第89話 え、マジでナニコレ?
その人面ムカデの名は、露怒夢と言った。
もちろん、この化物の親が、これに対して慈しみを持って命名した、なんて素晴らしいことではない。
いつか、誰だったか、この魔物に遭遇した者が、『あれ』とか『あの』とかで呼ぶのに多少手間取ったため、仮に名付けられた名前である。
いつからあの部屋を中心にしたダンジョンに巣食うようになったのか、露怒夢自身覚えていない。
もともと、魔物というのは自我を持ちづらい。
持ったとしても、喜怒哀楽といった、原始的で簡単な感情しか持つことはできない。
複雑に思考を巡らせることは難しいし、理論だって考えて行動するなんてことは、魔物には不可能だ。
だが、この露怒夢には、非常に高い知能があった。
もちろん、高度な知能を持つ人間と比べるとおこがましいが、しかしそこらの魔物が百体並んだところで届かない程度の知能を持っていた。
どうしてそんな知性があったのかは、露怒夢自身も分からない。
人の顔をはいでべったりと無秩序に張り付けたような、人を模した頭部を持っているからだろうか?
それとも、飽きるほど、思い返せないほど、多くの人間を喰らってきたからだろうか?
どちらにせよ、この高い知能は、露怒夢をダンジョンの強者として君臨させるのに大きな効果を発揮していた。
まず、彼はダンジョンの深い階層にある、あの危険な場所には近づかなかった。
他の魔物を圧倒する露怒夢であるが、しかしあの場所に近づいたら、自分の命はない。
そう理解していたし、だからこそ愚かな魔物たちのように近づいて滅ぶようなことはなかった。
人間や魔物を奇襲するということも覚えた。
馬鹿正直に真正面から攻撃すると、相手に構えさせることになる。
当然、抵抗も激しくなる。
だが、彼らが思ってもいないところから攻撃を仕掛ければ、驚きのあまり硬直して大きな隙をさらしてくれることがままあった。
簡単に腹を満たすことができるので、とてもいい。
部屋の天井にぶら下がり、獲物が入ってきたら突如として上空から襲い掛かる。
非常に効果的な戦法だ。
加えて、彼は人間の仲間意識、同族意識というものも利用した。
そこらの魔物であれば意味はないが、人間は仲間を助けようとする意識が非常に強い。
だから、露怒夢は人間を囮に使う。
身体の一部を食い、わざと食い残しを置いておく。
すると、人間たちは必ず助けにやってくる。
そして、またその人間たちを食い、残して……。
そんなことを繰り返していたら、いつか人間は現れなくなってしまった。
あれはうまい。
つい食べ過ぎてしまったと、露怒夢は後悔してしまったほどだ。
しかし、何といつぶりのことだろうか。
人間たちが、自分のテリトリーに久々に現れたのである。
そこからは、いつも通りだ。
上空から奇襲し、小さなガキを喰らった。
久々に味わう人肉の美味いこと。
露怒夢は満面の笑みを浮かべていた。
久々の人肉に、ついテンションが上がりすぎてしまった。
もっと味わってゆっくりと堪能すべきなのに、興奮のあまり駆け出してしまい、それで二人を殺してしまった。
大きく肉がそがれてしまい、それはひどく後悔したものだ。
そして、残るは二人だ。
一人に突貫すれば、片方がそれを庇っておのれに食われた。
ああ、そうだ。
人間はそういうことをする。
自己よりも他者を優先する。
そして、そんな甘さがあるから、自分に食い殺されるのだ。
かじり取った男の死体に縋り付いて泣きわめく女一人が残された。
今までは興奮のあまり一気に食ってしまったが、今度はゆっくりと味わうようにして食おう。
そう思って忍び寄り、よだれが垂れる口を大きく開けて……。
「……?」
唐突に目の前の景色が変わる。
目の前にいるはずの女はいなかった。
どこに逃げた?
人間が良く使う、不可思議な力か?
