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ウラカンレオン号の航海記録  作者: 阿蘭素実史
16/19

16. 運命の航路

 ジャマイカ島は、ブルーマウンテン山脈が見下ろす湾に、キングストンの街はある。その湾の西岸にはポートロイヤルの街がある。正確には「あった」と言うべきであろう。ジャマイカ島で最も大きな都市であったポートロイヤルは、かつて海賊の本拠地として栄えていた。しかし突然の巨大地震に見舞われ、一瞬のうちに倒壊してしまったのである。現在は、港の一部を残すのみとなってしまっている。そのため、ポートロイヤルの代わりとなる新たな街として、農業用地であった場所に、キングストンが造られた。

 キングストンは、商業都市として栄え、海賊の拠点となった次期もあったが、ロジャーズらの海賊狩りをはじめとする、カリブ海地域の治安維持活動の成果によって、イギリス海軍の前線基地となっている。

 石煉瓦造りの西洋風の街並みに加え、魚介や野菜が色とりどりに並べられた賑やかな市場、イギリス正教の様式そのままの荘厳な教会が立ち並ぶ街はずれには、イギリス海軍の軍港がある。いくつもの軍船が並び、いくつものお台場が築かれ、まさに最前線と言う威容を携えた軍港に、イギリス本国から一隻の軍艦がやって来たのは、水平線の向こう側が茜色に染まる、夕映えの時刻だった。

 船の名は〈インスパイア号〉。十年以上前に建造されたブリッグ・スループであるが、速力、火力共に一線級の性能を誇る、歴戦の軍船である。

 海軍少尉のブライアン・セシルは、癖のある赤毛の髪を潮風になびかせながら、波止の先で今や遅しと〈インスパイア号〉の到着を待っていた。〈インスパイア号〉がゆるりと接岸し係留を終えると、ブライアンはすぐさま艀に駆け寄った。〈インスパイア号〉から補充兵が次々と降りてくる。みな、イギリス海軍の真紅の軍服に身を包んでいた。その中に、ブライアンは見知った顔を見つけると、大きく手を振って、その男の名を呼んだ。

