同行
その日、誠はいつもより少しだけ早く起きて、いつもより少しだけ身支度に時間をかけた。誰かと会うために身だしなみに気を遣うのは、これまでの人生の中でも、そうそうあったことではなかった。
「……さて、と」
明けて、土曜日。今日が約束の日だったな……と、誠は思った。
アリツィヤの外出に同行する日。そして、かなうならば、これまでの疑念を晴らすために用いるべき、貴重な一日。
いま誠は、町橋診療所の玄関の前にいた。
普段ならば、ノックもせずに気安く通り抜けてしまうところだが、今日に限っては、ちょっと気後れしてしまう。だが、そこで奮い立ち、思い切って玄関をくぐる。
「……おはようございます」そう挨拶すると。
「ああ、誠君ね。いらっしゃい」と、アリツィヤではない女性の声が迎えてくれた。
声は、受付の窓口から。そこにいる女性は、誠にとっては町橋先生と同じほどに顔見知りの人だ。
「あ、おばさん、こんにちは」
町橋先生の奥さん。先生のすこし太めな体格に比して、奥さんはすっきりした体型だ。顔には温和で知的な微笑みを浮かべている。そのたたずまいは、むしろ町橋先生よりも医師らしいが、彼女はもっぱらこの病院の事務を担当している。
平日は事務室で働いているが、看護士さんたちの勤務シフトの関係で、土日では受付業務も兼務しているらしい。
「朝から偉いわね。奥でアリツィヤさん、待ってたわよ。おあがりなさい」
「はい」
……待っててくれている。その言葉になにか幸先の良さを感じながら、誠は一路病室を目指した。
「……おはよう」
そして、病室に入りながらの挨拶。
「あ、誠さん、おはようございます」
と、アリツィヤも挨拶を返してくれた。
「アリツィヤ、今日は……ふつうの服なんだね」
「はい。先生の奥さんが、貸してくださいました。……どうですか?」
「ああ。とっても良く似合ってる」
「嬉しいです」
今日のアリツィヤの格好は、病院衣ではなく、茶色の薄手でシックなセーターと、黒のやや長いスカート。スタイルのいい脚は、濃い色のストッキングで包まれている。不意の寒さに備えて、手には毛糸織のケープを手にしている。アクセサリ類は少ないものの、その清楚な居住まいは、美しさと親しみやすさをともに宿していた。
(……でも、アリツィヤがこんなに大人っぽい格好なのに、俺はちょっとガキっぽすぎるかもな)
改めて、誠は自分の格好を意識した。自分にしては悪くない着合わせだと思うけれど、アリツィヤの横に並んだら、まるで父兄同伴の教育面談に出向いているようだった。
が、アリツィヤは、「制服姿ではない誠さんも、……素敵ですよ」と、微笑みながら言ってくれた。
そんな心遣いを感じて、誠はつい舞い上がってしまう。だが、そんな気持ちに有頂天になって、本来の目的を忘れてしまうわけにはいかなかった。
(……これはデートに見えるけど、デートじゃないんだぞ。しっかりしなきゃ)
そう、己に言い聞かせる。
「それでは、出かけましょうか」
アリツィヤは言った。誠は頷いて、アリツィヤとともに玄関に向かう。
受付の前にさしかかったときに、町橋先生の奥さんが声をかけてきた。
「……あ、二人で出かけるのね。誠君がいるなら安心ね。それにしても、そんな地味な服しかなくてごめんなさいね、アリツィヤさん」
すまなさそうに言う奥さんに、アリツィヤは首を振って応えた。
「いいえ。素敵な服を貸して下さって、ありがとうございました。ここの方には、お世話になってばかりで……」
「いーえ。別に大それたことをしたわけじゃなし。なにより誠君も、こんな美人と一緒に歩けて、嬉しいでしょ?」
と、奥さんは誠に話を振ってくる。
「……え、あ、その……そりゃ、嬉しいけど……」
