんとかなだめ、

「俺も探すの手伝うよ。どうせ船の中からは出られないから、どこかに隠れているはずだ。レベッカは船倉の方を頼む、俺は船室を調べて回る」

 と提案した。すると、レベッカは素直に頷きつつも、両手を重ね合わせポキポキと関節を鳴らす。

「ええ分かったわ。後でレイにはたっぷり落とし前付けてもらうかしら」

 レイモンド、ご愁傷様……。アレックスは心の奥でそう思ったが、口にはしなかった。飛び火は御免だ。

 二人は船員に飲みかけのミルクが入ったコップを渡すと、それぞれ少女を探して甲板を後にした。

 甲板の中央部分には船内に入るための階段がある。階段は何度か折り返し船倉まで続いている。途中で船倉へ向かうレベッカと別れたアレックスは、船室の扉をを一つずつ開いて周った。元は貨物室付の客船だったと言うこの船には、大小いくつかの部屋かある。それらは現在、船員の寝所として使われており、さすがはレベッカを除くと男所帯だけあって、どこも雑然とした感は否めない。

「まさか、船の中で人探しをすることになるなんて」

 と呟きながらも、アレックスは少しばかり高揚するものを感じていた。このままでは、ナッソーに着いても少女と一度も顔を合わせることはない。ところが少女が姿を消したことで、少女に会う機会が巡って来たのだと思うと、心を躍らせずにはいられなかった。まさに青天の霹靂、棚からぼたもちというやつだ。

 だが、少女に会うためには、レベッカより先に彼女を見つけ出さなくてはならない。アレックスは急ぎ足で船室をくまなく調べて回った。しかし、何処を探せど少女の姿はなかった。

「アレックス!」

 仕方なく甲板へと引き返そうと踵を返したアレックスの元に、船倉の階段を昇ってきたレイが駆け寄って来る。レイも少女を探していた。元はと言えば、レイが目を離した隙に少女は忽然と姿を消したのだから、当然と言えば当然だった。

「あの子見つかったか?」

 アレックスが問いかけると、レイは首を左右に振った。こころなしか、無愛想な顔に焦りが見え隠れしている。

「レベッカも見つからないって言ってる……」

「そうか。俺は、もう一度甲板に戻ってみるから、レイは弾薬庫の方を調べてくれ。くれぐれも副長たちに見つからないように」

 アレックスの指示にレイは無言で頷くと、入れ違いに弾薬庫のある船の後部へと通路を駆けだした。

 レイの後ろ姿を見送り、再び甲板に上がると、すでに陽は沈み、甲板の上をわずかに昼間の熱気を宿した夜風が吹き抜けていた。甲板で作業をしている船員の姿は少ない。おそらく大半の船員は、少女が医務室から行方をくらませたという騒動など知らないのだろう。彼らは、黙々と各々に与えられた作業に専念していていた。

 そんな甲板の隅に並べられた木箱と樽の間に、ふと目をやると、わずかにウェーブのかかった金色の髪が、夜風にふわふわとなびいている。

「まさか……」

 アレックスはそっとそ近づき、木箱と樽の隙間を覗き込んだ。そこにはアレックスの思った通り、あの少女が薄着で震えながら小さくうずくまっていた。

「やっと見つけた」

 そう声をかけると、少女はびっくりしたのか「ひゃっ!」と小さな悲鳴とともに顔を上げた。大きな青い瞳がわずかに潤んでいる。そんな少女の表情が、アレックスをドキリとさせた。

「あ、あの、あの、ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。か、勝手に抜け出したりなんかして、ごめんなさい」

 小鳥が囀りよりも弱々しい声は、まるで悪戯でも見つかった子供のようだ、とアレックスは思いながら、小さく苦笑いした。

「別に俺は怒ってないから。ほら、立って」

 アレックスが促すと少女はおずおずと木箱と樽の隙間から立ち上がった。少女の背丈はアレックスよりもかなり低い。十五、六歳とは思えないほどレベッカよりも輪郭が細く、触れれば壊れてしまいそうな印象すら受けてしまう。

「どうして、医務室を逃げ出したの? レベッカもレイも心配して君を探してる」

「えっ、あっあの、ごめんなさい。逃げ出したわけじゃないんです」

「じゃあどうして?」

「えっと、命の恩人のアレックスさんという方にお会いして、一言お礼を言いたかったんです。だけど……」

 たどたどしい口調で、少女は事情を説明する。アレックスを探して医務室を抜け出したまでは良かったものの、複雑に通路が行き交う船内で迷子になってしまった。何とかして甲板にたどり着くことは出来たが、誰がアレックスであるか尋ねようにも、元来人見知りな少女は、甲板をうろつく厳つい顔の船乗りたちに怯えてしまい、木箱の影に隠れていたのだという。