「ミラー!! レイモンド・ミラー少尉!!」

 名を呼ばれた男は、チラリと周囲を見回し、すぐにブライアンの姿に気付いた。

「ブライアン。久しぶり」

 ミラーは少しばかり微笑むと、旧友の下に駆け寄った。ミラーが差しだした手に握手をすると、ブライアンは顔一面に笑顔を浮かべた。

「お前が来るって聞いて、ずっと待ってたんだ。本当に久しぶりだな。三年ぶり、いや五年ぶりか?」

「いや、二年ぶりだよ。君がカリブ方面艦隊の所属になってから」

 再会をひとしきり喜んだ二人は、連れ立って軍関係者の宿舎の方へと歩きはじめた。

「あの日の送別会は、人生最良の思い出だ」

 と、遠い眼をしながら、街の背後に聳えるブルーマウンテンを見つめてブライアンが言う。

「ロンドンの酒場で、一晩中飲み明かしたあの日か……。確かに、あれは楽しかった。ラム酒があんなに美味いものだとは知らなかったよ」

「同期からは『スタチュー』と呼ばれてた無口で仏頂面のお前が、まさかあんなに笑い上戸だったとは。今思い出しても、腹がよじれる」

「君の前で醜態をさらしてしまったことは、一生の不覚だね」

 ミラーは渋い顔をする。彼らは、将校である。道を歩けば、下士官たちが敬礼のポーズを見せる。ふたりは、時折会話を中断させて下士官たちに敬礼を返した。

「ミラー、憶えているか? 常備艦隊の連中と大喧嘩になったのを」

「ああ、君がちょっかいかけた女性が、常備艦隊の連中が目を付けていた女性で、酒場中で大暴れしたな」

「あの時だよ、俺の背中を任せられるのは、ミラーしかいないって思ったのは。士官学校入学のときは、こんななまっ白いやつに、軍人なんて務まるのかって思ったけどな」

「なんだいそりゃ。僕だって、軽薄そうな君に軍人など務まるものかって思ったよ」

 そう言うと、二人は声を立てて笑いあった。

「しかし、夢を蹴ってまで軍人になったことを後悔しているんじゃないか?」

「いや、父フレデリック・ミラーの跡を継いで、海軍軍人になったことは後悔していない。ようやく、僕の力で父の汚名を雪ぐことができる」

「そうだな。フレデリック大佐は一廉の人物だった、アーネスト・コーウェンと関わったばかりに……」

「父は、アーネストの陰謀など知りもしなかった。利用したのは、王座を狙ったコーウェン家の人間たちだ。父はひとえにカリブ海の平和と安定を願っただけ」

「ミラー、君もか?」

「勿論だ。僕が望むのは、この海に残された遺恨をすべて消し去ることだ」

「しかし、コーウェンは獄中死し、コーウェンの妻は毒をあおって自死したそうじゃないか。娘の……サブリナ・コーウェンといったか。彼女は陰謀から逃れたものの、このカリブで暗殺された。もはや、コーウェン家の生き残りなどこの世にいない」

「だけど、このカリブにはサブリナ・コーウェンの亡霊に憑りつかれた人間が一人いる」

 ミラーは歩みを止め踵を返すと、来た方に目をやった。キングストン基地の軍港に停泊する〈インスパイア号〉の全容が見える。

「亡霊に憑りつかれた人間?」

 ブライアンも立ち止まり、ミラーのセリフに小首をかしげた。

「アレックス・クロフォード。彼は十年経っても、まだ亡霊に憑りつかれ、この海を彷徨っている。奴を倒すことだけが、父フレデリックが願った『カリブの平和と安定』を成し遂げるための唯一の手段。そして、ミラー家の地位を取り戻す」

「クロフォード海賊団か……。そのために、俺たちはここキングストンに集められたんだ。だが、奴の海賊船〈ウラカンレオン号〉は強敵だ。一筋縄ではいかない」

「だから、あの船が選ばれた」

 と、ミラーは〈インスパイア号〉を指差した。ユニオン・ジャックの旗をメインマストに掲げる、戦闘用ブリッグスループ。だが、イギリス海軍の正規軍艦としては小ぶりであると同時に、似つかわしくない獅子の装飾が、バウスプリットの下部に取りつけられている。

「〈インスパイア号〉の、本当の名を知っているか?」

 ミラーがブライアンに問う。ブライアンは当然のように首を左右に振った。

「あの船の本当の名は〈ウラカンレオン号〉。かつて、アレックス・クロフォードが所属した海賊団、ブラックストーン海賊団の旗艦だった船だ。船長のエリオット・ブラックストーンがナッソーで処刑された後、イギリス海軍が接収し、改修を施して、その名を〈インスパイア(ひらめき)〉と名付けた」

