第六十六話 紅竜ローゼン
承前
「闘いましょうか?」
少女の変化を解いた紅竜がユーキに問う。
「闘う?」
「そう。人間に正体を見られた以上、相手が望むなら闘う。私が負けたら滅ぼされるか、あんたの下僕となる。『妖魔の掟』とか、面倒臭い話よね」
「君が勝てば?」
この問い返しは愚問だったと見えて、紅竜は鋭い歯が何列にも並ぶ大口を開けて大声で笑った。
「あはは! あんたを殺して秘密を守るに決まってるわ! 無力な人間を下僕にしても仕方ないじゃない!」
「さっきの様子は、闘うどころじゃないように見えたんだけど」
「試してみる? 飛ばないぐらいの手加減はしてあげてもいいわよ?」
そう言うと、紅竜は翼を伸ばして一度だけばさりと羽搏かせてまた畳み、楽しそうに口の隙間から赤い舌をちろりと伸ばす。
ユーキは落ち着いた声で静かに答えた。
「気が進まない。止めておくよ。死にたくないし、君を滅ぼしたいわけでも下僕にしたいわけでもないからね」
「賢明ね。この姿に戻ったら、あんたが剣を抜く前に灰にするぐらい、今の力でも造作もなかったわね」
ユーキの返事を聞いて、紅竜は「ふぅっ」と息を吐いてほっとしたように言った。そしてまた、光と共に少女の姿に戻って穏やかに笑った。
「こっちの方が話しやすいでしょ」
「なぜそんなに色々教えてくれるの? 問答無用で襲い掛かって殺すこともできるだろうに」
「普通はそうするわ。うん、やっぱり賢明ね。ううん、聡明といった方が良いのかしら。見ればわかる。たった一人で竜に出会ったのに怯えず腰も引けず、堂々としてる。冷静で、暴力的でも好戦的でもないけど、いざとなれば愛する国と民を護るために闘うのを恐れないんでしょ?」
随分な褒め言葉を積み上げられた。照れてしまう。
「……有難う」
「あなたたち二人はこっちの領分に入る時にきちんと礼儀を払ってくれたしね。貴重なのよ。私たちを恐れず、でも敬ってくれる人は数少ないの。殺しちゃったら勿体ないでしょ」
そう言ってから、少女は首を傾げた。
「でも、王都から来てこの森のことを良く知らないはずのあなたたちが、なんで敬ってくれるの?」
「そうした方が良いって、ここへ来る前にある人が教えてくれたから」
「ふーん。その人に感謝することね。命の恩人かもね。もし知らずに樹を傷付けたりしていたら……」
少女は言葉尻を飲み込むと、にやりと口角を上げて牙を覗かせる。
「そうするよ」
ユーキの背筋が冷えた。竜と闘って人間が勝てるわけがない。クルティスが菫さんの助言を伝えてくれなかったら、もう二度と会えなくなったかもしれない。
ぞっとするユーキの心中を知ってか知らずか、少女は話を続けた。
「さらにその上に、こうやって親しく話をできる相手となると、私たちの長い一生の中でも数えるほどだろうと思うから」
「確かに、話好きそうだね」
「もっとも、沢山の人間にずかずかと森に入ってこられても困るんだけどね」
「微妙なところだね」
「そうね。……私のことは、秘密にしておいてくれる?」
「ああ、秘密にする」
「その剣に誓ってよ」
ユーキは言われるままに紅竜の剣を鞘から抜いた。
剣は忽ち赫々と光り輝き、焔を上げているかのように見える。目も眩むような光だが、惑わされることなく柄を両手で確り握って胸の前に真っ直ぐに立てる。少女も威儀を正して真剣な顔に変わった。
竜の刃を怖れたか、風は止まり、鳥の声一つもしない静寂が広がる。辺りを厳粛な空気が支配する中、ユーキは粛々と、しかし力強い声で誓文を唱えた。
「我、紅竜より授かりし此剣に誓う。もし違う事あらば、此剣必ずや我に仇なさん。此剣ある限り、我、大森林の主の秘を守らん……菫さん以外には。菫さんにも、話す時には秘密にしてもらうようにお願いする……」
「ブッ」
息を殺してユーキの誓言を途中まで聞いていた竜の少女が、いきなり噴き出した。
「……菫さんはきちんとした人だから大丈夫。僕の言うことは何でも真剣に聞いてくれるし」
