第七十四話 投降
承前
坂上
ケンたちは耳を澄ませていた。
今は坂に敵の姿は無い。
二度目の敵の攻撃は、引き付けて砂で足を滑らせたところを狙って丸石を落として押し返した。最後は大岩を敵に見せ付けるように坂上に持ってきたのが決め手になったようだ。岩が動かなくなった時は少し焦ったが、押していた連中をベノが落ち着かせてくれ、一度戻して楔になっていた地面の石を取り除いた後は問題なく滑らかに動いてほっとした。
敵はあと少しという所で逃げ戻らざるを得なくなって、気落ちしているだろう。次はどう出てくるだろうか?
敵が坂下に逃げ帰ってから、何人かの微かな話し声や物音はするが目に見える動きは無い。
ケンは詰めていた息を吐いて空を見上げた。
太陽はそれほど動いておらず、樹々の隙間から強い日差しを落としている。戦いが始まってから、あっという間に今に至ったようにも、もう何時間もこうしているようにも思える。
喉がひりひりする気がして唾液を飲み込もうとしても、口は乾いたままだ。また革袋から水を一口飲み下す。
だが、緊張を切らしちゃ駄目だ。仲間は俺を見ている。戦いがうまく行っているだけに、俺が気持ちを緩めたら皆が油断をする。そうなる前にもう一度引き締めた方が良い。敵が別の手を考え付くまで少し時間があるだろう。その間に仲間の持ち場を回って一人一人に声を掛けよう。
ケンがそう決めてその間の監視を隣にいるジーモンに頼もうとした時、坂の下から聞き覚えの無い女の叫び声が聞こえてきた。
「おーい! 上の者、聞こえる!? もう戦いは止めよ、降参するわ!」
ケンたちは驚いて顔を見交わした。
どんな手で攻めてくるかとは考えていた。諦めて引き返していく可能性も考えたが、降参してくるとは思わなかった。
聞き間違いじゃないのか?
「聞こえないの?! 降伏するって言ってんの!」
坂の下を見下ろすと、黄色っぽい髪の女が一人、口の周りに手で筒を作りながらこちらを見上げている。
聞き間違いじゃない。何が起きたかわからない。
ケンが周囲の仲間を見回すと、全員の視線が自分に集まっていた。
そうだ、何か返事をしないと。
ケンは坂下に向かって叫び返した。
「お前は誰だ! 代官はどうした?!」
「あいつは死んだわ! 私はボーゼ、衛兵伍長! 残った中で階級が一番上! 私たちはあんたたちに恨みはない! 全て代官が悪いのよ! もう戦うつもりはないわ! そっちの指示に従うから、どうすれば良いか言って!」
「ちょっとそこで待て!」
ニードが死んだだって? 坂を転げ降りる間に、頭でも打ったのか?