「結局アレックスさんと言う方にお会いすることも出来ませんでしたし、あなたやレベッカさんたちにもご迷惑をかけてしまいました。本当にごめんなさい」

 がっくりと肩を落として項垂れる少女とは対照的に、アレックスは思わず笑いがこみ上げてきた。それは、少女が目の前にいる少年がそのアレックスであることに全く気付いていない、という可笑しさと、会いたいと願っていた少女もまた自分に会いたがっていた、という嬉しさからだった。

「えーっと、俺が君の探しているアレックスだよ」

 とアレックスが少し照れくさそうに鼻の頭をかきながら名乗ると、少女は大きな瞳を見開いて、周囲の船員に聞こえてしまうのではないかと言うような驚きの声をもらした。

「ええっ? そうなのですか!? 知らぬこととは言え、失礼いたしました」

 幸い、広い甲板に点在する船員たちは誰もこちらに気付いてはいない。

「えっと、あのその、わ、わたしのこと助けて頂きありがとうございました。アレックスさんが居なければ、わたし死んでいたとお伺いしています。本当に、ありがとうございます」

 深々と頭を下げ、丁寧な言葉で礼を述べる少女に、アレックスは少し照れてしまいそうになった。

「いや、いいんだ。船乗りとして当然のことをしたまでだから。それより、記憶喪失って言うのは本当なの?」

「えっ、あ、はい。自分ではよく分からないのですが、何も思い出せなくて。折角助けて頂いたのに、そのことさえ覚えていません。本当に、ごめんなさい」

「何も思い出せないって、自分の名前も覚えていないの?」

 とアレックスが問いかけると、少女は顔を曇らせてこくりと頷いた。その酷く暗鬱とした表情は、少女の細い体をより小さく見せているように、アレックスは感じた。

 記憶がないということの不安や孤独感を、アレックスが想像することは難しい。自分の生まれも、これまでの人生も白紙状態なのだ。それは、どれほど恐ろしいことか。もしも目の前の少女が、前向きな性格であったなら、それらを受け止めることも可能だろう。しかし、歳の割に幼く感じさせるばかりか、本当に触れただけで壊れてしまいそうなガラス細工のような儚さを持っている少女は、今にも不安に押しつぶされて、泣き出してしまいそうになるのを、じっとこらえているのかもしれない。

 何とか、この少女を元気づけてやることは出来ないだろうか?

 小さく肩を震わせる少女の姿に、ふとアレックスは思った。しかし、出会ったばかりの女の子が喜びそうなものを何一つ知らない。ああでもない、こうでもないと思案を巡らせること数十秒、不意に頭の上にランプがともるかのように閃いた。

「じゃあ、俺が君に名前を付けてあげるよ」

 と、アレックスが言うと項垂れていた少女は顔を上げた。

「だって、不便だろ? だから、記憶が戻るまで……せめてこの船にいる間だけでも、俺が何か名前を付けてあげる。レイの監視を抜け出して、俺に会いに来てくれたお礼ってところかな」

 アレックスは再び思案を巡らせる。今度は、その名に思い至るまで長い時間は要さなかった。

「アイリス! そう、アイリスなんてどうかな?」

「草原に咲く、青いお花の名前ですね」

「うん、そうだよ。君の瞳の色にそっくりな花。もしかして気に入らない?」

 と少しばかり不安げに問いかけると、少女は強く首を左右に振った。

「そんなことありません! アイリス……わたしには勿体ないくらい、とてもすてきなお名前です。わたしなんかが頂いても良いのでしょうか?」

「良いも何も、君の名前だから」

「ありがとうございます。とっても、嬉しいです」

 夜風が二人の元を駆け抜けていく。わずかに揺れる柔らかな前髪の隙間から見える少女の……アイリスの穏やかな微笑みが白い月明かりに照らされ、その優しげな表情にアレックスは胸の内に仄かな温かさを覚えた。

「あら、お二人とも。こんなところで、のんびりお喋りしてるなんて、ずいぶんなご身分ですこと?」

 突然、背後から丁寧な口調に乗せて無数の棘を帯びた声が飛んできて、二人の和やかな空気を一変させた。

 振り返ったアレックスたちのもとへ、船内階段の昇り口から、眉を吊り上げたレベッカが激しく足音を立てながらやって来る。少し後ろには、レイの姿も見える。

「のんびりなんてしてない、ちょっと話しをしてただけじゃないか」

「そういう問題じゃない。こんなところ、他の船員に見つかったら大騒ぎだわ。まったく!」

 憤慨するレベッカは、アレックスではなく少女の方をきつく睨み付けた。

「何考えてるのよ。医務室から出るなって、船長から言われてるでしょ? お嬢様はそんなことも守れないワケ!?」

「ご、ごめんなさいっ!」

「あのねぇ、ごめんなさいって言えば、何でも許してもらえると思ってるんじゃないでしょうね!? お嬢様のお屋敷ではどうだったか知らないけど、船の上じゃごめんなさいなんて通用しないの!」