「ブッ、ブフッ、ちょ、ちょっと」
少女が笑い出した。堪えてユーキを止めようとするが言葉を繋げない。膝が折れて崩れ落ち、「ク、ククッ、グッ」と呻き笑いしながら地面を転げ回り始めた。
「二人の秘密って言えば、むしろ喜んで守ってくれるはず。僕もちょっと嬉しいし」
「待って、待って。グフッ、な、何、その誓い。や、やめて。ククッ、わ、笑いが止まらない……お腹が、お腹が痛い」
竜の少女は、腹を抱えながら一頻り笑い転げていたが、なんとか立ち上がった。
「何よそれ。締まらない、グダグダな誓いね。宣誓で惚気を聞かされるなんて、永命の妖魔仲間にも聞いた事がないわ」
はあ、はあと息を吐いているが、笑顔で楽しそうにしているとますます美しく見える。
「その誓言、どういうことなの?」
「えっと、菫さんにはどうしても秘密を作りたくないので」
「『菫さん』?」
「さっき言った、君たちを敬うように教えてくれた人で、えっと、あの、つまり」
ユーキが言い淀むと、少女は『はい、察しました』と言わんばかりの覚り顔になった。
「……護りたい大事な人ね。どんな人?」
「今回は僕が護られたわけだけど。大きな妓楼で禿として修行中なんだけど、一所懸命で、明るくて、可憐で、淑やかで、僕に取っては世界一綺麗で、僕のことを慕ってくれていて、」
ユーキは嬉しそうに愛しい人のことを語りだしたが、少女は右手をユーキの顔の前に突き出して遮った。その手が『はいはい、御馳走様、もう十分』と語っている。
「惚気話はこれ以上要らないから。どこかの誰かと違って、私はそういうのは聞き出さない主義なの。そう、一流の妓楼勤めなら、王族よりも口は堅いでしょうからいいわ」
「そうなの?」
「客の秘密を守れない妓楼が一流になれるわけないでしょ」
「そりゃそうか」
「その娘だけは特別に許すけど、あのね、普通こういうのは、その場のノリで『誰にも言わない』って誓うものなの」
「そうなの?」
「ええ、それで後から恋人とか奥さんとかに寝物語でつい喋っちゃって、そこから悲劇が始まるものなのよ。最後には、英雄も恋人も死んで国が亡びるような壮大な、ね」
「ふーん。知らなかったけど、気を付けることにするよ」
「『ふーん』って。あなたに掛かっちゃ、悲劇も台無しね。もう、私の出る幕は無さそうね」
「えっと、謝ったほうがいいのかな?」
「あなた、真面目を通り越して間抜けだとか言われない?」
「そこまで言われるのは初めてだよ。糞真面目とはよく言われるけど」
「なるほどね。でも嬉しいわ。無駄な争いを起こさない、信じるに足る友ができて」
「友?」
「ええ、あなたが気に入ったから、友達になりましょ。下僕とかじゃなくてね」
少女は嬉しそうに言うと、右手を出した。竜尾は小さく左右に振られている。
ユーキがその手を取り、そっと握手すると、少女も握り返してきた。竜の手とは思えない、柔らかくて滑らかな小さい手だ。だが、その掌から伝わってくる熱は、身の内に秘めた火を表しているのだろう。
「光栄だね。えーと……」
「『ローゼン』と呼んで。通り名よ。この森の名前と同じね。契約していないから真名は秘密。あなたは、ユークリウス・ウィルヘルム・ヴィンティア。このヴィンティアの王子ね。王族内の順位は八位」
「詳しいね」
「まあね。妖魔繋がりでいろいろとね。ユーキと呼んでも?」
「いいよ。親しい人にはそう呼ばれている。九位だけどね」
「ああ……そうだったわね。アレを数え忘れたわ。まあ、ユーキに免じて、アレも他の連中も、今日の所は纏めて見逃してあげるわ。ユーキも大変ね」
「……まあね。でも王子と言っても一番下だから。何を言われても気にしなければそれで済むから、気楽なもんだよ」
「そうかしら。これからいろいろ大変になりそうだけど」
「そうならないことを期待するよ」