ケンはまた仲間たちを見回した。
半信半疑の者、ほっと安堵を顔に浮かべている者、様々だが、それぞれに戸惑ってどうしていいかわからない様子だ。それでも全員がこちらを見返している。その視線を浴びてケンは自分も呆然としていることに気が付いて我に返った。
違う違う、仲間を見ている場合じゃない。しっかりしろ、俺が何とかしないといけないんだ。
「皆、油断するな。本当に降伏するつもりかそれとも罠なのか、まだわからないが、降伏なら相手を全員捕まえるぞ。縄をありったけ集めろ。縛るのに使えそうなら、蔦でも何でも構わない。足りなければ、網でも何でも使うんだ。それから馬で急いで村へ知らせをやって、追加の荷馬車を持ってきてもらえ」
そう指示をしておいて、ケンは下に向かって叫んだ。
「全員、武器を全部そこに捨てて、鎧を脱げ! それから、一人ずつゆっくり上がってこい! 最初はさっき叫んだ女、お前からだ!」
「私は下でここの連中に指示をするわ! 最後にして!」
「駄目だ! 何を企んでいるのか知らないが、指揮者が最初だ! お前から来い! そうでなければ、降伏と認めない!」
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坂下
坂上からの指示は、ボーゼが最初に上がっていくことだった。
ボーゼは思惑が外れて小さく舌打ちした。
他の者たちを先に行かせて、自分がこの場で最後の一人になる。そうなれば誰にも邪魔されず、悠々と逃げ出せたはずだった。
何とか自分が残れるように交渉を続けようかと思ったが、すぐに諦めた。
愚図愚図していると、ここの連中にこちらの思惑を見破られかねない。そうすると厄介なことになる。それなら、他のやつらの頭が碌に回っていない今のうちにさっさと事を進めて次の機会を狙った方が良い。ここにいようが上に行こうが、隙を見てずらかるだけなのは変わらないのだ。
ボーゼは心の中で呟きながら決心した。
この領では結構楽しませてもらったけど、もう用は無い。大人しく捕まるわけにはいかない。代官殺しは死罪に決まってる。領都に送られたら吊るされて終わり。そうなる前に隙を見ておさらばよ。邪魔する奴にはあの世へと消えてもらう。どうせもう後は何人殺しても同じこと。
「あんたら、聞いたわね? 私は先に行くから、あいつらの言う通り、順番に来て。変な事は考えない方が良いわ。一度降伏したんだから、逆らったり逃げたりしたら殺されても文句は言えないわよ」
周りの衛兵たちにそう言い捨てると、上に向かって叫んだ。
「わかった! 言われた通りにするわ! 鎧を脱いで行くから、ちょっと待って!」
ボーゼは重い鎧をさっさと脱いだ。ニードの返り血を浴びて生臭かったので、せいせいした。
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坂上
ケンは周囲に槍を持った仲間を集めて、坂を見下ろしていた。
一人の女がのろのろと登ってくる。顔をよく見ると両頬に傷がある。
あいつだ。マーシーを不意打ちした女、ボーゼだ。
ケンはボーゼが坂を登り切る前に声を掛けた。
「両手を頭に乗せろ。上がったら腹這いになって、手を後ろに回せ」
「ええ、わかったわ。兄さんがここの頭?」
「黙って言う通りにしろ」
「そう言わないでよ。ほら、これでいい?」
指示通り腹這いになるのを見て、手を縛るように仲間に指示を出す。
その間にもボーゼは気安く声を掛けてくる。
「声が若いとは思ったけど、それ以上だわね。まだ二十歳にもなってないんじゃないの? 大したもんだねえ、参ったわ」
「話は後で聞く」
ケンは相手にせず、指示を続けた。
「連れていけ。あっちで足も縛るんだ」
「愛想の無いお兄ちゃんだねえ……はいはい、引っ張らなくても大人しく行くよ。後でたんと相手しておくれよ」
