1-9 酒場
少し短めですが。
まだ時刻が早いせいだろう。ホシアの酒場は食事を取っている人間こそいたが、酔っぱらっているような人間は殆ど居なかった。その事にキリカは少し安堵する。酔っぱらいは苦手だった。特にこの酒場にいる人間達はキリカをやたらと子供扱いしたがる上に、一度ピアノを弾いてからは盛んにそれを弾くように勧めてくる。ピアノを弾くのは嫌いじゃない。と云うか寧ろ好きなのだが、正直他人に聞かせるのは億劫だった。
「らっしゃい」
キリカとユキが酒場の中へと入ると、ホシアが相変わらずやる気の無さそうな声で迎えた。それでも一応声を上げるのは客商売としての最低限の自覚があるからなのか、それとも条件反射なのか。益体もない疑問を脳裏で玩びながらキリカはホシアの前のカウンター席へと腰を掛けた。ユキがその後ろに立ったまま控える。やはりユキはいつもより警戒レベルを上げているらしい。ここまで来る間もなるべく人通りの多い道を選び、武器もすぐに取り出せるようにしてさり気なく神経を尖らせていた。
キリカも死にたくはないのでその事自体は有り難い。だがそんなユキを見て、ホシアがわざとらしく笑みを浮かべて見せたのが気になった。
「んじゃ、報告を聞こうか」
キリカの前にミネラルウォータが置かれる。一応はサービスのつもりだろう。
「第十五迷宮に潜ったのは全部で七人。そのうちヴェークのメンバーであるエリシュカ・バルターク、ブラジェイ・ベイチェク、エフィム・アニシモフの三人は正体不明の魔物に殺され死亡。同行者だったタリス・マンチェスと私たち三人は無事脱出。その後武装警察に保護されました」
「……へえ」
何か面白いものを聞いたかのようにホシアがにやにやと笑った。意地の悪い表情だ。そんなんだから奥さんに逃げられるんだよ、みたいな事を言いたくなったが、言ったらどうなるか判らなかったのでキリカは自重した。只にやにや笑うホシアの顔を真っ直ぐに見返す。
「そのタリス・マンチェスってのは誰だ? 迷宮に同行させるメンバーについては俺の許可が要るはずだよな」
「突入前にホシアさんの許可は得ていた筈ですよ。管理組合に連絡してみてください。ホシアさん名義で書類が送られている筈です」
「ああ、そうみたいだな。だが――俺はそんなヤツ知らないぜ?」
カウンターに肘を乗せ、ホシアは顔をキリカの方へと突き出す。そこには獰猛な笑みが浮かんでいた。
「物忘れですか? 私、痴呆防止に効くって云う体操知ってますよ。今度教えてあげましょうか?」
「……ははっ」
ホシアの笑みに怒気が籠もる。だがその程度は想像が出来ていた事だ。キリカは動じる事もせずに平静な表情を保つ。
「…………」
「……ふっ」
やがてホシアが吹き出したように笑った。そこに先程までの怒気は無い。朗らか、と言っても良い笑顔が浮かんでいた。顔の基本造形が厳ついので迫力があることには違いなかったが。
「相変わらずの面の顔の厚さだな」
ホシアが感心した風に言う。
その言葉を聞いてキリカは苦笑を浮かべた。自然と思い浮かぶのは昨日の自身の醜態だ。思わず口から弱音にも似た言葉がこぼれ落ちる。
「……昨日は、何も出来ませんでした」
「ベテランだったヴェークの連中が残らず殺られるような修羅場。ひよっこのお前さんが何も出来なくても当然だ。あのカリムにしたって才能と基礎的な技量はあっても圧倒的に経験不足。修羅場を渡るには早すぎるだろうよ」
ぶっきらぼうなホシアの口調。そこにキリカを責めるような色はない。判りにくいが、これは……。
「……慰めてくれてるんですか?」
「だったらどうする?」
「ありがとうございます」
取り敢えず満面の笑みを作って返してみる。ホシアは何だか苦虫を噛み潰したような顔をした。失礼な。
「礼なら今度具体的なもので払って貰おうか」
「……ロリコンが」
笑顔を作ったまま、ぼそりとキリカ。ホシアは馬鹿にしたように「はっ」と笑った。
「アホか。お前の鶏ガラみてぇな身体に誰が欲情するかよ。そうじゃなくて今度酒場で何曲か弾いてくれって話だ。うちの客らも結構真面目に楽しみにしてるんだぜ」
「……あー。まあ前向きに検討しておきますとだけ」
その笑顔を苦笑に近いものにして、キリカは答える。
「……まあ取り敢えずはそれでいいか」
そんなキリカを見てホシアは軽く肩を竦めた。
「で、話を戻すが……まずお前さんらが襲われたって云う『本来あり得ないレベルの魔物』っていうのはどんなヤツだった?」
「ええ。何かもの凄い勢いで正体不明なヤツでした」
「いや、お前……いくらなんでももうちょっとなぁ……」
呆れた果てたようなホシア。それに対しキリカは至極真面目な様子で言葉を続ける。
「――そっちの方が色々と都合が良いでしょう?」
どこか吐き捨てるように、そしてどこか挑発するようなキリカの声音。
「……お前」
そんなキリカの声音に釣られるようにホシアの目にも真剣なものが浮かぶ。真っ直ぐとキリカの平坦な無表情を見詰める。先程の焼き直しのようなやりとり。だがホシアの瞳に浮かぶのは怒気ではない。キリカの底意を見透かそうとする強い視線。そこに含まれていたのは恐らくは軫憂なのだろう。冒険者達の死を見詰め続けてきた男の真摯な優しさの表れ。だがキリカもここで引く訳にはいかなかった。
先程と同じように先に根負けしたのはホシアだった。
「……はぁ。まあお前さん方の報告はわかった」
「ご苦労様でした」
「全くな」
全く気にした様子のないキリカの声。処置無しとでもいうようにホシアは大きく溜め息を吐いた。




