第10話:『神の「無」より、明日の「パン」が重い』
【第一王子アレクセイ】
ああ、素晴らしい。 世界が白く染まっていく。 余計な色彩も、不快な凹凸も、全てが私の『白紙の楽園』によって均一な「無」へと還元されていく。
私は崩壊した時計塔の頂点に立ち、眼下に広がる更地を見下ろしていた。 あと数分で、この星は完全なる球体となり、美しい静寂に包まれるのだから。
「……あー、すいません。そこ、どいて貰っていいすか?」
ふと、私の「完全な視界」の隅に、場違いな声が入り込んだ。 背後を振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。
年齢は14、5歳か。 ツギハギだらけの緑色のジャージを着て、片手にはボロボロのモップ、腰には使い古した洗剤のボトルをぶら下げている。 痩せこけて頬はこけ、目の下には深いクマ。 生命力は枯渇寸前。だが、その目は死んだ魚のように濁りつつも、異様な光を放っていた。
「……誰だ、貴様は」
私は眉をひそめた。 なぜ、まだ生きている? 私の空間削除の波動は、このエリアの生命体を全て消去したはずだ。
「清掃バイトっす。時間なんで」
少年は、まるで私が見えていないかのように、ダルそうに懐からボロボロのスマホを取り出して時間を確認した。
「チッ……あーあ。ここで手間取ると、次の新聞配達に間に合わねえな……」
独り言を呟きながら、少年は私の足元の――かつて時計塔の床だった部分――にモップをかけ始めた。
「貴様……この状況が理解できていないのか? 世界は今、終わろうとしているのだぞ」
私は憐れみを込めて告げた。 だが、少年は手を止めず、心底どうでもよさそうに吐き捨てた。
「世界が終わっても、借金は消えねえんすよ」
「……は?」
「終わるなら終わるでいいけど、俺のシフトが終わるまではやめてくんない? タダ働きは、死より重い罪なんで」
少年は淡々と言った。 会話が噛み合っていない。 こいつにとって「世界の終焉」よりも「未払い賃金」の方が重大事だと言うのか?
「愚かな……。物質など無意味だ。私は全てを『無』に還すのだ」
「無じゃ腹は膨れねえよ」
少年がモップの手を止め、私を睨みつけた。 その眼光の鋭さに、私は一瞬たじろいだ。
「パンの耳ひとつ買えない『無』に、なんの価値があるんだよ。……金にならない理想語るなら、金払ってからにしてくれませんかね」
「き、貴様……!」
私は激昂した。 高尚な私の美学を、薄汚い金勘定と同列にするとは! 私は右手を突き出し、全魔力を解放した。
「消えろ、下賎な愚者よ! 『空間剥離』!」
対象の座標データを強制的に削除する、神の御業。 少年を中心に、空間そのものがごっそりと消滅した――はずだった。
バシャァッ!!
「うわっ、冷たッ!?」
私が放った消滅魔法は、少年の顔面に直撃する寸前で、彼が反射的に振りかけた「業務用の強力洗剤」によって中和され、泡となって弾け飛んだ。
「な、なんだと……!? 私の概念魔法を、洗剤で……!?」
「あー、やべ。これ自腹で買った高いやつなのに」
少年は自身の生存など気にも留めず、減った洗剤のボトルを見て舌打ちをした。
「弁償してもらいますよ。……損失は、誰かが埋めなきゃならない。それが社会のルールなんで」
「ルールだと? 私がルールだ!」
私は再び魔力を練り上げる。 だが、少年の方が速かった。 彼が履いている、底がすり減ったスニーカーが、異様な速度で地面を捉える。
「どいつもこいつも、自分の都合ばっか押し付けやがって……! 俺はただ、妹に半額の弁当買ってやりたいだけなんだよ!!」
少年がモップを構え、突っ込んできた。 速い。 いや、ただ速いのではない。「無駄がない」のだ。 カロリー消費を極限まで抑えるために最適化された、生存のための動き。
「くっ、迎撃を……!」
「贅沢は敵だ!!」
ドゴォッ!!
少年のモップが、私の鳩尾に突き刺さった。 物理防壁も、魔力障壁も、全て貫通した。 なぜだ!?
「い、痛ぁ……!? なぜ、防げない……!?」
私は地面に膝をついた。 少年は私を見下ろし、冷めきった声で言った。
「あんたの攻撃、コスパ悪すぎんだよ。……本気で生きようとしてねえ奴の力なんて、スカスカで重みがねえんだわ」
彼は懐から、黒いゴミ袋を取り出した。 45リットルの、一番安い薄手の袋だ。
「さっさと終わらせるぞ。残業代出ねえし」
「ま、待て! 私は王子だ! 世界の王だぞ!」
「王だろうが神だろうが、金持ってねえなら客じゃねえ」
バサァッ!!
視界が黒いビニールに覆われる。 私は抵抗しようとしたが、少年は手慣れた手つきで私をゴミ袋に押し込み、空気を抜いて圧縮した。
「ぐわぁっ!? やめろ、私をゴミ扱いするな!」
「分別しねえと回収してくんねえんだよ。……あんたは『燃えないゴミ』だな。リサイクルもできねえ」
キュッ、と袋の口が固く縛られる。 私は完全に拘束された。 薄いビニール一枚なのに、世界の理が遮断されている。 これが、生活の知恵……いや、貧困の底力か……?
「よっこらせ、と……」
体が宙に浮く。 少年は私が入った袋を肩に担ぎ上げ、歩き出したようだ。
「……たく、重てえな。夢だの希望だの詰め込みすぎなんだよ。荷物は軽い方が、遠くまで行けるってのにな」
遠ざかる意識の中で、私は戦慄していた。 エリザベート……。 君は、こんな怪物がバイトしている学園で、生き延びていたのか。
「あー、腹減った。今日の賄い、何かな……」