ボーゼは笑いながら連れて行かれた。
ケンはもうそちらを見もせずに坂の下に向かって叫んだ。
「次の奴、上がってこい!」
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結局、衛兵全員が坂を上がって捕縛されるまでに二時間以上が掛かった。怪我をして一人で歩けない者は、別の者の肩を借りて上がってこさせた。よろよろとよろめき、足を滑らせながら急な坂を登るため、時間が掛かる。
ケンは上がってきた者の数を数え顔を一人一人確認したが、ニードの姿はまだ無い。十六人目の者は、坂を登り切ると疲れ切った様子でケンに声を掛けてきた。
「俺が最後だ」
「代官はどうした?」
「坂の下で転がってるよ。無様にな」
そう答えた後に小声で付け加えた。
「ボーゼが殺した」
その男が連れて行かれた後、ケンは周囲にいた仲間に指示を出した。
「捕虜を村へ連れて行く。歩けない奴だけ馬車に乗せるんだ。歩ける奴は歩かせる。足の縄だけ外して、四、五人ずつ繋ぐんだ。但し、あの女だけはまだそのままにしておいてくれ。俺は、坂の下を確認してくる」
ケンは仲間が指示に従って動きだすのを確めてから、ゆっくりと坂を下った。
太陽は中天を通り過ぎ、西に傾き始めた。戦いの際には日陰だった坂に陽光が当たり始めているが、緊張しているためか暑さは感じない。
坂の下は静まり返っていた。自分の足が地面を踏む音だけが聞こえ、血腥さが鼻に付く。
下り切ったところで一度立ち止まり、深呼吸をしてから息を詰める。曲がり角に近寄り顔だけ出してそっと覗くと、男が言った通り、ニードの体が転がっているのが見えた。二羽の烏が体に乗って盛んにつついている。投げ出された腕や肢は不自然に曲がり、ぴくりともしない。周囲を無数の蠅が飛び回り、体や地面に流れた血に既に集っていた。本当に死んでいるのだ。ほっと息を吐く。
ケンは顔を顰めながら足を動かして近寄り、まだ持っていた槍を振って烏を追い払った。
すると、飛び上がりざまに、一羽が口から何か光る物を落とした。拾って見ると、何かの鍵だ。それを衣嚢に仕舞い、亡骸を転がして傷口を確認した。
ニードは左の脇腹を一突きに刺されていた。
左の掌にも深い切り傷があるが、これは刺された剣を掴んだのだろう。周囲を見ると道のあちこちに鎧や剣がある。大半は綺麗に纏めて置かれているが、亡骸の近くにだけはばらばらに落ちているものがある。これがニードのものなのだろう。
着ていたはずの革鎧を確かめる。血飛沫を浴びて汚れているが穴は開いていない。剣は鞘に納まったまま剣帯ごと転がっており、こちらも持ち主のものらしい血を被っている。
こんな傷はさっきの戦いでは負うはずがない。何かの都合で革鎧を脱いだ時に、不意を突かれて刺されたのは明らかだ。これは戦死じゃない、ニードの近くにいた奴による殺人だ。
さっきの男が言った通りだろう。
ボーゼがやったのだ。
上官殺しか。ニードの一番の手下だったはずなのに、自分の命可愛さに駆られて冷酷に裏切ったのか。何て奴だ。こんな女を、村に連れて行くわけにはいかない。自分が逃げ出すためなら、隙を見て村の女子供でも平気で人質に取って、用済みになったら殺しかねない。
そうさせるわけにはいかない。そんなことはさせない。
絶対に。
ケンは暫くして峠の上に戻ってきた。
怪我人は既に荷馬車に乗せ終わっている。今は、皆で他の連中を集めて繋いでいるところのようだ。
ケンは離れた場所に一人でポツンと座っているボーゼの所に行き、その前に立った。
ボーゼは両手を後ろに回し、両膝を立てている。長袖、長長袴を着ているがあちらこちらが土で汚れており、長袴は右の太腿の上の方が大きく破れている。足を縛ったはずの縄は、誰が外したのか、見当たらない。
