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斬月記  作者: 祭谷一斗
二章 看病
19/24

幼少

 道行きに出るは、鬼か蛇か。

 目の前に出たのはしかし、連れ立つ母と子だった。

 鬼と蛇、どちらでもない。

 少なくとも見かけの上では。


 片方は女だ。

 年の頃は三十そこら。

 細身の見目に、かつての名残を思わせる。

 片方は男の幼子。

 年の頃は四つ五つ。

 こちらは、年相応に活きている。


 二人を見ながら、いまの山民サンミン は歩んでいる。

 歩んでいて、いっこうに近づけはしない。

 恐らくは、幼い頃の母と子に。


 恐らくは。

 そう推測交じりには理由がある。

 幼少の頃には、鏡を見たことがなかったのだ。

 金属を磨いた品など、高価で手が届かないに決まっていた。

 と言って町の絵かきに依頼する余裕もない。

 あるとすれば、川だ。

 川面にうつる、水流にゆがんだ姿。

 あるとすれば、雨だ。

 雨あがり、地面にできる水たまり。

 その水面にうつる、泥水ごしの姿。

 

 自画像めいた確かな姿など、幼少に見たことはない。

 あったのかも知れないが、覚えていない事は確かだ。

 鏡を欲してみて、自由に手に取れない。

 学び舎に学んだ記憶もない。

 では字は。自分は字を読み書ける、それはどうか。

 自学できたとは考えにくい。

 そこまで察しがいい方ではなかったはずだ。

 そこまで資質が溢れているのであれば。

 学び舎で学べていたはずだ。


 字を読み、書ける。

 その事について、不自由した覚えはない。

 亡き恩師。老人の字が達筆で、読むのに苦労したくらいだ。

 あれはだから、誰かに教わったのだろう。

 母にか、それとも別の。

 いずれにせよ、と 山民サンミン は思う。

 鏡は身近になく、自由に覗けた事もない。

 幼心に、その事を覚えている。


 もっとも、と 山民サンミン は思い出す。

 師尊シズンに言わせれば、鏡はいずれ安くなるとの事だったが。

 はるか遠い明日には、誰もが手が届くようになる。

 いわく、昼飯代の半分も払えば手鏡が買えるのだと。

 金属ほど重くはない、硝子がらすで出来た鏡が。


 感心はしつつ、縁遠い事とも思っていた。

 なんとも気が遠い話だ。

 いま役に立ちはしないだろう。

 聞きながら、そんな風にも。


 おそらく、顔には出ていたのだろう。

 非難するでもない、いつもの調子で告げられた。

 いま役に立つことが全てではない。

 ほんの少しで構わない、君も前を見るといい、と。


 まさか、この事を見越した訳ではあるまい。

 時折、己の心に迷い込むなどと言う事を。


 役には立たない。

 その考えにおよそ変わりはない。

 およそ関係のないことだと。


 それでも、と 山民サンミン は思う。

 その無関係なことに、なにがしかを感じている。

 救いのようなものを感じている、それは確かな事だ。


「……つくづく、分かんねえ奴だ」


 山民サンミン は歩む。

 歩みながら、近づけはしない。


 母と子は市場に出る。

 母は言う、ここで待っていなさいと。

 良い子にしていなさいと。

 子は静かにうなずく。

 静かに待つ。

 待ち続ける。

 そして。


「……っ」


 分かっている。

 こうも鮮明な記憶など、およそ有り得る事ではない。

 長きに渡り、己の心が作り上げた幻。

 そうと知りつつ、心は痛む。


 己の迷いが、心を痛めつける。

 その事それ自体が、ひどく恨めしい。

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