第3話:『潔癖症の王子には、泥団子をぶつけろ』
瓦礫の山を駆け上がりながら、私はドレスの裾をさらに短く引き裂いた。 名門貴族の令嬢としてはあるまじき姿だが、命より重いマナーなどこの世に存在しない。
「――うるさい」
頭上から、冷ややかな声が降ってきた。 生徒会長ソフィア様だ。彼女は宙に浮いた瓦礫の上に優雅に腰掛け、指揮棒を振っている。
「君の走る足音、心拍音、ドレスの衣擦れ……すべてが雑音だ。休符にしてあげる」
彼女がタクトを振り下ろす。 ヒュンッ! 不可視の真空刃が、私の首を狙って飛来した。
(来る!)
私は思考するより早く、懐から「とあるアイテム」を取り出し、頭上へ放り投げた。
「くらえ! 学園祭の余り物、**『びっくりゴム風船(破裂音特化型)』**よ!!」
パァァァァァァァァン!!
真空刃が風船に触れた瞬間、鼓膜を突き破るような破裂音が戦場に響き渡った。
「ぐっ……!? 耳障りな……!!」
完全な静寂を愛するソフィア様にとって、不意打ちの爆音は精神的ダメージが大きいらしい。彼女が耳を押さえてうずくまる隙に、私はその下を滑り抜ける。
「悪いわね会長! 私、うるさい女なの!」
次は筋肉だ。 前方で、ガストンが落ちてきた巨大な石柱をデコピン一発で粉砕していた。
「ぬん! 邪魔だ邪魔だぁ! 俺の進路を塞ぐ物体は、すべて原子分解してやる!」
彼はこちらを向いていないが、飛び散る破片だけで私が死ぬ。 真正面からぶつかれば、私は赤い霧になって消滅するだろう。 だが、彼には致命的な弱点がある。
「ガストン! 後ろを見て! あなたの広背筋に『左右差』が出てるわよ!!」
「なぁにぃぃぃぃぃ!!?」
ガストンが血相を変えて振り返り、自分の背中を見ようとありえない角度で首を捻った。 「バカな! 今日のパンプアップは完璧なはず……! どこだ、どこの筋肉が裏切った!?」
彼がその場でポージング確認を始めた隙に、私はその股下をスライディングで通過する。 よし、抜けた! (スキル『生存者バイアス』補正:敵の知能指数の低下率200%!)
ついに、私は頂上へたどり着いた。 崩れかけた時計塔の屋根。そこに、元凶であるアレクセイ様が立っていた。
王都はすでに半壊していた。 彼が手を振るたびに、建物がレゴブロックのように消えたり、裏返ったりしている。
「アレクセイ!」
私が叫ぶと、彼はゆっくりと振り返った。その瞳は完全にイッてしまっている。
「やあ、エリザベート。見てごらん、この美しい地平線を。ノイズの元凶である人間も建物も消して、完全な平面世界を創るんだ」
「寝言は寝て言いなさい! 今すぐ『白紙の楽園』を解除して!」
「断る。君は理解してくれないんだね。……悲しいよ。君も消して、完全な球体にしてあげる」
彼が私に向けて掌を向けた。 「削除」の構えだ。 防弾チョッキも、酸の小瓶も、空間ごと消滅させる彼には通用しない。
だが、私は知っている。 極度の潔癖症にして完全主義者の彼が、**「生理的に絶対に許せないもの」**を。
「消えるのは、あなたのそのふざけた美学よ!!」
私は隠し持っていた最後の武器――巾着袋の紐を解き、中身を彼に向けて全力でばら撒いた。
それは、兵器でも魔法でもない。 私が夜なべして集めた、**「様々な大きさの砂利と、ネバネバしたスライム状の何かと、色がバラバラの紙吹雪」**を混ぜ合わせた、特製ゴミ爆弾だ。
バシャァッ!!
「……へ?」
アレクセイ様の顔面に、泥とスライムと紙吹雪がへばりついた。 真っ白な礼服に、汚らしいシミが不規則な模様を描く。 左右非対称。混沌。不潔。
「あ……あ、あ……」
アレクセイ様の手が震え出した。 空間を消去する魔法が霧散する。
「汚い……汚い汚い汚い汚い!! なんだこの配置は! 黄金比じゃない! 色の彩度がバラバラだ! 粘度が均一じゃない!!」
彼は半狂乱になり、世界を消すことよりも、自分の服についた汚れを定規で測って分類し始めた。
「今だわ!」
彼が無力化した隙に、私は彼のみぞおちを目掛けてタックルをかました。 ドゴォッ! 華奢な令嬢のタックルなど蚊ほども効かないはずだが、パニック状態の彼は無防備に吹き飛んだ。
「制圧完了! ……はぁ、はぁ……死ぬかと思った……」
私は瓦礫の上に倒れ込む。 終わった。なんとか世界崩壊は食い止めた。 そう思った、その時だった。
『警告。警告。世界の主要構成因子の精神崩壊を確認』
どこからともなく、無機質な機械音声が脳内に響いた。
『シナリオの修復不能。ジャンル「学園ラブコメ」を破棄します。これより、世界線をジャンル「パニックホラー」へ移行します』
「……はい?」
ズズズズズズズ……。 私の足元、アレクセイ様が立っていた時計塔の瓦礫が、まるで生き物のように脈打ち始めた。
空が割れる。 綺麗な青空がガラスのように砕け落ち、その向こう側から――無数の「目玉」がついた巨大な肉塊が、ぬるりと顔を覗かせた。
「うふふ……あはははは! 壊れた! 壊れたわ! 素敵!!」
下の方で、転んで埋まっていたマリアが、白目を剥いて笑っている。
「封印が解けたぁぁぁ! 王子様が正気を失ったことで、この世界の蓋が開いたのよぉぉぉ!」
私は空を見上げ、呆然と呟いた。
「……嘘でしょ? 婚約破棄イベントって、邪神封印の要石かなめいしだったの?」
私の『生存者バイアス』が、過去最大級の警報音を脳内で鳴り響かせていた。 どうやら、ここからが本当の地獄らしい。