ボーゼはケンを見上げて笑って言った。
「はは、兄ちゃん、ずいぶん待たせるわね。あたしはどうすりゃいいんだい?」
ケンが答えずに黙ったままでいても、ボーゼは気にする様子もなく喋り続けた。
「それにしても兄ちゃん、凄いねえ。見上げたものね。あたしが座ってるからだけど?」
馴れ馴れしく話してアハハと軽く笑うと、周りを見回した。
「あの小屋は見張り小屋兼、装備置き場かい? この前に来たときは影も形も無かったわねえ。さっき片付けてた網は、こっちが固まって進んで来たら一網打尽にして、動けなくなった所をあの大鏨でドスン! ああ怖い、鎧を着ても意味が無い。降伏して正解ね。それからそこらの地面に埋め込んだ丸太は、さっきの岩を動かすときの誘導用だね? それに加えて、もしもあたしたちに登られた時にも、足を躓かせることも考えたんだろうねえ。あんな岩、丸く細工するだけでも大変だったろうに、こんな山の上まで持ち上げてくるなんて、御苦労様。他にもまだまだ仕掛けがあるんでしょ? こりゃあ、ニードみたいな能無しじゃ、逆立ちしても勝てるわけなかったわね。さっきのやり取りでも頭のできの違いはわかってたけどね」
ボーゼは一頻り勝手に話すと、声を低くした。
「で、あたしをどうしようっての?」
ケンは無言で相手を見下ろしてから感情の籠らない声で答えた。
「他の連中は、村に一度連れて帰る。怪我人は手当てする。その後、都の監察使様が来たら引き渡す」
「そうかい。勝手にしな。で、あたしは? 連れて行ってもらえないの?」
今度の問いには即答した。
「ああ。縛り首だ。ここで吊るす」
ボーゼは笑い顔を保とうとしたが、その表情が一瞬消えたのをケンは見逃さなかった。
「あら、何の冗談? 悪いのはニードでしょ。あたしはあいつに命令されて付いてきただけの下っ端よ。責任を擦り付けられるのは御免よ」
「この間、マーシーを袋叩きにしたろう。頭を殴ったのはお前だ。俺は見ていた」
「マーシー? ああ、この前ここに来た時に揉めた男? ごめんね、あれは、ニードに最初っから命じられていたのよ。逆らう奴がいたら叩き伏せろ、容赦するなって」
「フーシュ村のエヴァン爺さんを殴り殺したのもあんただろう」
「あの爺さん、死んじゃったの? 可哀そうに……でも、それもニードの命令ね。私に責任は無いわ」
「そのニードも殺した」
「……それはあんたたちに関係無い、私たちの内輪の問題よ。あんたに裁かれる筋合いは無いじゃない。それに、あいつがいなくなったから、降伏できたのよ。あたしがやらなかったら、まだ戦いは続いていた。あんたたちも誰かが死んだかもしれないわ。冗談じゃないわよ、感謝されこそすれ、縛り首なんて、ありえない!」
そこまで言うと、ボーゼは周りを見回して大声を出した。
「あんたたち! この若いのを何とかしなさいよ! 降伏した女を殺そうとしてるのよ! こんな奴を野放しにしたら、もう、誰も降伏なんかしないわよ!」
「じゃあ、その降伏した女が、短刀を後ろ手に隠しているのはなぜなのか、教えてもらおうか」
ケンが平然と言い放つと、ボーゼの顔が蒼褪めた。
「……なんでわかったの」
「足の縄が消えてるからな。周りの隙を見て、こっそり切ったんだろう。他の連中の足縄が外されたから、自分の縄も無くなっても気付かれない、気付かれても誰かが間違って外したぐらいにしか思われない、とでも?」
「……」
「手はともかく、足縄は先に外しておかないと、逃げ出せないもんな」
「……それで?」
ボーゼの声が低く変わる。目付きが鋭くなり、ケンの眼を真っ直ぐに睨み付けてくる。だが、ケンは表情を変えず視線も外さずに、淡々と応じ続けた。
「生憎、俺は仲間を信頼しているんだ。仲間を平気で裏切るあんたたちと違ってな。俺がお前の縄はそのままにしておけと言ったら、誰も勝手に外したりしないんだよ」