「なるほど、クロフォードを始末するにはうってつけの船、と言うわけか……」

「そういうことさ」

 そう言って、ミラーは感慨深げな顔をして〈インスパイア号〉の姿を眺めた。

 軍令部が、カリブで暴れるクロフォード海賊団を壊滅させるために〈インスパイア号〉を派遣したのは事実であるが、そこにクロフォード海賊団の船長、アレックス・クロフォードがかつて〈インスパイア号〉がブラックストーン海賊団の〈ウラカンレオン号〉と呼ばれていたころの乗組員だったから、という意図は含まれていないだろう。クロフォード海賊団の旗艦である〈ウラカンレオン号〉は高速で強力な船である。幾度となく、艦隊を派遣しても、捕えることが出来なかったのは、アレックスの〈ウラカンレオン号〉の逃げ足と強力な火力の前に、手も足も出なかったからである。折しも、スペインとの戦争が激化している中で、イギリス海軍はいち海賊ごときに、これ以上の戦力を割くわけにはいかなかった。そこで方針を転換し、単艦でアレックスの〈ウラカンレオン号〉と対峙し相手の油断を誘いつつ、経験豊富な精鋭乗組員を集めることで、地の利と高速性能を活かして、敵船を拿捕するとした。要するに、海賊討伐に予算を回すことが出来なくなってしまったことへの、苦渋の選択でもあった。それでもイギリス海軍としては、イギリス船籍ばかりを襲撃するアレックスを放置しておくわけにはいかない。それは、海軍の威信と沽券に関わる問題である。予算が回せないことを理由に、海賊に後れを取ることはあってはならないことなのだ。

 そのため〈ウラカンレオン号〉と同等の性能を持つ〈インスパイア号〉に白羽の矢が立ったのは、ほぼ偶然だった。ナッソーで主を失っていたブラックストーン海賊団の〈ウラカンレオン号〉が、イギリス海軍に接収され、〈インスパイア号〉と名を改めてすでに十年。幾度となく海戦に参加しては、十分な働きを見せてきた、信頼のおける船だからこそ、海賊討伐という使命を与えられたことに相違ない。

 だが、かつてカリブを荒しまわった海賊船が正義のために、かつての乗組員と対峙する。それは、あまりに劇的なことであり、偶然ではなく神さまの仕組んだ必然であるかのように、ミラーには思えた。


 アレックスの〈ウラカンレオン号〉が、寄港地だったトルトゥーガ島の港を出港して、キングストンを目指して一週間が過ぎた。旅程としてはかなりゆったりとしたペースである。アレックスたちが、その道中で商船や軍船を拿捕しては、食糧や水、弾薬や医薬品などの補充を行いつつ、荒稼ぎしていたからである。

 ようやく、キングストン近海までやって来た〈ウラカンレオン号〉は、イギリス海軍の哨戒海域に入る前に、新たな獲物を発見した。小型の単帆装のスループである。どうやら、アメリカからの客船である。しかし、客船であるにもかかわらず、何らかの事情で、随伴の護衛船を連れていないことが、アレックスの眼に止まった。

 客船も〈ウラカンレオン号〉の存在に気付いた。回頭し、離脱を試みるが、速力で勝る〈ウラカンレオン号〉を出し抜くことなどできるはずもない。広大なサバンナで、ライオンに狙われた小さなインパラといった状況である。

「あまり、無駄弾を撃つな。的確に客船の足をとめろ!!」

 アレックスの指示に従って、船員たちは良く動いた。

 客船には、申し訳程度の旋回砲が片舷二門の合計四門しか備え付けられていない。圧倒的な火力不足は言うまでもないが、そもそも交易品を運ぶ大手商社の輸送船や、イギリス海軍の軍船ではない。何らかの重鎮でも乗せていない限り、襲撃したところで実入りの少ない客船に手を出す海賊と言うのは、あまり見られなかったこともあって、小型客船は兵装をあまり積み込んでいないのである。

 実際の所、客船の襲撃を命じたアレックスに対して、副長のライナスは疑問に感じていた。

 キングストンを経由する航路は、イギリス海軍の哨戒が厳しい。逆に言えば、イギリスの輸送船団などにとっては、安心できる航路であるから、他の航路に比べ多くの船が利用する。敵は海賊だけではなく、敵国であるスペインなどの軍船もいるのだが、当然ながら、安全な航路を選ぶのは定石である。

 つまり、海賊にとって、そこは宝が行き交う絶好の狩場であると同時に、イギリス海軍の哨戒艦と遭遇する危険の両方が混在する、ハイリスク・ハイリターンな海域なのである。

 いずれは、キングストンに進出し、かつての海賊たちのように、街を艦砲射撃しながら、行き交う商船を狩りして、クロフォード海賊団の名声を確たるものとしたい。というのは、アレックスを含む海賊団の船員たちの総意であった。