「そうなったら、私の大切な友達だから、力を貸してあげる。もっとも私はこの森からは出たくないから、大した事はできないけどね。何かあったら、この森に来ることね。ここにいる間は私が護ってあげる。あなたたちの言ってた加護ってやつね。愛を司る麗しのウンディーネじゃなくて悪かったけど。この地が滅びず、私が生きてる限りは安全安心よ」
「それは有難う。でも、この森に入って出てこられなかった村人がいたって聞いたけど」
「ああ、樵とか狩人ね。木や獣を大量に採ろうとして森を荒らした連中らしいわよ。どこへ行ったのかしらね」
ローゼンは握っていた手を放し、両手を頭の後ろに回すと視線を逸らした。掠れた音でぴしゅーぴしゅーと口笛を吹き、竜尾の揺れは激しくなっている。わかりやすい。
「最近、人攫いが消えたっていうのもあった」
「私が手を下してないものは知らないわね。でも、人攫いとか、消えても誰も困らないんじゃない?」
「そりゃ、人攫いは死罪だけど。人攫いにも家族とかはいるかも知れないから、いきなり消えちゃうのは困るかも……」
「まあ、厄介払いとでも思ってよ。それに、ここには他にもドリアーダとか、アルラウネとか、エントとかいろいろいるから、何が起きても不思議じゃないわ。今の季節は、エルフも風に乗って渡ってきたばかりね。湖には本物のウンディーネやナヤーデもいるわ。アレたちの設定が馬鹿馬鹿しすぎて、みんな呆れて湖から出てこなかったみたいね。ああ、セイレーンが遊びに来ることもあるわよ? 歌が上手いのよね。ほんと、セイレーンが来たときだけは心安らぐの。まあ、みんなにユーキの事は言っとくわ。見掛けたら、手でも振ってあげて」
「わかった。できるだけ皆さんに迷惑は掛けないようにするよ」
「そうね。まあ、大丈夫だとは思うけど。それから、この森以外にもいないわけじゃないから気を付けてね」
「そうなの?」
「そうよ。フローラはしょっちゅう森からあっちこっちへ出掛けてるわ。ドワーフはここのエルフを嫌って寄り付かないし。嫌うと言えば、群れを嫌ってここへ来ない逸れエルフもいるわ。その他にも。そういえば以前に、逸れエルフが普段と違う所を通って渡ってきた時に、黒い毛虫を着けてきたことがあったわね。結構な騒ぎになったのよ」
「黒い毛虫……」
「まあ、ユーキならそれとわかると思うけど。フローラとか、ウンディーネとか、ドリアーダも真の姿は、とっても綺麗よ」
「そうなんだ。でもローゼンも、僕が読んだ絵物語のウンディーネより美しいと思う」
「うえっっ?」
ローゼンは吃驚して口に両手を当てて目を丸くした後に、今度は細くしてこちらを上目使いに舐め付けて何かモニュモニュ呟いていたが、頬を染めながら外方を向いて返事をした。
「本心でそう思ってくれているみたいね。ありがとう。嬉しいわ」
湖の方から頻りに何か不満そうな水音がするが、二人ともそちらは見ない。
ローゼンは赤い顔のまま、両腰に拳を当ててユーキに向かって顔を突き出して軽く睨みながら言った。
「でも、あなた、大切な人がいるんでしょ? 菫さん、だっけ? それ以外の女性に今みたいなこと、言うものじゃないわよ」
「そういうものなの? 単純にそう思っただけなんだけど」
「そ、そう。でもそういうものなの。わ、私には言ってもいいけど」
「そう。わかった。気を付けるよ。教えてくれて有難う」
「どういたしまして」
困ったような声で返した後でローゼンは顔を背けてユーキに聞こえないような小さな声で「(ほんと、真面目にもほどがある……)」と呟いた。
「ん? なに?」
「なんでもないわ」
「そう。えっと、じゃあ、僕の方は何をしてあげられるかな。友達のためなら、できるだけのことはするよ」
「ありがとう。さっきの言葉だけで充分嬉しいんだけど……そうね、この森は荒らさないようにしてくれる? 入る時から、お連れさんと一緒に気を付けてくれてたけど。あ、それから、消え物の供物は大歓迎よ。特に甘い物とか赤い花ね。但しこの森の花は元々私のものだから、ここで摘んでも意味ないわよ」
「わかった。この森を荒らさないように気を付ける」