「あんな糞野郎、仲間じゃないわ」
「そうなのか? まあ、俺には関係ないな。短刀は袖の中から、それともその破れたように見せ掛けた腿の所からか? 女だから、体をべたべた触って探されることはない、ということか?」
「……よく見てるわね。気持ち悪い男。女に嫌われてるでしょ」
「そうかもな。とにかく、あんたは降伏して、俺たちの指示に従うと自分で言った。それなのに武器を隠し持ち、縛った縄を勝手に切った。俺たちへの降伏を偽った奴には俺たちが罰を下す。偽降伏への罰は何だ?」
「……」
こちらを睨み付けたまま黙り込んだボーゼに、ケンは言い放った。
「縛り首だ」
その言葉を聞くなり、ボーゼは跳び上がるように立ち上がった。
手を縛っていたはずの縄が下に落ち、右手に持った短刀を二度、三度と振り回す。
ケンは後ろに大きく跳び退ってそれを躱すと、槍を構えた。
近くにいた仲間たちも慌てて武器を手にするが、ケンは注意を叫んだ。
「短刀遣いだ! 気を付けろ、投げてくる! 近付くな!」
ボーゼはやけっぱちになったように叫んだ。
「ああ、そうよ! マーシーとかいう男も、あの爺いも、頭を狙って殴ったのよ! あの爺い、白目を剝いて泡を吹いて、いい態だったわよ! ニードだけじゃない、他にも何人も殺したわ! 人を殴るのが、殺すのが、怯えて苦しむ顔を見るのが大好きなのよ! 笑っちゃうわよ!」
そこで一息吐いたが、まだ叫び続ける。
「どうせ最後は死刑台よ、どこで吊るされたって同じこと、構やしないわ! でも、一人じゃ死なない……そうね、道連れはあんたみたいな若い男が良いわ!」
「俺は、お前みたいな女は嫌だ」
そう答えると、ボーゼは歯を剥き出した。
「あんたじゃない、あたしが決めんのよ! さあ、来なさいよ! 一緒にあの世に連れて行ってあげるわ! 陰気臭い坊や、どうせまだ女を知らないんでしょ! あたしがたっぷり可愛がってあげるわよ!」
大声で怒鳴ると、また命知らずに前に出て短刀を振り回す。ケンが警戒して下がると、それを待っていたのだろう、ボーゼは持っていた短刀を投げてきた。大きく横に跳んで躱すと、二人の距離がさらに離れる。その隙を突いてボーゼは踵を返して坂の方に逃げ出した。
ケンはそれを予期していたように、槍を持ったまま後を追った。
周囲の者は短刀を投げられるのを警戒して距離を取っており、ボーゼは誰にも邪魔されずに坂まで辿り着いた。
坂の真ん中を、砂に足を取られて後ろに倒れそうになりながらも、そのまま腰を落として尻で滑り降りる。止まりそうになると腰を上げて勢いを付けて尻で滑り降り、また止まりそうになると立ち上がりを繰り返して坂を下っていく。速度はまるで出ないが、足が滑るのは追手も同じはずだ。下手に走り下ろうとして転倒し、足を挫きでもしたら、それまでだ。
先に下まで辿り着けさえすれば、後は走って逃げる。逃げ脚の速さには自信がある。
何とか逃げ切れるかもしれない。
そう思った時、ボーゼは横をケンが通り抜けるのを見た。
山際を、腰を落として小股に足を運び、槍を杖代わりに使って速度を殺して転ぶのを防いでいる。
ボーゼは坂の途中で止まろうとしたがその途端につんのめって転がり、既に坂の下でこちらに向き直って槍を構えているケンの足下まで落ちてしまった。
ボーゼは仰向けに転がったままで、はあ、はあ、と激しく息を吐くと、ケンを見上げて悔しそうに言った。
「なんで、あんたは、転ばないのよ」
「山沿い、一人分だけは、砂は、撒いてないんだ。それに気が付いて、縦一列になって、登ってくれば、岩の餌食に、しやすいからだ。気付かなかった、ようだがな。さっき、坂を登ってくる時にも、もう一度、砂を払ってきた。それに、俺たちはこの坂を、走って上り下りする訓練も、ずっとやってきた。それだけの、ことだ」
