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彷徨のアリツィヤ  作者: 谷口由紀
第六章
31/50

絶望

「――――!」


 ちょうど「王」が纏っていた空間のように、それはキアラの身体に、まるで黒く淀みきった薄膜のようにまとわりつく。

 そして、不可視の力をもって、キアラを「王」の許へとたぐり寄せる。


 ルーカの炎は、無防備になった「王」の身体をしたたかに灼き焦がしているようだった。火焔の直撃を受け、甲冑に包まれた身体はさながら炉心のようだった。だが、王は騎乗した姿勢を揺るがすことはなかった。ただ、黒の空間に引き立てられるキアラを待っているようだった。


「――よき戦いだ。狩るに値する」

 業火のなかで、「王」はそう告げた。

 苦痛などまるで感じていないような言葉だ。


 人肉を焦がす不快な匂いが周囲にたちこめる。

 「王」は、たしかにルーカの炎によって灼かれていた。その臭気は、知覚するものに本能的な恐怖と萎縮をもたらす。


 闇に捕らえられ、引きずり出されるキアラは、ついに「王」のもとに達する。無口な、だが(つよ)い少女は、その身を異界へと通じる空間に取り込まれながらも、なお「王」を見据えていた。


「――兄さん!」

 キアラが鋭く叫ぶ。


「くそ……今だ! 今すぐに、必ず助ける!」

 その声に、ルーカは取り乱しながらも答えた。


「……ごめんなさい、兄さん。もっと早くに……退かなければいけなかった」

 その言葉は、ひどく透徹(とうてつ)としていた。捕らわれたその身体に、苦痛はないのかもしれない。抗いようが無くとも。だが、キアラは燃えさかる「王」の肉体にじりじりと引き寄せられていた。


 ルーカは妹を巻き込むことを怖れてか、次なる炎を生み出させずにいる。一方で、誠は何の手出しも出来なかった。


(――だれが「敵」なんだ?)


 先ほどまでの敵であったルーカとキアラは、今にも「王」に敗北しようとしている。それを誠が望むなら、このまま放置するだけで良いことは明白だった。


「――アリツィヤ?」

 と、誠が彼女に向き直ろうとした時。

 アリツィヤは、キアラと「王」の間に割って入っていた。


「アリツィヤ! 危ない!」


「――貴様!?」と、ルーカ。


 彼女の焼け焦げた衣服の裾が、キアラを守るかのようにはためく。

 熱傷による苦悶をこらえ、アリツィヤは「王」の目前に立ちふさがった。


「王よ、もはや戦う必要はありません。どうか……剣をお収めください」

 そう、訴えかける。

 誠は、アリツィヤの思念から、そこに揺らめく感情を必死で読み取ろうとした。激しく入り乱れている思いのなかで、際立って強く浮かび上がるものは。


(……哀願、なのか)


 アリツィヤの眼前で、「王」はなおも剣に暗闇を纏わせつつあった。その一振りがどのような被害をもたらすかは、今の誠にもはっきりと分かる。アリツィヤの細い身体など、ただの一撃で消え失せてしまうだろう。

 あの全き闇の空間は、どのような防禦であれ、おそらく防ぐことはかなわない。魔力の干渉さえ起こすことなく、「存在」を異界に呑み込み、消し去る。そんなものに、アリツィヤはどうやって抗しうるのか。なんの策もなく、ただ「王」の目前に立つことなど、誠には考えられないことだった。


 そんな誠の考えをよそに、アリツィヤは諭すように言う。

「――あてどなく彷徨い、戦うものを殺め続けたとしても、……御身が望まれた安らぎの日は、決して訪れることはないのです!」


 アリツィヤは、背後のキアラを守るように、水平に剣を構えた。真白き刀身を形づくる加護は、もはや薄れつつあった。

 誠には、いまのアリツィヤが逡巡しているのが分かった。


 ――彼女も、うすうすは分かっているのだ。

 もはや、「王」が、刃を収めることなどないことを。


(だが、だからといって、……戦えるか?)

 既に、「王」に抗しうる者は、ひとりも存在しなかった。


 誠は面を上げ、周囲を見渡す。アリツィヤ、ルーカ、キアラ、そして自分……。魔術師たちの魔力は枯れ、ルーカを除いて、その肉体はひどく傷ついている。そして、ルーカの渾身の攻撃は、すべて苦もなく退けられた。


 そして、立ちふさがるアリツィヤは、もはや満身創痍だった。


 「王」は、そんな彼女をどう見ているのか。兜に阻まれて、その表情は全く分からない。かれはゆっくりと長い剣を掲げた。刀身は深淵のように淀む闇で満ちている。そして――アリツィヤに向けて、振り下ろした。


 刀身から解き放たれた闇は疾くアリツィヤに襲いかかり、その存在を呑み込もうとする。アリツィヤはからくも回避し、体勢を整える。闇は背後のキアラの頭上を飛び越え、重力の影響を全く感じさせない直進の果てに、消えていった。