そう答えたところで、ユーキははっと思い出した。慌てて振り向いてシュトルツの方を見る。愛馬は手綱を木に結ばれたまま、もさもさと草を暢気に食んでいる。
ユーキは恐る恐るローゼンを見た。
「えっと……」
申し訳なさそうなその様子を見て、ローゼンが「ぷっ」と噴き出した。
「大丈夫。馬がすることをどうこう言うつもりは無いわ。根こそぎ枯らしちゃうわけもなし、伸びすぎてる下草を食べたぐらいで『森を荒らした』はさすがに言い掛かりだものね」
「そう、良かった」
ユーキがほっと息を吐くと、ローゼンはシュトルツがこちらを気にせずに草を食べ続けているのを眺めながら続けた。
「綺麗で逞しい良い馬ね。さっき私の姿を見ても全く怯えもせずに落ち着いていたし。一度も鳴かなかったでしょ?」
「確かに」
「よほどあなたのことを信頼しているのね。主同様の、胆が据わった傑物ね。大切にしなさいよ」
「有難う。そうするよ。あ、そうだ、甘い物は、良ければこれをどうぞ。王都限定品だよ」
ユーキはそう言って、侍女のアンジェラが用意してくれた、王都の有名菓子店謹製の袋入りの飴を衣嚢から取り出した。くっつき合わないように、個包装されている上等品だ。上等なだけあって、小粒なのが玉に瑕ではある。
ユーキは、甘い物は特に好みでも嫌いでもないと思っているし、食べないようにしているつもりだが、荷物になるからと断ろうとしたら、「何かの役に立つかもしれません」と無理やりねじ込まれたものだ。早速役に立った。アンジェラに感謝、感謝。
「嬉しい! 用意がいいわね! 久し振りの甘い物!」
ローゼンは袋に手を突っ込んで飴を一つ摘まみ上げると手早く包装紙を剥き、頬張った。
「甘い……しかもベタベタしていなくて上品な甘さ……柑橘の酸味も良く効いてる……さすが王都限定、最高……」
「気に入ってくれたようで幸いだよ。良かったら、全部どうぞ」
「じゃあ、もう一つだけ。残りは持って行きなさい。この先、他にも役に立つことがあるかもしれないから」
「そうかな? じゃあ、はい。それからこれは湖のお方に渡してくれる?」
さっきから水音がどんどん大きくなりバシャバシャとうるさいので、ローゼンにもう一つ渡した。
「わかったわ。これであの娘も満足するでしょ」
「もし余ったら、帰りに捧げに来るよ」
「そんなこと考えずに、必要があったら使い切りなさい。私には……私たちには、また別に買ってきてちょうだい。因みに私はブドウ味とかも好みよ」
ユーキは思わず笑ってしまった。
「わかったよ。いろいろ買ってくる。君に逢いたくなったらここに来ればいいのかな」
「私の姿を見たければね。話をするだけなら、森の中なら心で呼び掛ければ、いつでもできるわよ。森の外でも、近くなら大丈夫。その位の力はあるの。私の方からも話し掛けていい?」
「いいよ。ただ、いきなりだと吃驚して、周りから怪しがられるかもなあ」
「それも面白いわね。王子様が不審人物扱いとか、笑える」
何を想像しているのか、ローゼンはお腹を押さえてくっくっと笑っている。
「そんなに笑うなよ」
「ごめんごめん。じゃあ、それも後でやってみましょ。それから、その剣は竜の力が籠ってるけど、できるだけ使わない方が良いわね」
「竜の力? どんな力?」
「その場次第。使えば自ずとわかるけど、使わずに済むことを祈るわ」
「使わない方が良い力?」
「うーん、力の種類云々じゃないわね。強すぎて常人には見られなくなっちゃうから、普通の人生を送れなくなる。元々普通の人生じゃないだろうけどね。私の姿も見えたし」
「えっと、僕はごく普通に生きているつもりなんだけど」
「王子が何言ってんの。残念でした、希少生物に『普通』はありえませーん」
ローゼンはケラケラと笑ってから真顔に戻って言葉を続ける。
「……ま、あなたは、王族は何のための王族なのか、王子としてどう生きるべきか、いつも真剣に考えてるんでしょう? 答えが見付かるといいわね。ああ、もう一人の王子、アレじゃない方も、見えはしなかったようだけど、何か感じてたみたいよ」