 キングストンでの活動をより確実なものとするためには、十分な下準備が必要である。そこで〈ウラカンレオン号〉は、道中幾度となく商船や軍船を襲撃し、食糧、水、弾薬、補修資材、人材、医薬品などを揃えた。すでに、その備蓄は十分である。

 にもかかわらず、大した儲けにもならない、小型客船を襲う理由など、アレックスの『余興』としか、ライナスには思えなかった。

 ライナスは、とりわけ副長としての責任感を重んじてはいない。そもそも、クロフォード海賊団は、規律などないに等しい。「生き残りたければ、自分の仕事を全うする」という不文律があるだけで、強盗でも殺しでも、女を襲って強姦することも、禁じてなどいなかった。その自由こそが、イギリス海軍が全盛を誇るこの海で、クロフォード海賊団の唯一の結束なのである。

 それでも、アレックスの『余興』で、徒に戦力を削るのは、好ましいこととは言えなかった。

 客船が、応戦してくる。断続的に放たれる、旋回砲の弾丸は〈ウラカンレオン号〉に着弾こそしないものの、それなりの精度を持った小砲なのか、飛距離が思うより優れている。油断すれば、甲板に穴をあけられかねない。

「アレックス、もういい……! あんな小船を捕まえたところで、得られるものは何もない。それよりも、哨戒艦に備えて、島影を航行するべきだ」

 客船からの砲撃の音を聞きながら、ライナスは具申した。しかし、ライナスの声が聞こえていないわけでもないにもかかわらず、アレックスは頷きもしなかった。

 ライナスはアレックスの目が、客船のマストに掲げられた、ユニオン・ジャックの旗じるしに奪われていることに気付いた。

 クロフォード海賊団が襲撃するのは、必ずイギリス船籍の船である。スペイン船やポルトガル船には目もくれず、ただひたすらにユニオン・ジャックを狙う。

 イギリスと言う国は、戦争と征服を繰り返した王国である。そのため、その国旗は併合した国の旗印を組み合わせたものである。即ち、イングランドのセント・ジョージ・クロスと、スコットランドのセント・アンドリュー・クロスが組み合わされている。その旗を落とすということは、侵略と征服の証であり、イギリスと言う国家の骨を砕くことに等しい。

 だが、海賊はあくまで、国家体制に異を唱える抵抗運動や分離主義の組織ではない。自分たちの生き方に、イギリスが異を唱えたとしても、自由を得るという自分たちの是とかみ合わない存在だとしても、国家を相手取って戦をするような、理論武装や主義主張、はたまた宗教的な価値観を持ち合わせてはいないのだ。

 だが、アレックスがイギリスを目の仇にする気持ちが分からないわけでもない。

「エリオット・ブラックストーンたちの仇を討ちたいのは分かるが、徒にイギリス船ばかりを攻めるのは、いかがなものか」

 と、苦言を呈したことはある。戦略的な目線から言えば、イギリス船籍の船ばかりを襲撃していれば、当然監視の目は厳しくなる。適度に外国の船舶を狙いつつ、イギリス船を襲撃するという方が、長い目で見ればよほど戦略的な判断だと言える。

 だが、アレックスは一笑に付すと、

「別に、エリオットの仇討ちなんて考えちゃいない。無抵抗で処刑された、情けない男のことなどどうでもいい」

 と返してきた。

「イギリスの船を襲うのは、単に実入りがいいからだ」

 とも言ったが、それがどこまで本気なのかはライナスには分からなかった。実入りという観点で言うならば、スペインの商船もイギリスの商船も大して変りない。それにもかかわらずイギリスの船、とりわけ危険の伴う軍船を襲撃するのには、やはり言葉以上の何かが、アレックスにはあるような気がしてならない。それは、アレックス自身も気付いていないことなのかもしれない。