答えるケンの息も荒い。
「……どれだけ、用意周到なのよ。感心どころか、呆れ返っちゃうわよ」
「好きにしろ」
「私が、逃げ出すって、わかったのはなぜ?」
「……黒狼同士の喧嘩で、無暗に吠えて、脅そうとする奴は、実は逃げ出す準備をしているんだ。戦うつもりのある強い奴は、そんなことはしない。いきなり襲い掛かれば、済むことだからな。無駄話はもういいよ。ここで死ぬか、上で吊るされるか、選べ」
「お願い、助けて? 死ぬのは嫌よ。ね、お願い。何でもする。私の体も好きにしていいから、ほら!」
ボーゼは上体を起こすと、いきなり自分の服の両襟を掴むと力一杯に両側に拡げた。釦が飛ぶのも構わず、零れ出る裸の白く盛り上がった胸を大きく曝して見せる。
ケンが思わず動揺すると見るや、右手を服の胸の奥に差し込んだ。
だが、その手が仕込まれた短刀を抜いて投げる前に、ケンの槍がボーゼの腹を目掛けて突き出された。革鎧も脱いだ後のただの布の服は、鋭い槍の穂を防ぐことはできない。
槍は深々と突き刺さった。
ボーゼが言葉にならない声を吐き、その体が前に折れる。ケンが女の体から槍を引き抜いて一歩、二歩と下がると、ボーゼの体が横に倒れた。
「……この手も駄目なの……」
そう呟いて血を吐きながら口角を上げて見上げるが、もう視界は夕霧がかかったように薄昏く霞み、そして光を失って暗闇になっていく。
焦点は合わず、ケンの顔は見えていない。
「……リザ……なら……せに」
最後に誰かの名前を呟いた後に、ボーゼの身体から力が抜けた。その手から地面に落ちて音を立てた短刀の刃はどす黒く油光りしている。
毒だ。
恐らく最後の奥の手だったのだろう。
ケンはゆっくりと屈んで、短刀の刃に触れないように気を付けて拾い上げた。
「俺たちの村じゃ、赤ん坊の腹が減って泣き出せば、誰が見てようが気にせずに乳を飲ませる。村中が家族だからな。女の胸ぐらい、見慣れてるんだよ」
横たわった相手に向かってそう言ったが、その体はピクリとも動かず、もう何も聞いてはいない。
死んだんだ。終わった。
そう思った途端にケンは自分の手が震え始めたのに気が付いた。
ボーゼの死体から鞘を探して短刀を慎重に、慎重に納めようとするが、なかなかうまく行かない。何とか納め終えて立ち上がると、仲間たちが何人も坂を下りてきて、こちらを心配そうに見ているのに気が付いた。
「上に運ぼう、二人ともな。あいつらが捨てた武器とかも拾い集めないと。ああ、壊れた馬車の片付けもか……」
後の処理をしなければならない。上手く回らない頭で懸命に考えて仲間に向かって話し掛けたが、声に力が入らない。いつのまにか独り言のように小声になり、やがてそれすらも出なくなる。
「俺たちがやるって。ケンは先に上がって、上の指示をしてくれって」
ホルストが担架と布袋を持ってくるように一人に言うと、何人かを連れてニードの亡骸の方へ向かった。
ケンが相変わらず立ち尽くしているとジーモンが隣に来た。何も言わずに背中を押され、ケンはのろのろと坂を登り始めた。
ジーモンは相変わらず黙ったままで並んで歩く。ケンは何も感じない。だが、寒いはずが無いのに、手の震えは止まらない。両手をゆっくりと目の前に持ち上げて確認する。すると手の震えが体全体に広がっていくのを感じ、震えたままの両手で自分の身体を抱いた。
それを見て、ジーモンは自分の腕をケンの肩に回して力を込めて引き寄せた。そして二言だけ言った。
「大丈夫だ。終わったんだ」
だが、ケンの耳には入らなかった。何も言わずに坂を登り続ける。自分たちが撒いた荒砂で足が滑り何回も転びそうになり、その度にジーモンに助けられる。何とか立ち直ってまた登る。
心の中で「殺したんだ……人を殺した……」と呟き続けながら。




