第5話:『深淵からのラブレター』
王立学園の校舎は、すでにエッシャーのだまし絵のようになっていた。
右に行くと天井に出て、階段を降りると空中に放り出される。 アレクセイ様の「空間切断」と、マリアの「地形崩壊」がバグって混ざり合った結果、物理法則がゲシュタルト崩壊を起こしているのだ。
「……気持ち悪っ」
私は平衡感覚を狂わせる廊下を這うように進んでいた。 目指す「地下図書館」への入り口は、旧・理科準備室の奥にある隠し扉だ。
(急がないと。日が暮れたら『彼』の独壇場になる)
私の懸念は的中した。 窓の外が、急速に暗くなっていく。日没の時間ではない。 粘りつくような「黒」が、校舎を侵食し始めたのだ。
「――みぃつけたぁ」
耳元で、濡れたような声がした。 前後左右、上下。全方位からのサラウンド音声。
「ひっ!」
私が振り返ると、廊下の影という影が沸騰するように盛り上がり、数千の「目」と「口」を形成していた。
【ENEMY:宮廷魔術師ダミアン(覚醒率30%)】
「エリザベート様……ああ、その泥に汚れたお姿もゾクゾクします。私の『偏愛の鳥籠』にお入りください。そこなら、永遠に腐敗することなく、貴女の悲鳴を保存してあげられますよ?」
影の中から、ダミアンの上半身がぬるりと生えてくる。 だが、その下半身は存在しない。彼の体は、校舎を覆う無限の闇と繋がっていた。 もはや人間ではない。「闇そのもの」がダミアンの仮面を被っているだけだ。
「お断りよ! 私は死ぬまで現役でいたいの!」
私は廊下を駆ける。だが、足元の影が私の足首を掴もうと蔦のように伸びてくる。
「逃げないで。外は危険です。アレクセイ殿下は貴女を『無』にしようとしている。ガストンは『肉塊』にしようとしている。……私だけですよ? 貴女を『標本』として愛してあげるのは」
「どっちも嫌よ!! 究極の選択を迫らないで!」
ズズズッ! 前方の廊下が闇の壁で塞がれた。 行き止まり。背後からはダミアンの闇が津波のように押し寄せる。
「チェックメイトです。さあ、私の闇と同化して――」
「同化? 笑わせないで」
私は立ち止まり、ドレスのポケットから、握り拳大の水晶玉を取り出した。 かつてダミアンが授業で「光属性魔法は初歩的すぎて美しくない」と馬鹿にしていたアイテムだ。
「アンタ、私のことを『観察』するのが趣味なんでしょう?」
「ええ、そうですとも。貴女の爪の伸びる速度まで記録しています」
「なら、もっとよく見せてあげるわよ!!」
私は水晶玉を床に叩きつけ、叫んだ。
「喰らいなさい! **『王都の街灯3年分』**の光量を圧縮した、対・不審者用閃光手榴弾!!」
カッッッッッ!!!!!
視界が真っ白に染まった。 それは単なる光ではない。私がコツコツと魔力を貯め続けた、物理的な質量すら感じるほどの光の暴力。 闇属性の眷属にとって、それは硫酸を浴びるに等しい。
「ギャァァァァァァッ!!? 眩しッ!? 網膜が、いや闇が焼けるぅぅぅ!!」
ダミアンの絶叫が響く。 光に灼かれた影が、ジュウジュウと音を立てて蒸発していく。
「今だ!」
私は目が眩んだダミアンの脇をすり抜け、理科準備室へと滑り込む。 隠し扉のレリーフを蹴破り、暗証番号――『ELIZABETH_LOVE_FOREVER(以前盗み見た)』――を高速で入力。
ガコンッ、プシュー……。 重厚な金属扉が開き、私は中へ転がり込んだ。
「閉鎖! 施錠!」
ドォォォン!! 扉が閉まると同時に、外からドンドンと激しい打撃音が響いた。
『開けてください! まだ貴女の鼓膜の振動数を計測しきれていないんですぅぅぅ!!』
「一生やってろ変態!」
私は内側から何重にも鍵をかけ、ようやくその場にへたり込んだ。 ……助かった。 ここは、元・隠し攻略対象であるダミアンが、違法な魔導書やアーティファクトを隠すために作った秘密基地。壁には対魔術結界が張り巡らされており、今の彼でも簡単には入ってこられないはずだ。
「はぁ、はぁ……。さて……」
私はカビ臭い地下図書館を見渡した。 天井まで届く本棚。散乱する魔道具。 この中に、この「パニックホラー世界」を生き抜くヒントがあるはずだ。
私が奥へと進むと、部屋の中央にある机の上に、一冊の本が開かれたまま置かれているのが目に入った。 古い装丁の本だ。タイトルは掠れて読めない。
だが、そのページに書かれた手書きのメモを見た瞬間、私の心臓が跳ねた。
『実験記録 No.001: 「主人公」の不死性に関する考察』
筆跡はダミアンのものだ。 そして、その横には、殴り書きでこう付け加えられていた。
『この世界は、「物語」という名のプログラムで動いている。ならば、コードを書き換える「ウイルス」も存在するはずだ。……例えば、「転生者」と呼ばれるイレギュラーが』
「転生者……?」
私は息を呑む。 私は転生者ではない。ただの勘のいい悪役令嬢だ。 だが、この書き方だと、まるで――。
「ようこそ、生存者のお嬢さん」
唐突に。 誰もいないはずの書架の陰から、男の声がした。
「お待ちしておりました。……いや、計算より3分早かったですね」
現れたのは、ボロボロの白衣を着た、眼鏡の青年。 学園の保健医であり、ゲームでは「攻略対象外」のモブキャラだったはずの男、カイル先生。
彼は、片手に持った分厚い本を閉じ、静かに微笑んだ。
「ここから先は、正規ルート(ラブコメ)には存在しなかった『DLC』エリアです。……世界の真実を知る覚悟はありますか?」
私の『生存者バイアス』が、彼に対してだけは警報を鳴らさない。 それが逆に、不気味だった。
「……選択肢はあるの?」
「いいえ。外は地獄、ここは墓場。どちらにせよ、貴女の人生は詰んでいます」
カイル先生は眼鏡をくいっと押し上げた。
「ですが、私は『バグ』を利用する裏技が好きでしてね。……協力しませんか? このクソゲー運営に一泡吹かせるために」
どうやら、まだ絶望するには早いらしい。 私はニヤリと笑い、泥だらけの手を差し出した。
「いいわ。乗った。……ただし、私の紅茶は常に摂氏65度で出しなさいよ?」