しどろもどろになる誠に、奥さんはにんまりと笑った。アリツィヤも、もうすこし歳を重ねればこういう笑顔を浮かべるようになるのかな……と思わずにはいられない、いろいろと含みのある笑顔だった。
「じゃあ、俺たちは出かけるよ」
「行ってらっしゃい」
そう挨拶を交わしたのちに、誠たちは外に出た。
+ + +
「……すこし、肌寒いですね」
四月初旬の午前中。いまだ鋭さの残る寒さに、誠の隣のアリツィヤはケープの襟元を掻き合わせた。誠たちは、市街の中心地を歩いている。休日ということもあって人通りは多い。ただ、人々とすれ違いながらの道行きで、外国人女性と高校生という異質なカップルが、すこし「悪目立ち」していることも事実だった。
ちらちらと落ち着かない視線を浴びながら、誠はアリツィヤと歩く。
(ああ、俺みたいなガキが彼女の横にいるのは、はっきり言って変だって事ぐらいは分かっているよ。だけどな、俺とアリツィヤは、なかなかに謎のあるカップルなんだぞ)
あえて、誠は自分に言い聞かせた。そうだ。自分はアリツィヤの横に並び立つ資格があるのだ。……多分。
「あの、誠さん。どうしましたか?」
いろいろと気負いが漏れ出ている誠に、アリツィヤがそう声をかけた。
「あ、いや、なんでもないよ。とりあえず、体調はどう?」
「ええ、大分良くなりました。身体はもちろんですが……」
すこし、アリツィヤは声を落として、「――魔力も、回復しています。今ならば、追手に遅れを取ることはありません」と、誠だけに聞こえるように言った。
微笑みは絶やしていないものの、その言葉が意味することを、誠は知っていた。
「これからも……戦いは避けられないのかい?」
知らず、声のトーンが落ちる。
「おそらく、そうでしょう。……でも」
「でも?」
「すぐに、という事はないと思います。他の大魔術師たちに比べれば、私は小者に過ぎませんから。……だから、今日はのんびりできると思います」
「ああ、そうだね」
のんびりできる――その言葉を、果たして彼女自身も信じているのだろうか。
戦いのあとの、アリツィヤの凄惨な傷を思い出すと、誠は単純にその言葉を信じることができなかった。だが、来るべき戦いの日々を控えて、今日という日をやすらぎに満ちた時間とする――それは、かなうならば、そうしたい。そう、誠は思った。
(だとしたら、なおさら無粋な切り出し方はできない……か)
まず、誠とアリツィヤが入ったのは、映画館だった。
この選択で正しかったのかどうか……と、誠はすこし躊躇もした。館内に入るときに、アリツィヤに「映画、好き?」と訊いたが、彼女はしずかに微笑みながら頷いていた。
選んだのは、自分ひとりであれば絶対に見ないような、優しげなラブ・ストーリー。気恥ずかしくも甘やかな、小さな恋のメロディ。
おだやかに空調の効いた暗闇を、頭上にまたたく光線が貫く。スクリーンに描き出されたかりそめの光景は、ひとときの安らぎをもたらす。どこかの誰かが紡いだ物語。その流れに身を任せて、そして……。
「……久しぶりに映画を見たよ」
映画館を後にして、誠はそうアリツィヤに語りかけた。
「私もです。素敵な映画を見られて、とても嬉しかった」
ほう、とため息をつきながら、アリツィヤはそう答えた。
「そう言ってくれると、俺も嬉しいよ」
アリツィヤの横顔を眺めながら言う。ちらりと目が合うと、つい逸らしてしまう。スクリーンのなかの恋人たちは、なんの臆面もなく、お互いがお互いを見つめ合っていたが、まだ誠は、そういう距離には慣れていなかった。
……映画を見たあとは、どこかでお茶でも飲めたら、と、誠は漠然と考えていた。そうすればいかにもデートっぽいかなあ……と、事前にいちおうシミュレートはしてみた。そう。このまま二人で、夕方くらいまではのんびりと。そして、タイミングを見計らって、……話さなければならないことを話す。そういう算段を立てていたのだ。
