第1話:王立学園の優雅なるお茶会
「いい? 毒見役のエドワードが倒れたら、即座に予備のロバートを投入して。それから紅茶の温度は常に摂氏65度をキープ。66度を超えたら、爆発物の予兆とみなしてテーブルをひっくり返しなさい」
王立学園のサロン。 私は、給仕係のメイドに小声で指示を飛ばしていた。 私の名前はエリザベート・フォン・ローゼンバーグ。この国の悪役令嬢であり、そして誰よりも「死」を恐れる女だ。
私は震える手でティーカップを持ち上げた。 (心の中で詠唱――常時発動スキル:『生存者バイアス(サバイバー)』)
カチャリ、と音がして一口飲む。 ……死ななかった。どうやら、今日の紅茶に仕込まれた毒は致死量以下だったらしい。あるいは、たまたま毒の結晶がカップの底に沈殿して、上澄みだけを飲めたのかもしれない。 どちらにせよ、私の「生存運」は今日も正常に機能している。
「エリザベート。君の姿勢は美しいが、少し左肩が下がっているね。角度にして0.5度。……吐き気がするよ」
向かいの席に座る婚約者、第一王子アレクセイ様が、眉間に深い皺を寄せていた。 彼は定規と分度器をナイフとフォークのように構え、テーブル上のスコーンを凝視している。
「このスコーンの膨らみ方もだ。右側が左側より2ミリ大きい。これでは宇宙の均衡が崩れてしまう」
彼は真顔で呟くと、スッと右手を掲げた。
「修正が必要だ。――空間断裁スキル:『鏡の国』」
アレクセイ様の手が空を切る。 シュッ、という鋭い風切り音と共に、スコーンの右側2ミリが「消滅」した。 切り落とされたのではない。最初から存在しなかったかのように、断面が鏡面のようにツルツルになっている。
「ふう……これでやっと呼吸ができる」
(相変わらず、切れ味がおかしいわね……)
私は冷や汗を拭う。彼にとっての整頓は、物理的な「削除」を意味する。もし私が髪型をアシンメトリーにしたら、頭ごと削除されかねない。
その時だった。
「エリザベート様ぁぁぁ!! 本日も麗しい二酸化炭素を排出されていますねぇぇぇ!!」
私の足元の影から、ズズズ……と黒い何かが湧き上がってきた。 宮廷魔術師であり、私の家庭教師でもあるダミアンだ。なぜか床の影から上半身だけを生やしている。
「ひっ!」
「ああ、驚いたお顔も素敵です。今の悲鳴、録音させていただきました。ところでエリザベート様、周囲にハエが飛んでいたので処理しておきましたよ」
ダミアンは恍惚とした表情で、ドロドロとした黒い靄を手のひらで弄んでいる。
「――空間閉鎖スキル:『偏愛の鳥籠』」
彼が指を鳴らすと、私の周囲50センチの空間が一瞬だけ「真空」になった気がした。 私の目の前を飛んでいた羽虫が、一瞬で「圧死」して床に落ちる。いや、圧死というより、空間ごと圧縮されて点になったようだ。
「ダミアン、気色悪いから私の影に入らないでちょうだい。生存本能が警報を鳴らしているのよ」 「照れなくてもいいんですよ。いつでも貴女の足裏を感じていたいのです」
会話が成立しない。 この学園には、まともな人間がいないのだ。
ドガァァァァァァン!!
突然、サロンの重厚なオーク材の扉が爆散した。 蝶番が弾け飛び、木片が手榴弾の破片のように飛び散る。私はとっさにテーブルの下に隠れ、防弾ドレスの裾を展開した。
「ぬおぉぉぉ! 今日のプロテインはダマにならずによく混ざったぞぉぉぉ!」
土煙の中から現れたのは、王子の護衛騎士、ガストン。 制服の上着は筋肉の膨張に耐えきれずに弾け飛び、半裸の状態で入室してきた。
「ガストン! 扉はノックして開けるものだと教えたはずだ!」 アレクセイ様が怒鳴る。
「殿下! ノックなどという軟弱な行為では、上腕三頭筋が鍛えられません! 障害物はすべて筋肉で排除する、それが俺の流儀!」
ガストンは私のテーブルの前に立つと、ムキムキの腕でティーポットを掴んだ。
「――物理干渉スキル:『金剛不壊』・ティータイム!」
バリンッ! 彼が優しくポットを持ち上げようとした瞬間、ポットが粉々に砕け散った。 「力が……溢れすぎるッ!」 ただ握力が強すぎるだけではない。彼が触れる物体は、なぜか物理的な耐久値を無視して破壊されるのだ。まるで、筋肉という概念が物質の強度を上書きしているかのように。
「あーん、ガストン様ったら乱暴なんだからぁ〜!」
その混乱に乗じて、遅れてやってきた男爵令嬢マリアが、サロンの入り口で派手につまずいた。
「きゃっ!」
彼女は何もない平坦な床で転んだ。 それだけなら可愛いドジっ子だ。しかし、彼女が床に膝をついた瞬間。
ズゴゴゴゴゴゴ……!!
学園全体が震度5相当の揺れに見舞われた。 サロンの床石が波打ち、窓ガラスが一斉にヒビ割れる。
「てへっ☆ やっちゃった……――運動エネルギー増幅スキル:『崩壊の舞踏』」
マリアは舌を出して笑っているが、彼女の膝が接地した地点を中心に、蜘蛛の巣状の亀裂が壁まで走っていた。 ただの体重50キロの少女が転んだエネルギーではない。隕石が落ちたような衝撃だ。
「……うるさい」
そのカオスな空間を、氷点下の声が貫いた。 部屋の隅で読書をしていた生徒会長、ソフィア様だ。
彼女はゆっくりと立ち上がり、持っていた本を閉じた。 その目が、冷徹な殺意を帯びて私たち全員を見回す。
「ここは神聖なるサロン。静寂こそが正義。……騒ぐ肉塊は、要らない」
彼女が指先を指揮者のように振るう。
「――聴覚認識断絶スキル:『静寂の断頭台』」
ヒュンッ。
音が消えた。 次の瞬間、ガストンがポーズを取ろうとしていた背後の巨大な彫像が、音もなく「輪切り」になって崩れ落ちた。 切断面は鋭利な刃物で切ったように滑らかだ。
「おっと! 危ないな会長! 俺の僧帽筋でなければ死んでいたぞ!」
ガストンだけが無傷で笑っている。彼に向けられた不可視の刃を、どうやら筋肉で弾いたらしい。
「チッ……硬い」 ソフィア様が舌打ちをする。
私はテーブルの下で震えながら、改めて確信した。 (やっぱり、おかしい……)
アレクセイ様の「完全な切断」。 マリアの「異常な破壊力」。 ソフィア様の「見えない刃」。 そして、ガストンの「物理無効化」。
これはただの「癖の強い生徒たち」ではない。 まるで、学園という名の檻の中で、化け物たちがじゃれ合っているようだ。
そして明日、卒業パーティーが開かれる。 私の『生存者バイアス』が、かつてないほど激しく警鐘を鳴らしていた。
「……明日は、防弾チョッキを2枚重ねていこう」