しかし、どれほど部屋の中をくまなく探そうとも、女はいなかった。
いや、彼女だけではない。
自分が食い殺したはずの人間の死体も、綺麗さっぱり消えていた。
それどころか、自分が口内で味わっていた血肉の味すらも。
どういうことか、と考えることもできる高い知能を持っている露怒夢。
しかし、人間ほど理性があるわけでもないため、彼はとにかく怒った。
純然たる憤怒。
他の魔物ですらも覚えるその感情を、露怒夢はこれ以上ないほどに実感していた。
部屋の中をのたうち回り、暴れまわる。
こんな不条理が許されてたまるか。
誰の仕業か知らないが、見つけ次第必ず食い殺してやる。
「……!」
怒りで真っ赤に染まっていた彼の視界が色を取り戻したのは、人間の話し声が聞こえたからだ。
その声に聞き覚えがあるかと言われれば首を傾げるが、間違いなくあの人間たちだと思った。
自分のテリトリーまで来る人間なんて、彼ら以外いないからだ。
本来、露怒夢はこの大きな部屋から出ることはない。
ここが一番自分にとって動きやすく、動きなれた場所だからだ。
ここにいる限り、自分に敗北はない。
深層にある危険な場所に近づかないように、彼は身の程を弁えていた。
だが、最高のご馳走を口の中に入れていたのに奪われた怒りが、露怒夢を安易で軽率な行動にとらせた。
部屋を飛び出したのである。
ズルズルと天井を張っていき、そして彼らを見つけた。
部屋に至る広い道に立ち止まり、何やら話をしている。
この辺りに魔物はいない。
露怒夢という強者から逃れるために、めったなことがない限り近づかないのである。
だから、この獲物は全部自分のものとなる。
邪魔する者も皆殺しにする。
その怒りのまま、露怒夢は飛び降り、彼らの眼前に着地した。
「無理やり強制イベントなの!?」
その言葉の意味は分からないが、恐怖に震える女の顔は、露怒夢の溜飲を少しとはいえ下げた。
ああ、そうだ。
そんな風に怯えて、そして自分に食われるがいい。
人間なんて、しょせん脆弱で愚かな食べ物でしかないのだから。
ニタリと笑い、そして彼らを食い荒らそうと襲い掛かって……。
「――――――ッ!?」
激痛が走った。
露怒夢は、今まで痛みというものを実感したことはほとんどなかった。
なにせ、彼の身体は固い甲殻に覆われており、生半可な攻撃などまったく通用しない。
そもそも、奇襲を行うようになってから、獲物の抵抗すら許さなくなっていた。
そのため、痛みというものは、もうずいぶん長いこと味わったことがなかった。
だというのに、今、彼はそれを激しく実感していた。
雄たけびを上げ、のたうち回りたくなる。
自分の意思で身体が言うことを聞かなくなる。
何が起きたのかと身体を見れば、高い硬度を誇る甲殻が、【ねじれていた】。
切り傷でも、殴打された痕でもなく。
ねじ切られていたのだ。
「ッ!?」
いったい、どのような力を加えれば、そのようなことになるのか。
露怒夢がいくら考えても、まったく答えは出ない。
恐ろしいのは、攻撃を受けたという自覚がまったくないこと。
人間たちは、相も変わらず自分の目の前で呆けた面をさらしている。
誰も攻撃をした様子はない。
それなのに、どうして……。
「――――――!」
ともかく、逃げなければならない。
何をされているのかもわからない状態で攻撃を仕掛ければ、間違いなく痛い目に合う。
この慎重さこそが、ダンジョンの強者として露怒夢を君臨させている大きな要因である。
すぐさま天井に張り付き、自身のテリトリーである部屋に戻ろうとして……。
「ヵ……ッ!?」
ズドン、と背中から地面に叩き落された。
ただの重力だけではなく、間違いなく叩き落す力が加えられていた。
また攻撃を受けたのか?
それで天井から落とされたのか?
露怒夢の考えは正しかったが、しかし百点ではなかった。
彼の胴体から無数に生えている足。
うぞうぞと蠢き、俊敏な動きと急速な方向転換を可能にしている大量の足は、すべて根元からねじ切られていた。
ブシャッ、と血が噴水のように噴き出し、露怒夢は悲鳴を上げる。
こんなふうに痛めつけられ、悲鳴を上げるのは、獲物である人間のはずだ。
だというのに、どうして自分がこんな目に……。
怒りと憎悪で、人間の顔を悍ましいものに変貌させ、そして人間たちを睨みつける。
口を開き、露怒夢は毒を吐き出そうとする。
ほとんど使ったことはないが、彼には猛毒という強い武器があった。
致死性で、少量でも身体に触れれば命を落とす。
液体でも、霧状にしてでも使用できる。
それを、まき散らそうとしたのだ。
もはや人肉を味わうことはできないが、一刻も早く殺してやる。
その一心で……。
「――――――」
露怒夢の目に飛び込んできたのは、巨大な火球だった。
普通の赤い炎ではない。
黒く燃え盛る炎だ。
それは、まるで地獄の業火のよう。
すべてを灰に帰すまで消えることはない、断罪の炎だ。
もはや、露怒夢は逃げることすらできない。
足もすべてもがれているからだ。
「――――――」
燃える黒い太陽は、露怒夢を燃やし尽くした。
一瞬で蒸発するほどの高温。
しかし、それらは決して人間――――良人たちを傷つけることはなかった。
身体が文字通り世界から消えることを実感しながら、露怒夢が最期に思ったこと。
それは、元は人間であったにも関わらず、望まずして魔物と融合してしまい、今まで人間を食い殺すような悍ましい所業に手を染めていた自分を終わらせてくれたことに対する、感謝だった。
露怒夢は最期、焼き殺される者とは思えないほど穏やかな笑みを浮かべ、世界から消滅したのであった。
「……え、マジでナニコレ?」
激しく困惑する良人を残して。
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