 とにもかくにも、反論をしたところで、アレックスが聞く耳を持たないのは、今に始まったことではない。諦めならとっくについているし、アレックスの言うとおり、イギリス船からもそれなりの、と言うよりも十分な実入りは期待できるのだから、それ以上反対する理由も見当たらなかった。

 アメリカからの客船は〈ウラカンレオン号〉からの砲撃に、よろよろとよろめくように蛇行しながら、島影の方へと逃れようとする。

「逃がすな!! 間断なく砲撃を続けろ!!」

 アレックスの命令に、船員たちは「おう!!」と応えて、砲撃戦を繰り広げた。そして、客船が島影に隠れる寸前、一発の砲弾が客船の後尾に着弾し、大きな水柱を上げた。

 方向舵を損傷したのか、客船の足が止まる。

「よーし、接舷してロープを掛けろ!!」

〈ウラカンレオン号〉は、悠然と客船の右舷に接舷すると、鉤のついたロープを投げ、客船の船体を引き寄せた。

 抵抗はなかった。船員たちは護身用のマスケット銃くらいなら所持しているだろうに、反撃を見せることなく、あっさりと捕縛された。客船には、イギリス人の乗客しか居らず、海賊が望むようなお宝が満載されているわけではないことを見越してのことであろう。実際、客船には目ぼしいお宝など積み込まれてはおらず、ライナスの言った通り、得られるものはなかった。

 ところが、客船に乗り込んだアレックスは、客船の船員と乗客を甲板に集めた。『余興』の時間だと、気付いたのは、クロフォード海賊団の船員たちだけだった。

 客船の乗客はそれほど多くはない。船員と併せても二十名ほど。しかも、そのほとんどが一般市民であり、貴族や富豪のような人間は一人もいなかった。

「このとおり、この船はただの客船です。貴方がたに差し出すものなど、一つもありません」

 丁寧な口調の船長は、アレックスにひれ伏してそう言った。

「だが、俺たちの船は、お前たちの旋回砲で傷つけられた。ならば、誰かが落とし前を取らなければいけないな」

 と、アレックスは口角を歪める。その言葉の意図を測り兼ねた船長は「はぁ」とだけ返事した。それがどれだけ愚かなことであったか、船長が後悔したのは、その直後だった。

 アレックスは集めた乗客の一人の腕をつかむと、強引に立たせた。

 まだ十代後半といった、うら若き少女である。紅茶のような赤みを帯びた茶色の髪と、鼻頭に散ったそばかすが、あどけなさを感じさせる。

 少女は、自分の身に何が起きるのか、全く持ってわからなかった。ただ怯えた目をして、黒い瞳でアレックスを見つめる。アレックスは無表情だった。

「お前に罪はない。だが、イギリス人であることを後悔するんだな」

 と、アレックスは言い放つと、懐から取り出したナイフで、少女の首元をを切り裂いた。ひゅう、と息を吸い込むような音がして、少女はその場に崩れ落ちた。白い首筋からは鮮血が流れ出し、彼女の地味なドレスを汚していった。

「なんと残虐なことを!」

 客船の船長が唸るような声音で言う。だが、アレックスは聞こえていないのか、その言葉には全く反応を示さずに、じっと少女から流れ出す赤い液体を、睨みつけるような視線で見つめていた。

 やがて、少女が息絶えたのを確認すると、ライナスに命じて彼女の遺体を海に放り投げさせた。ここからが『余興』の始まりであることを、まだ誰も知らなかった。

 海に放り投げられた少女の遺体は、波間を漂いながら、青い海に濁りを与えた。その血の匂いを嗅ぎつけて、すぐさま船の周りに数匹のホオジロザメがやって来る。

「さて、全員海に飛び込んでもらおうか」

 抑揚のない、無感情で無機質な口調で、アレックスが客船の船員と乗客に命じた。無論、彼らの間に動揺が走る。ホオジロザメの集まる海に飛び込むなど、自殺行為にも等しい。そんなことを「やれ」と言われて、素直に聞き届けるわけにはいかなかった。