 「王」の、ためらいのない一撃。それはアリツィヤに翻意をもたらすことができたのだろうか。誠は、そうであってほしい……と思いながら、叫んだ


「アリツィヤ、あいつは……もう、敵だ!」


 その言葉に、アリツィヤはわずかに誠に視線をよこした。

 そこには、未だ抜けきらない躊躇が感じられた。


「――そう、かもしれませんね」


 そして、アリツィヤは「王」に、真っ向から向き直り、「御身に弓引くことを、お許し願います」と、ただそれだけを言った。一言の弁解もない。


 剣を掲げたアリツィヤは、背後のキアラを守るようにして立つ、キアラは、アリツィヤにそっとにじり寄り、何事かささやく。


「…………」

 何を言い交わしたのかは、誠にも分からなかった。だが、アリツィヤが小さく頷いたのを見た。そして、刀身が薄れかけた剣を、まっすぐに「王」に向ける。

 その動作と同時に、アリツィヤの思念が誠に届いた。


(誠さん。あなたの魔力を……借り受けさせて下さい)

 その願いに、誠は何も答えぬまま己の魔力を分け与えることで答える。この戦いの前に、あらかじめアリツィヤに打たれた術式に沿って、魔力を体外へと放つ。もはや魔力の残りは乏しかった。だが、渡せる限りの魔力を、すべてアリツィヤへと差し出した。魔力とは、すべての生命活動の源だ。使い果たせば破滅をもたらす。


(……だけど、いまはアリツィヤにこそ必要なものだ)

 ――失うことへの恐怖はなかった。ごく短い交流しかないものの、誠はアリツィヤを「信じる」ことができた。


 アリツィヤは誠の魔力を受け取ることで、それを剣に付与する。白い刀身の内側に、ふたたび色鮮やかな魔力の渦が生じた。その力を撃ち込むことができれば、いかに「王」とても、無傷ではすまないだろう。


 アリツィヤは「王」めがけて走り出した。地を這うように低く構え、右の体側に引きつけた剣もろともに疾走する。


 「王」は、やはり「闇」を顕現させ、迎え撃つ。空中に現れた空間は、水面に垂らした油墨の一滴のように広がる。丁度、アリツィヤの進路を塞ぐように。


 だが。


「――ああああぁぁっっ!」

 絶叫。それはルーカが魔力を奔らせたことを示す声だった。

 余力を振り絞ることで生み出された、極大の火焔。それは彼自身の秘蹟には及ばずとも、いま得られる力としては最大級のものであることが感じられた。


 「王」は、その脅威に対処するべく、アリツィヤに向けていた「闇」をもって楯とする。その瞬間、ルーカの火焔が轟音とともに拡がり、「王」を大気もろとも焼き尽くす。球状の轟炎が「王」を包み、その姿は視認できない。だが、アリツィヤはそこに斬り込む。


「やぁぁぁっ!」

 アリツィヤの気勢。同時に、炎の明るみさえも制する、魔力が放たれたときの虹色の光が、そこから溢れだした。


 やがて炎と黒煙が消え失せたとき、そこに「王」とアリツィヤの姿が現れる。


 アリツィヤは剣を取り落とし、倒れ伏している。彼女の意識が消失しかけていることを、誠は知った。

 「王」は――なおも、健在だった。甲冑の胴部が砕けてはいるものの、かれは騎馬の上での偉容を少しも崩してはいなかった。


(――ルーカは)

 誠が振り仰ぐと、かれもまたアリツィヤと同様に、雨に濡れたアスファルトに沈んでいた。その表情からは意志や気概が完全に抜け落ち、うつろな眼には、淀んだ光がちらついている。そして、苦しげな喘鳴だけが、かれの唇に宿っていた。


 精神の汚損が始まっている。それが、魔力を使い果たした者の末路だった。


 キアラは、いまもって「闇」に捕らわれたままだ。


 誠は、これより数瞬後の手立てを考えようとして――諦めた。

(……何も……出来ない)

 手詰まり。為すべき手段は全て為く、拾える途は全て拾った。だが、それら無数の鍵によっても開かぬ扉が、目の前にある。


 視界はかすみ、焼け焦げた肉体の痛みだけが、ありありと蘇る。

 ふと、誠は己の手足を見た。


(――駄目だ、動かない)


 気づいてみれば、酷いものだった。手指の皮膚は焼け焦げてこわばっている。逃れる際に、じかに火焔を受けてしまった脚部などは、炭化しかけた表皮に、衣服の化繊が溶けてべったりと絡んでいる。

 ひどく、非現実的な光景だった。ほんの数日前までの暮らしからは、まるで想像もできないほどの傷だ。過大な苦痛は、もはや麻痺しきってしまい、知覚できない。


 止まりかけた思考が示す、ごく単純な解答。

 それは。


「……死ぬのか」


 けして恢復しえない傷。そして、己を生かしたまま捨て置くはずのない、敵。

 誠は目を伏せて、呟く。

「……アリツィヤ、なにもできなくて、ごめん」

 その言葉に答えるものはいなかった。

 そして、ただ終わりを待とうとした、その時。


 ――不意に、空気が歪み始めていた。


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