恩師
それでも、山民 に歩みを止める気はない。
歩まなければ、終わる事はない。
その事だけは分かっていた。
土も砂利も、石も風もない。
そんな道を、ただひたすらに歩まなければ。
手応えのないまま、一歩ずつ進む。
置いて行かれた、幼い頃の自分。
何も知らない、その姿とすれ違う。
触れることなく、後ろに消えていく。
では次は。
決まっている、あの時のことだ。
「恩師、か」
それまでどう生きてきたか、よく覚えてはいない。
ともあれ、生きてはいたはずだ。
町の片隅、空風を抱えながら辺りを伺う位には。
一度、拾われたことを覚えている。
孤児院だったか。
その内の一人から誘われたのは。
程なく、仲間に溶け込んだ。
その境遇は、悪くはなかったように思う。
子どもたちには、秘密の遊びがあった。
持てる者から、金品を奪う。
ただし、自分たちで使うことはない。
世のため人のため。
それを口実に、孤児院の窓に投げ込む。
義賊気取りの子供の、つまらない遊びだ。
ある日の、山民 の番のこと。
温和な年寄だった。
質素だが、よく手入れされた着物。
懐の財布は、相応以上のはずだ。
財布のひとつふたつ落とした所で、困る身とは見えない。
ならば、今から落としてもらう。
周囲の供らしき者たちは、見る限り節穴と思えた。
隙きを突くのは訳もない。
すぐにも落としてもらう。
思い違いに気づくのはすぐ後だ。
老人に右手を捕まれ、その手を高く持ち上げられる。
供らしき者たちが、遅れて 山民 を取り囲む。
騒がしい中、どんな顔をしていただろう。
気に入った、と老人は言う。
成功は二の次だ。
力をおよそ見抜いて、狙ってきた。
儂の下に修行に来ないか。
周囲の目もある中で、そう言ってみせた。
お供の者たちはどうだったか。
気配では難色を示しつつ、表立って反対はしなかった。
かつて、自分はこう思っていた。
子供に出し抜かれた、居心地の悪さゆえと。
それゆえに、反対はしなかったのだと。
「……あれこそ子供の浅知恵だった、て訳だ」
老師範は、そう長くなかったのだろう。
そしてその事は、周知のものだった。
むろん、物好きの所業ではある。
それでも、日々に張り合いが生まれるなら。
そんな思惑も、恐らくあったはずだ。
その前後のことは、今もよく分からない。
入門してからも、深くは訊ねなかったから。
確かなことは幾つかある。
恩師の晩年を共に過ごしたこと。
武術と心を教わったこと。
葬儀が終わり、居場所を失ったことだ。
拒まれた訳ではない。
むしろ引き止められた。
ただ、ここに居続けるのは違う。
ごく自然に、そう感じたまでだ。
なるほど、腕はある。
頭も人並み以上ではあるらしい。
けれども、と 山民 は思う。
恩師の域には遠く及ばない。
腕ではなく、心の器が。
足りないと感じたまま、教えることは出来なかった。
流派は決して己一人のものでもない。
そのことを救いに、消息を絶った。
あるいは、と山民 は思い返す。
あるいは、その時から探していたのかも知れない。
自らの居場所を。
仕えるべき、主 の姿を。
「恩師、か」