「これは、殺戮だ。お前のしていることは、ただの人殺しだ!!」

 堪忍袋の緒が切れたのか、丁寧な口調だった船長が声を荒げた。すると、アレックスは腰の拳銃を素早く引き抜き、船長の眉間に銃弾を撃ち込んだ。

 即死だった。

「これは、命令だ。従わない者は、一人ずつこの場で射殺する」

 と、アレックスが言うと、クロフォード海賊団の面々は銃を構えた。

「なに、サメといえども、腹が満たされれば襲いはしない。賭けだ。サメの腹が満たされるのが先か、それともお前たちが生き残るのが先か。海の神さまに願いながら飛び込むがいい。それとも、ここで俺たちに射殺されるのがいいか?」

 船員と乗客たちは、甲板の淵に整列させられた。中には泣き出す者もいた。しかし、逃げ出す場所などない。唯一あるとすれば、目の前のホオジロザメが泳ぐ海だけだ。生き残る手段は、他の仲間や乗客が先に喰われ、サメたちが腹を満たして去っていくことを願うだけ。

 絶望した、客船の船員と乗客はクロフォード海賊団の船員たちによって、海に蹴り落とされた。すぐさま、サメが獲物を捕食し始める。悲鳴がこだまする中、一人、またひとりとサメの餌食となり、食われていく様を、アレックスは高らかに笑いながら眺めた。

 幾人かは、沖へと泳ぎだしたが、彼らが助かる見込みはないだろう。例え泳ぎ切り、島にたどり着いたとしても、周囲には無人島しかない。かつてアレックスが無人島に漂着した時のように、浜辺の広がる小さな島であれば、キングストンの哨戒艦に発見してもらえる見込みもあるが、ここら一帯にある無人島は、ジャングルを背負っている。見た目にも恐ろしい毒蛇や毒虫、ジャガーなどの野生生物が棲むジャングルで、助けを待つことなどほぼ不可能であった。

 最初から、アレックスは客船の船員と乗客を一人として生かすつもりなどなかったのだ。

「ライナス、客船に火を放て」

 ひとしきり、乗客たちが喰われる様を笑ったアレックスは、ライナスにそう命じるといち早く〈ウラカンレオン号〉に戻った。

 ライナスは、客船から食糧などを運び出させると、アレックスの命令通りに客船に火を放った。客船が沈没するのを待たずして、〈ウラカンレオン号〉は帆を張った。

 と、その時である。島影から一隻の軍船が、まるで待ち伏せでもしていたかのように姿を現した。メインマストに掲げられた旗印は、ユニオンジャック。中型の戦闘用ブリッグ・スループ〈インスパイア号〉である。

「やはり、あの客船は囮だったか!」

 ライナスが、アレックスの隣で唸った。客船が抵抗なく降参したのは、自分たちの背後にイギリス軍艦がいたからである。しかし、彼らはアレックスたちの油断を誘うため、客船の乗客を見殺しにした。いや、どのみち見殺しにしなくても、戦闘に巻き込まれれば、客船の船員も乗客も無事では済まされなかっただろう。アレックスたちは、乗客を人質に取ったかもしれないし、流れ弾に当たるかもしれない。結果論から言えば見殺しにした形ではあるが、彼らはどの道死ぬ運命だったのだ。そのことを、あの客船の船長は知っていたのか。

「船長! 指示を!!」

 ライナスが叫んだ。ところが、アレックスは舵輪を握りしめたまま、身動きひとつせず、愕然とした顔で〈インスパイア号〉を見つめていた。その表情は、ライナスが初めて見るものだった。

「バカな……あれは〈ウラカンレオン号〉」

 喉の奥から絞り出したような声で、アレックスが呟いた。

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