「ごめんなさいっ」

「あなたの身勝手な行動がもしも船長に知れ渡ったら、レイもあたしもタダじゃ済まないの!」

「ごめんなさい、ごめんなさいっ」

「お嬢様、ふざけてんの!? 錘付けて海に投げ込むわよっ!?」

 先ほどの笑顔がほんの一瞬で消えうせた少女は、ひたすらにレベッカに頭を下げた。顔は今にも泣き出しそうだったが、レベッカの怒りは収まらない。この三日間で溜りに溜まった不満が、一気に脳天から吹き出しているかのようだ。このままでは、本当に彼女の手足に錘を付けて海に放り出しかねない勢いだと感じたアレックスは、慌てて二人の間に割って入った。

「落ち着けって、レベッカ!」

「何よ、アレックス。今度はお嬢様の肩を持つって言うの!?」

「ああ、そうだよ。この子は、俺に会うためわざわざレイの目を盗んで医務室を抜け出して来たんだ。悪気があったわけじゃないことくらい、お前にもわかるだろ!? そんな風に、いきなり怒鳴りつけるのはお前の悪い癖だ」

「そうだけど……!」

 アレックスの強い語気に押されて、レベッカはぐっと言葉を詰まらせた。すると、傍らで成り行きを静観していたレイがおもむろに口を開く。

「僕は怒ってない。だから、早く戻ろう。お嬢様」

 あいも変わらずの淡々とした口調に促された少女は小さく頷きながらも、後ろ髪惹かれるような視線をアレックスに送った。そんな視線に、アレックスは再び二人の間に割って入った。

「ちょっと待った、レイモンド。この子の名前は『お嬢様』じゃなくて、アイリスって言うんだ」

「え? もしかして記憶、戻ったの?」

 器用にも表情を変えずに驚くレイに、アレックスは首を左右に振った。

「いや、そうじゃなくて、今さっき、俺が付けてあげたんだ。だって、名前がないままじゃ、何かと不便だろ?」

「でも、アイリスってそれ、あんたの……!」

 声を挙げたのはレベッカだった。彼女は驚きに訝りの混じった表情で、アレックスと少女の顔を交互に見ると、大きく溜息を吐き出した。

「なにそれ、バカみたい。勝手にすればいいわ、もう知らない」

 レベッカはフンっと顔をそむけたかと思うと、まるで捨て台詞のように言って、踵を返した。去りゆくレベッカの後ろ姿を眺めつつ、アレックスはきょとんとしてしまう。

「何なんだ、あいつ?」

 と、アレックスはレイに問いかけたが、無表情な彼は「さあね」とだけ言った。

「早く戻らないと。船長に見つかる」

 再びレイが少女を促した。もう少し話をしたい、と言う名残惜しい気持ちは、アレックスも同じだった。アレックスは少女に微笑んだ。

「今度は、俺がアイリスに会いに行くよ」

「本当ですか?」

 少女がおずおずと下目使いに尋ねてくる。勿論、ナッソーには明日にも到着するだろう。会いに行く機会があるかどうかは分からない。それでも、アレックスは力強く頷いた。

「心配いらないよ、レイの目を盗むくらい簡単だ」

「そういう悪巧みは、僕の居ないところでやって」

 呆れ眼のレイに、アレックスは大きな声で笑った。つられて、少女の顔にも笑みが戻ってくる。だが、その笑い声は突然、甲板中に響き渡る警鐘の音にかき消されてしまった。

 マスト上の見張り台、つい数十分前までアレックスが見張りの任務に就いていたその場所から、カンカンと打ち鳴らされる警鐘に、甲板は騒然となる。

 先ほどまで、作業に没頭していた船員の中には、アレックスたちと共にいる少女の存在に気付いたものもいたが、それどころではなかった。

「あれは、何ですか?」

 少女が右舷に広がる海の彼方を指差す。アレックスとレイがその方角に目を向けたのはほぼ同時だった。

 月明かりが青白く染める夜の海に、仄かなオレンジ色の光がいくつも揺らめいている。その光は、アレックスたちの船と同じ方向に向かって、ゆったりと進んでいた。

「船団だ!! あれは船の光だ!」

 光の正体を一瞬で突き止めたアレックスが叫んだ。

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