だが。その目算の前提のひとつが、たったいま不意に崩れた。
「あ、釘乃君」
「……え?」
唐突に声をかけられて、誠はあわてて振り向いた。おそらく今日は知り合いとは会うまい、と勝手に信じ込んでいたので、すこしショックが大きかった。
そこには、紙宮こよりが一人の男性を伴って立っていた。
「えっと……その人は……、っ!」
その存在を視界に入れ、知覚し、認識した瞬間に、――怖気が走った。
「…………!」
言葉も出ない。いや、出す必要がなかったし、出すべきでもなかった。
こよりの半歩後ろに佇んでいるのは、忘れもしない、あの夜にアリツィヤと闘っていた男だった。
知らず、視線が険しくなるのを誠は感じた。だが、今ここで態度をあからさまにしてしまうと、それは致命的な破綻を招いてしまいそうな……。
「……? どうしたの、釘乃君」
いつもどおりの呑気な口調でこよりが言った。その言葉をきっかけにして、誠は無理矢理に平静な表情を取り戻した。
「……あ、いや。紙宮こそ、今日はどうしたの?」
そう訊くと、こよりはにっこりと笑って頷いた。彼女の吐く息は、まだ少しだけ白い。
「うん。今日はね、うちに来てるアザトさんと買い物に来てるの。きのう、釘乃君が言ってくれた通り、ちょっと勇気出して誘ってみちゃった!」
「そうか……」
改めて、誠はそのアザトと呼ばれた男を見つめた。アリツィヤはベルクートと呼んでいたから、どちらかは通名なのだろう。あるいは、どちらもが。
誠の視線を真っ向から受け止めて、その男はかるく頭を下げた。
「こんにちは、アザト・ユリコフです。こよりさんの、ご友人ですね」
殺気の類は、いまは感じられない。それを隠しおおせる程度のことはやってのける、というわけだろうか。
(……なるほど。この地に溶け込むための努力の一環、というわけか)
ここで後先考えず襲いかかってくるようなタイプでないことだけは、信じても良いのだろう。
「……はい」
誠は短く答えた。そして、アリツィヤの様子を窺う。
アリツィヤも、内心はどうあれ、その典雅な居住まいを崩すことなく、その男に黙礼した。
(……アリツィヤ、どうすればいい……?)
誠は、心の内で問うた。闘いの場においてひととき心が通じたのであれば、いまここで通じてくれなければ困る……と念じながら。
果たして、問いに対する答えは返ってきた。
『誠さん……いまは、ここで事を起こすことはありません。私も、ベルクートも、巻き添えを生むような闘いを望みはしません。……ここは、穏便に別れるとしましょう』
(そうだな。紙宮もいるから、奴も事を構えたくはないだろう)
そう納得したところで、誠はこよりの様子を確かめた。
誠とアリツィヤ、そしてベルクートの、隠しきれないぎこちなさを感じたのか、こよりはすこし怪訝そうな表情を浮かべていた。
「んー、ちょっと二人のお邪魔だったかな? ところで釘乃君、すごく素敵な人と一緒なんだね。そちらの方も留学生?」
と、こよりが話を振ってくる。
「あ、いや、その……前に話しただろう? 俺が病院にお見舞いに行ってるって。その人が、こちらの……アリツィヤなんだ。今日は、病院から外出することになったら、一緒に行くことにしたんだ」
「へえ。割といいところあるのね。……と」
こよりはアリツィヤに向き直って、会釈した。
「改めて、こんにちは。私は釘乃君と同じクラスの、紙宮こよりって言います」
その屈託のない挨拶を、アリツィヤは微笑みとともに受け止めた。
「こんにちは、こよりさん。初めまして」
「初めまして! ところで、ちょっと訊いていいですか? アリツィヤさんと釘乃君って、どうやって知り合ったんですか?」
「紙宮、直球だな」
思わず動揺しそうになるくらいにストレートな質問だった。
