19. エピローグ
「わしがこのアメリカに渡ったのは、それから十年後だ。わしの手元に残されたのは、恩給とこの本だけだった……」
暖炉の火に照らされながら、老人は昔語りの最後を締めくくった。そっと、膝の上に乗せた古びた本をなでる手は、長い間の苦労をしのばせるかのように、無数の皺に覆われている。
「まだ、アメリカはまだまだ未開の地だったが、それでもお前たちのおばあちゃん……わしの妻とともにこの地に、一から農地を切り開いた。楽なことではなかったが、ようやく農場は軌道に乗せられた。そしてお前たちのような、かわいい孫に囲まれる幸せも手に入れた」
そういうと、老人はそっと孫たちの方に目をやった。暖炉の火の前に座っていた、三人の孫たちはいつの間にか、すやすやと寝息を立てている。老人の話に退屈したのか、それともやっと眠気に誘われたのか、いずれにしても老人の昔語りは、幼い孫たちとってはよい子守唄となったのであろう。
老人は孫たちの寝顔を、目を細めながら愛おしい気持ちで見つめた。
すっかり足腰の弱くなってしまった老人は、重たい動作でロッキングチェアから腰を上げると、孫たちをひとりずつ彼らの部屋へと運んだ。老いた体には、なかなかの重労働であったが、腕から伝わる暖かな体温に、老人は平穏な生活の幸せを噛みしめた。
ようやく三人の孫を部屋のベッドまで送り届けると、老人は一人自室に戻った。暖炉の火を消すと、月明かりが部屋の中にそっと忍び込んでくる。
とても静かな夜だった。まるで外の世界と隔絶したかのような、静けさだ。
あれから約三十年……。アメリカは今、歴史に刻まれるほどの喧騒に包まれている。
イギリスとスペインやフランスとの間に勃発した『七年戦争』。
起こるべくして起きた戦いであったが、イギリスは七年にも及ぶ苛烈な戦いに勝利し、北アメリカ大陸の植民地をほぼすべて手中に収めた。ところが、イギリス政府は戦争による多額の出費が原因で発生した財政難を乗り切るため、植民地であるアメリカに重税を課した。このことが、アメリカに住む人々に反感を芽生えさせた。
ボストンの港で、イギリスの東インド会社の貨物船がアメリカ市民に襲撃され、積荷であった紅茶の木箱が海に投げ捨てられたのは、ほんの数日前のこと。
世にいう『ボストン茶会事件』である。
今まさに、アメリカの独立を賭けた、新たな戦争が始まろうとしている。だが、その戦乱の陰に私掠船と呼ばれる海賊の姿はない。
あれは、すべて遠い日の出来事なのだ。
その遠い日に思い残すことがあるとすれば、それは親友の願いをかなえられなかったことだ。老人にとって、それだけが後ろ髪をひかれる思いであった。
親友がなぜ、命を懸けてまで戦ったのか。それは、イギリス王室への反逆の疑いをかけられて奪われてしまった、家名の名誉を取り戻すことだった。身寄りのない少年だった彼にとって、養子に引き取ってくれた恩義を感じていたのだろう。かつての仲間と剣を交えてでも、自らの命を捨てででも、その恩に報いることこそが、亡き友の望みだったのだ。
しかし、イギリス政府は、ほかに後継ぎがないこと、そしてなにより彼自身が過去に海賊であったという咎を理由に、家名の取り潰しを決定した。
無論、まだ若かりし日の老人は、真っ先に異を唱えた。だが聞き入れてもらえないどころか、自分の立場も危うくなり、泣く泣く断念せざるを得なかった。背中を預けることができるとまで信頼しあうことのできた親友のために、何もできなかった不甲斐なさを恥じながら、わずかな恩給とともに退役したのはそのころである。
そして、妻とともに単身アメリカへと渡り、フロンティアの精神あふれるこの地で農場を開拓した。そして、成功も収めた。だが、心のどこかで、いつも親友のことがよぎって仕方がなかった。
だが今宵、孫たちに、遠い日の冒険と親友の命を懸けた戦いの顛末を聞かせることができたことは、長年の間肩にのしかかっていた重荷を下ろすことができたような、せめてもの親友への罪滅ぼしができたような、そんな解放感を感じた。
「ちと長く生き過ぎたな。そろそろお前のもとへ行く時が来たようだ……」
老人は、ベッドのそばに立てかけられた、妻の写真に触れながら、人知れずつぶやいた。最愛の伴侶が他界して三年余り。先立った妻の写真には、毎晩就寝前に一言声をかけるのが癖になってしまった。
「お休み」
老人はゆっくりとベッドに入ると瞳を閉じた。それは深い深い眠りの訪れだった。
その夜、老人は静かに人生に幕を下ろした。
彼の死に顔は、穏やかであり、心なしか笑顔を浮かべているかのようだった。そんな老人が横たわるベッド脇のサイドテーブルには、一冊の本が置かれていた。
ところどころほころびた古い本。ブルーのインクでページを埋め尽くすばかりにびっしりと、冒険の日々が書き記された、その本の表紙には、タイトルと思われる手書きの文字が書き記されていた。
『ウラカンレオン号の航海記録』と……。
〈おわり〉
長期間の連載となりましたが、最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
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