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彷徨のアリツィヤ  作者: 谷口由紀
第二章
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診療所にて

 ケーキ屋の紙包みを手にした誠は、小さな診療所のドアノブに手をかけた。


 ――『町橋内科診療所』。


 古びた診療所の扉を開くと、嗅ぎ慣れた消毒薬の匂いが漂い出てくる。

 その清潔な香りがもたらすのは、ほんの少しの恐怖と、やがて訪れる安心の予兆。ここは誠にとっての、いわゆる「かかりつけの病院」だった。


「……こんにちは」

 院内に足を踏み入れながら、挨拶する。

 しかし、受付のカウンターの奥に人影はない。今日は一応、休診日ということになっている。普段なら、ここは近所のお年寄りの社交場のようになっているのが当たり前の空間だ。


 ひと呼吸ほど間を開けて、

「先生、いらっしゃいますかー?」

 と、すこしボリュームを上げた声でそう言うと、

「……ああ、いるよ。誠君だろ? こっちにおいで」

 奥の診察室から、穏やかな男性の声で返事が返ってきた。

 豊かな低音。優しくも理知的な響き。

 聴き慣れた声だ。

「あ、はい」

 靴箱の脇の段ボール箱から、誠は薄っぺらいビニールのスリッパを取り出して履いた。足の甲の部分には、だいぶ薄らいではいるが『町橋内科診療所』と印刷されている。つま先のあたりに、ほつれた糸が飛び出しているが、そのやれた感じが、この病院の歴史みたいなものを感じさせた。


 板張りの廊下を歩いて、声の出処を探す。すこし薄暗い廊下に沿って、いくつかの診察室と病室があり、その入口付近には、古びたベンチがぽつぽつと並んでいる。ベンチの真向かいには、保健知識についてのポスターが貼られていた。『三大成人病を防ぐための、健やか食生活』、『食事と運動で、高血圧にサヨナラしよう!』、『負担金額の変更のお知らせ』。どれも、じっくり読んでみたいテーマではあるけれど、今はそれどころじゃない。


 第一、第二診察室……いない。その向こうの、第一病室を過ぎて、第二病室を覗いたとき。

「ああ、ここだよ」

 誠の足音を察したのか、第二病室から声がかけられる。

 その部屋を覗き込む。すると、声の主である男性の姿があった。


「あ、先生、こんにちは」

「お見舞いに来てくれたのかね」

「はい」


 町橋先生。この診療所の主だ。誠にとっては、幼時より自分の面倒を見てもらっている、最も身近な「先生」だった。

かれは誠の顔を見るなり、朗らかな笑顔を浮かべ、頷いた。


「……朝早くに怪我人をかつぎ込んでくるから、びっくりしたよ」

 その口調には、切迫したものは感じられなかった。そして、かれの穏やかな眼差しは、傍らのベッドに横たわる女性の横顔に向けられていた。


(……良かった)


 その女性の貌に目をやる。血と埃で汚れていた頬は綺麗に拭われて、安らかな寝顔には苦悶の色はない。清潔そうな綿のパジャマの丸い襟元からは、白い首筋が覗いていた。初めて遭った時に着ていた血染めのドレスは、この部屋にはなかった。

 誠がそのまま立ちつくしていると、町橋医師は折りたたみ椅子を一脚用意して「まあ、座りなさい」と、誠に着座をすすめてきた。


「……で、先生。この人の具合は大丈夫ですか?」

 先生に頭を下げて座りながら、誠は訊いた。


「ああ、見ての通りだよ。大丈夫だ。……外傷はなかった。ただ、脳や内臓については精密な検査が必要だ。容態を見てからだが、検査機材のある病院に移ってもらうほうが良いだろうね」


「そうですか……先生、どうもありがとうございました」

 誠がそう言うと、町橋医師はにっこりと笑って頷いた。


「うん。今は眠っているけれど、君が学校に行っている間に、すこしお話を伺ったよ。急に体調を悪くしたときに、親切な少年に助けられた……と。昔は熱を出してはお母さんに連れて来られてた誠君も、いつの間にか、立派になったんだなあ」


「いつの話ですか」


「ははは。……まあ、こちらの方も、まだあまり日本には慣れておられないようだから、まずは体をいたわってもらわないとね」


「それじゃ、よろしくお願いします」


「ああ。……ところで」


「はい?」


「こちらの方がね、誠君にお礼を言いたがっていたよ。……『とても、嬉しかった』。そう伝えてくれ、と頼まれた。もし良かったら、また顔を出しなさい」


「あ、……はい。それじゃ」

 椅子から立ち上がりながら、誠はふたたび、ベッドに横たわる彼女を見た。

 綺麗な、端正な相貌だ。いまはとても穏やかに眠っている。


 安らかな寝顔。ふっと思ったのは、寝顔というものは、なぜか見る者にも安らぎを与えてくれる、ということだ。仕事から帰ってきた親が、帰宅して子の寝顔を見るときの気持ちも、こういうものなのだろうか。


 しかし、その安らぎにも隠蔽されないほどの印象はある。

 彼女の瞳。そこに宿っていた強い眼差しは、今でさえも、ありありと思い出せるのだ。

 深紅の瞳の内にともる「何か」は、昏倒してしまいそうなほどの苦痛や疲労にも折れることなく輝き、まっすぐに自分の瞳を見据えていた。

 あのときに、誠は気づいたのだ。

 その「何か」に、かなうならば、もっと近づきたい、と。


 たぶん、魅せられてしまったのだと……思う。


(そういうことにしておこう)


 と、自分の気持ちに一段落つけてしまうと、あとに残るのは、ただ「これからはどうしよう?」という、素朴な疑問だけだ。このまま此処でぼんやりとしていても、誠に出来ることはない。むしろ、暇をもてあまして、つい彼女の顔とか胸元とかをじろじろと見てしまいそうで怖かった。


(いやいやいや、俺はそんな不純な目的で助けたわけじゃないんだが)


 そんな誠の内心を知ってか知らずか、町橋先生が、退出するきっかけを作ってくれた。

 かれは椅子から立ち上がりながら言う。

「……よっこらしょ、と。それじゃ、他の仕事をしようかな」

 と、のんびりと言った。大変な仕事のはずなのに、それを苦にもしないし、他人にも苦労を悟らせない。がっちりとした体格の、優しい先生だ。かれの人となりを、誠はよく知っているつもりでいた。だからこそ、この女性を診てもらおうと思えたのだ。


 考えるまでもない。正直なところ、いまの誠には、この女性に対して出来る事はあまりにも少なかった。

 彼女の体力恢復を助けることができるのは、知識と技術を備えた医師と、医師の治療を受け、治癒を待つための時間だけなのだ。


(ああ、俺って役立たずだな)

 と、一人でへこんでしまいそうになる。

 が、その時、誠はあることを思い出し、尋ねた

 それは、とても大事なことだ。

「先生、あの、俺、まだこの人の名前を聞いていないんだけど」

 俺がそう言うと、先生はすこしだけ意外そうな顔で答えた。


「そうなのか。……この人の名前はね……」


 + + +


 ……そして、誠は診療所を退去した。

 外に出たら、太陽はすでに沈みかけていた。

 暗くなった路地を歩きながら、さっき知ったばかりの彼女の名を、ひとり呟く。


「――アリツィヤ、か」


 耳慣れない、しかし、優美でありながら端正な響き。呟いたとたん、言葉は唇から離れて、路地を去りつつある夕闇に連れ去られていく。


 アリツィヤ。心の中で反芻する。

 どこの国の人だろう、と、ぼんやりと考えながら。

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