だが、アリツィヤはかるく頷いて、「ええ、私がこの近くで体調を崩したところを、誠さんが病院まで運んで下さったんです。それ以来、私のことを気にかけて下さって……」と、落ち着いた様子で答えた。
「ふーん、ほんとここ最近で、釘乃君の印象がだいぶ変わったなー。前は単に、ぼけっとした男子ぐらいにしか思ってなかったけど」
と、こよりがのんびりと言う。
「それ、喜んでいいんだろうな」
事情を知らないこよりの言葉は、いっそ場違いなほどに呑気に聞こえる。一触即発の危険は去ったようだが、このまま同行できるほどの気安い関係ではない。
(アリツィヤ、そろそろ行こうか)
『……はい』
そう合意に至ったところで、誠はこよりたちと別れることにした。
「それじゃ、俺たちはもう行くよ」
「え? 早くない?」
こよりがきょとんとした様子で答える。誠はこよりの耳元に口をよせて、囁いた。
「バカ。俺だって分かってるよ。せっかく紙宮が留学生の人と仲良くなろうとデートしてるんだ。邪魔するわけにはいかないだろ。俺も俺で頑張るから、紙宮も頑張れ」
気を遣っている、ということをアピールして、こよりに言い聞かせる。
「え? え? デート? ……あ、うん。頑張る」
誠がそう熱弁すると、こよりはすこし顔を赤らめながらも頷いた。
そして、じゃあ、と言って、別れ際にベルクートの顔を見る。
――さしたる変化はない。ただ単に、初めて行き会った者としての、ごく自然な貌だ。
その奥には、凶悪な追手の牙が隠されているのか、とも誠は思ったが、ふいに先日のこよりの言葉が、脳裏に滲み出た。
『――うん。『アザト・ユリコフ』って人。普段はちょっと無口だし、お父さんとばっかり話し込むのがアレだけど、なんだかあったかい雰囲気の人なの。……仲良くなりたいな』
ただ騙すだけの不実な男が、こよりにそのような印象を抱かせることができるのだろうか。アリツィヤと誠が見た一面の他にも、この男にも見るべき側面があるのだろうか……。
(……いや、今はそんなことを考えてる場合じゃないな)
ふと思い浮かんだ思考を、誠はむりやりに押し込める。
そして、様々な思いをこめて、その男――アザト、あるいはベルクート――に、言った。
「……それでは、失礼します」
「はい。またお会いしましょう」
誠と男がそう言葉を交わすと、こよりは「じゃあね、釘乃君。また明後日ね!」と、元気よく言って手を振った。アリツィヤは、二人にかるく目礼をする。
だが、去り際に男はアリツィヤに向き直って、何事かを囁いた。
「 」
その声は聞き取りづらいほどに小さかった。わずかに耳に入った音節からも、この国の言葉ではないことは明白だった。
男の表情は、あくまで自然。そして、男はこよりに促されるようにして、市街の中央へと消えていった。
誠とアリツィヤは、しばし二人の背中を見送ると、やがて、閑静な住宅街へと向かった。すこし路地を行ったところにある、小さな喫茶店を目指すつもりだった。
道すがら、誠はアリツィヤに訊いた。
「――アリツィヤ。さっき、奴が何を言ってたか、教えてくれるか?」
そう問われて、アリツィヤはわずかに躊躇ったのちに、答えた。
「はい。……こう言いました」
アリツィヤの表情が、すこし険しくなる。そして。
「――今はこれで失礼する、と。次に遭う時は、私か、彼か、どちらかがこの世界から消え去ることになるだろう――と」と、呟くように言った。
「…………」
誠は、返事をすることができなかった。この場では、アリツィヤもあの男も、刃を交わそうとはしなかった。だが、鞘に収められた剣は、次の機会に抜き放たれるためにこそ隠されるのだ。
(どちらかが、消える――)
その言葉が意味するものをかみしめながら、誠はゆっくりと路地を歩いた。アリツィヤの気配を、隣に感じながら。




