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彷徨のアリツィヤ  作者: 谷口由紀
終章
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別れの言葉

 アリツィヤとあの少年はどうしているだろうか。


 不意に、彼女らの姿がベルクートの脳裏をかすめた。

 それも、戦いに臨んだときの二人ではなく、町中で出会ったときの平服の二人だ。


 アリツィヤにとっての戦う理由は、『王』を討伐したことで失われた。彼女がこのまま隠棲(いんせい)を望んだならば、もはや再戦の機会はあるまい。


 己の胸中にかつて宿っていた彼女との戦いへの渇望が、いまや薄れかかっているのを感じる。そのきっかけは、『王』との戦いが終わったあとの、アリツィヤの貌だった。彼女と『王』のあいだに、果たしてどのような関係があったのか、それは分からない。だが、もはや彼女は戦うための理由を喪っていた。


「……ならば、逃げよ、か」

 ベルクートは呟いた。


 賢人会議。脅威となる敵対者は退け、在野の知識は奪う。行動原理は単純なものだ。それゆえに、アリツィヤが組織に捕捉されぬように振る舞えば、ベルクートをはじめとした現代の魔術師との接点は失われるはずだ──。


 そんなことを考えていたら、横合いから声をかけられた。


「おい! 何をぼんやりしているんだ? せっかくこの僕が見送ってやってるのに」

 ルーカだ。傍らにはキアラの姿もある。かれの背後には、紙宮夫妻とこよりが控えていた。


「ああ、すこし考え事をしていたんだ。悪かったな」


「ふん。そんなことは飛行機に乗っている間にいくらでもできるだろ。この際挨拶でもなんでもいいから、何かしゃべれ」


「すぐに期待に応えてやる」


 ルーカと言葉を交わしているさまを、こよりはきょとんとした顔で眺めている。その理由は言うまでもない。意思そのものは、祐三の打った心話の式によって通じているものの、発話そのものは、お互いがお互いの自国語で行っているからだ。


「アザトさんとルーカ君、結構仲がよかったのね」と、こよりが顎に手を当てながら、のんきな調子で言う。


「いや、それは誤解だ。私は今日をもって失礼させてもらうが、こよりさん、大変だろうが、どうかルーカの面倒を見てやってくれ」


「大丈夫。わたし、にぎやかなのは好きだから。……アザトさんはこれからどうするの?」


「帰ったら……そうだな。久しぶりに、子供のころを過ごしたところへ顔を出してみようか」


「里帰りね」


 こよりと気楽に言葉を交わせるようになったのは、やはり、戦いが終わってからのことだ。穏やかな祐三の語りに比べると、若いこよりの喋り方はなかなか意味を掴むのが難しかったが、それも慣れた。だが、この国の言葉の勘所を掴みかけたころには、こうやって離れなければならない。


 ベルクートは、足下の背嚢(はいのう)を背負い上げた。この背嚢は祐三から譲ってもらったものだ。右腕を失った自分には丁度いい。

 こよりの次に語りかけてきたのは、祐三だった。

「そういえば、ささやかだけど土産物があったな」

 と、かれは紙包みを手渡してきた。


「ありがとう」と、ベルクートはそれを受け取り、右腕で支えて、中を覗いてみる。

「いい匂いだ。昼食と、この小瓶は……ウォトカか。そういえば、ここに来ている間は一滴も酒を飲んでいなかった。感謝する」

 と、ベルクートは酒瓶を摘み上げて微笑んだ。


「さて、そろそろ出発しなければならない時間だ。紙宮の方々には、ほんとうに世話になった。……ありがとう。ルーカと妹君は、十分に身体をいたわってくれ。協力に感謝する」


 それだけを告げて、ベルクートは小さく頭を下げた。紙宮家の人々とキアラは微笑みとともに手を振り、ルーカは追い払うように手を払った。

「なにが協力に感謝だよ。これは仕事なんだ。感謝されるいわれなんかどこにもない。お前はさっさと飛行機に乗って、シートで酔っぱらって寝てしまえばいいんだ」


「もちろん、そのつもりだ」と言いながら、ベルクートは紙包みを掲げてみせた。その様子を見て、珍しくルーカが笑った。少年らしい笑顔だ。


 別れは済んだ。


「それでは」と、ベルクートはかれらに背を向けた。その際に、不意に予期せぬ一語がこぼれた。「……また、な」

 幸運にも、その言葉に疑問を差し挟む者は現れなかった。ルーカでさえも。


 ──また、か。


 市街への道を歩きながら、ベルクートは考えた。

 存外、ここでの短い日々を好ましく思っていたのだろうな、俺は、と。


 ああ、悪くはない。いずれ訪れよう、という箇所があるということは、それがないよりははるかに良い。


 そのことに思い至ったとき、なぜかふたたび、アリツィヤたちのことを想起してしまった。たびたび思い浮かぶということは、なにかが鍵になり、忘れがたい存在となってしまったということか。


 だが、彼女らは彼女らでうまくやるだろうさ、とベルクートは思った。

 戦いの後で、消滅してしまったあの騎士の言葉が真実であれば、もはや、アリツィヤの彷徨は終わったということだ。そして、今はどうか知らないが、やがて彼女の傍らを、あの少年が占めることになるだろう。


 彼女らは、いずれひとところに落ち着く。そのことが知れているものを、こちらが心配してやる道理はない。



 そうだ。彼女の彷徨は終わったのだ──。



 俺は俺で、なすべきことを為すだけだ。

 とりあえずは、祖国に戻り……いや、それより先に、美味い昼食とともに、旨いウォトカを飲む。

 全てはそれからだ。ああ、悪くはない。



《了》

機内に持ち込めるアルコールは70度未満だそうです。

ウォッカ、ウォトカのアルコール度数の平均は40度で、中には95度のものも!

今回は「持ち込める度数」のミニボトルであった、とご理解いただけたら幸いです。

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