表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彷徨のアリツィヤ  作者: 谷口由紀
第二章
8/50

こより

 家路を辿る。夕暮れの帰り道を、ひとりで歩く。


 友達とは途中で別れて、細い路地へと入り込んでいく。

 それが、紙宮こよりの、いつもの帰り道だった。


 通っている学校の周囲は、それなりにあか抜けていて居心地はよい。

 だけど、そこを離れて自宅へと近づいていくと、街路の風景はどんどん田舎臭くなり、ついには昭和初期のたたずまいを残した屋敷へとたどり着く。


 その家が、こよりの自宅だ。


 旧い建築物だ。ぐるりと取り囲む黒ずんだ板塀は、まさしく過去を閉じこめたタイムカプセルのよう。その重厚なたたずまいは、まさしく明治時代。ここが現代であるということを証明するものは、ポケットのなかにある薄っぺらいスマートフォンに表示された、受信電波のグラフだけだった。一応、圏外ではない。


(……うーん、今日はどんな感じで入ればいいんだろう)

 つい、玄関付近でうろうろしてしまう。

 普段なら、こんなに悩みはしないのだ。

 何も考えず、「ただいま〜」とでも言いながら入ればいい。 だけど、今日は違う。

 この家のなかには、初めて会う「お客様」がいらっしゃるのだった。


 その人については、実のところ、こよりは何一つ知らなかった。

 男なのか、女なのか。

 若いのか、年寄りなのか。

 いい人なのか、困った人なのか。

 前情報は、全くない。

 母からのメールには、ただ、その国籍のみが記してあった。


 ――ロシア。


 とはいっても、その単語によってこよりの脳裏に呼び起こされるのは、延々と入れ子が出てくるマトリョーシカと、ウォッカで酒焼けしたクマのような大男の豪快な笑顔のみ。本で読んだことのあるロシアのお話には、どれも物悲しいポーリュシカ・ポーレが流れているような印象があった。


……もちろん、そんなものは全て偏見だ。百害あって一利なし。だけど。


「ああもう、どんなリアクションしていいか分かんないよ〜!」

 そう叫びながら、こよりは自分の髪の毛をわしわしとかき混ぜた。ちょっと脱色しすぎて、ときどき先生に文句を言われる髪だが、自分ではわりと気に入っていた。今度はちょっとカラーを入れてみようかな……などと、ちょっと現実逃避気味に思考が寄り道し始めたときに。

「……あら、こより、帰っていたのね。ぼやーっとしてないで、早くお上がりなさい」

「あ、お母さん」

 玄関ががらりと開いて、そこから、こよりの母である佳枝がひょっこりと顔を出して手招きする。それでもこよりがもじもじしていると、佳枝は、なにやってるの、と、こよりの袖をつまんで引っ張り込んだ。


 薄暗い玄関には、見慣れない革靴が揃えられていた。無骨な感じで、とても大きい。


(男の人……だな。やっぱりクマ系の人かな)

 そう思うと、こよりの緊張はさらに高まってしまった。

 が、ここは進まざるをえない。母の佳枝は、既にサンダルを脱いで居間へと消えてしまった。


(……仕方ないか)


 靴を脱ぎ、隣のブーツに負けないくらいに綺麗に揃える。上がり口をそっとまたいで、そして居間へと進む。


(えーと、はじめまして……はじめまして……何て言えばいいの? ロシア語で?)

 無論、こよりの脳内辞書にロシア語は全く登録されていない。

 迂回路はない。当たって砕けるより他にないのだ。

(よーし)

 意を決して襖に手をかけ、居間へと進んだ。

「ただいま!」

 景気づけの意味もこめて、大きな声を出しながら。


 居間には、父である祐三の憩いの場である掘り炬燵がある。常ならば、そこに家族が集っている筈だ。


「ああ、おかえり」これは父の声だ。テレビが一番見やすい席が、父の居場所だ。

 まず見渡す。こよりの家族である父と母は、いつも通りの場所に座っていた。

 ……そして、こよりが普段座るところではない炬燵の一辺に、その人がいた。


 その人はこよりの来訪に気づき、振り向いて、微笑んだ。

「おかえりなさい」初めて聞く、すこしたどたどしい、でも優しい言葉。

「あ、あの……」声が縮こまる。

 かれのやさしい笑顔を、まじまじと凝視してしまう。

 座っていても分かるぐらいに、背が高そうな人だった。


 やや長めで、緩やかに紐で纏められた髪は、銀糸のようなプラチナブロンド。ちょっと悔しいが、自分の染めた髪よりも、もっと綺麗に見える。

 形の良い眉の下には、思慮深そうな双眸が見えた。

 凛々しい眼差し。すこし疲れているように見えるけど、それは長旅のせいだろう。


(この人の目には、私はどんな風に写っているのだろう――)

 と、こよりがぐるぐると混乱していると、

「……はじめまして。私はロシアから来ました。アザト・ユリコフと言います」

 と、名乗りながら立ち上がった。こよりと同じ言葉だった。


「あ、は、はじめまして。私は、お父さんとお母さんの娘のこよりです……」


 自分でも間抜けだと分かるような自己紹介にも、かれは動ぜず、

「こよりさん。これから、よろしくお願いします」

 と、大混乱のこよりに、穏やかな笑みとともに挨拶をしてきた。

 その表情に誘われるように、こよりは右手を差し出した。握手のつもりだった。

「…………」

 その手を、アザトと名乗った青年は、ごく自然に握り返した。

 温かくて、大きな手だった。


(あ……いま、私、ひとの手を握ってる)


 握手などという気恥ずかしい行為は、もう何年もやっていない。それだけに新鮮だった。

 外国では、ごく他愛のないコミュニケ-ションにすぎない。しかし、こよりは動揺してしまう。

「ただの挨拶だよね」

とスルーしてしまうには、かれの手は温かすぎた。儀礼だけど、儀礼ではない、

そんな握手だな……と、こよりは一方的に思ってしまったのだ。


「……どうしましたか?」

 そんなこよりの様子を見て、アザトはすこし不思議そうな顔をした。その様子を見て、こよりは慌てて手を離した。

「あ、いえ、ごめんなさい」

 何故だかひどく恥ずかしかった。まるで挙動不審者だ。

 そんな自分の姿を見て、父の祐三と母の佳枝は、にやにやと笑っていた。これには腹が立った。


(……あのね、私だってね、緊張したりトチったりする事もあるってのよ)


 しかし、ここでふて腐れるわけにはいかないのだ。自分にとっては、これが栄えある国際交流のスタートなのだから。

 そんな事を考えながら、空いている炬燵の一辺に座った。これで、四辺の全てが埋まった。三人家族の紙宮家にとっては、とても喜ばしいことだ。

 そして、天板の上の急須を手にとって、お茶を一服しようとした時に、

「あ、なんかメール来た」

 胸ポケットから鳴る電子音が、こよりにメールの着信を知らせた。


「ちょっと失礼するね……っと」

 携帯を取り出し、フリップを開く。


 メールのタイトルは『どう?』

 差出人は、クラスの友達のフジノンこと「柚木 藤乃」だった。教室でこよりの携帯を読み上げた子だ。

 本文は、『かっこいい人来た? イケメンだった?』


(んも〜、あのお調子者ったら)

 しかし、この質問に対する答えは、もう決まっていた。

(うん、なかなかいい人っぽいよ。――でも)

 そう。この人の笑顔は、なんというか、もっともっと見てみたくなる――。


 しかし、まずはお茶で一服。

 今後のことは、それからでもいいよね、と、こよりは心の中で呟いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