「クレベール殿下が?」
「アレよりはましみたいね。一応、王子だし」
「えっと、一応なら、親族でもあるし、あまり酷く言わないでもらえると有難いかな」
「あら優しい。でも、冷静沈着そうに見えても、彼も『王子とは何か、何を成すべきか』を悩んでるみたいよ」
「何でもわかるんだね」
「そうでもないけど、妖魔仲間にも王都住まいの噂好きはいるし、様子を見れば少しはね……あまりべらべら話すと、せっかくできた友達に怪しまれちゃいそうね。今日はこの位にしておきましょうか」
「そうだね。あまり時間が経つと僕の仲間も怪しんで様子を見にくるかもしれないし」
「その心配は無いと思うけど……また逢いに来てね? 友達は逢えなくても友達だけど、姿を見るのは格別に嬉しいから」
「ああ、そうする」
「菫さんと一緒に来れば? フフフ」
「……考えとく。じゃあ」
「じゃあね」
ユーキはシュトルツに乗り、ローゼンに軽く手を振ると森に戻った。
ローゼンはその姿を見送っていたが、ユーキの姿が消えると湖の方に向き直って呼び掛けた。
「アリエッタ、欲しければ来れば?」
名前を呼ぶと水面に波が立ち、気が付けば、長身で、碧い髪を無造作に纏めて背中に流した白い肌の美女が湖畔に立っていた。
瞳は秘色で、衣はローゼンにそっくりだ。ローゼンの方が真似したわけだが。髪や肌の色こそ違え、見ようによっては姉妹にも見える。
「愛を司る水の精、美しく儚げなる妖魔アリエッタ、これに顕現す。皆の者、平伏し我を崇めよ」
格好を付けて作った声で偉そうに宣しながら歩いてくる女に向かってローゼンは得意げに言った。
「『ウンディーネより美しい』」
ユーキが言った言葉を自慢されたアリエッタは鼻白んで素に戻った。
「『絵物語の』が付いてたでしょ。実物を見たらどう言うかしらね。……飴」
「ほれ」
「おう」
ローゼンがユーキから託された飴をぽいっと投げ渡すと、アリエッタはしげしげと眺めてから包みを解き、口に放り込んで一舐めしてから言った。
「柑橘系かあ。私はメローネ味が良かったわ」
「ただでもらっておいて贅沢言わない」
「はいはい」
「はいは一回」
二人は暫く美味しそうに飴を舐めていたが、アリエッタが沈黙を破った。
「御機嫌ね。あんたに加護を授けられる人間なんて、珍しいわね」
「まあね」
「普通は最初にあんたの尻尾を見た瞬間にびびっちゃって一発退場で灰になるのに、全ての試問を切り抜けるとは。あんたも相当気に入ったようね。燃やすどころか、適当な事を言って剣まで授けちゃうなんて」
「あんたも気に入ったんでしょ?」
「まあね。私にまで飴をくれたし」
「超やっすい妖魔ね。……手を出したら酷いわよ?」
「わかってるわよ。あんたのものには手は出さないわ。別に男に不自由してるわけじゃないし」
「あー、はいはい」
「ひょっとして、惚れた? ここで囲っちゃわないの?」
アリエッタが興味津々で尋ねたが、ローゼンは首を横に振った。
「ううん、友達よ。男女と言えば恋仲、ってわけじゃないのは、あんたもわかってるでしょうに」
「まあ、そうね」
「それにあの子はもう既に手が付いてるし。絶世の美少女とできてるし。熱々だし」
「その点は残念だったわね。……あの大きいお連れさんは? もらってもいい?」
「駄目に決まってんでしょ。あの子の掛け替えの無い親友なんだから。でも、他の連中なら好きにしていいわよ。剣を下っ手くそに振り回してたアレとかどう? ガワだけなら上等なんじゃない?」
「冗談じゃないわよ、あんな見掛け倒し。謹んで遠慮する。ま、あの子があんたの友達なら、何かあったら私も助けることにするわ。良い子みたいだしね。ナヤーデたちにも言っとく」
「そうして。……って、あんた、ウンディーネの加護まで加わったら、本当に伝説が完成しちゃうわよ」
「『言霊』ねー。別にいいんじゃない? どうせ人間の事だし。それにしても美味しい飴は溶けるのが早い」
「あんたが舐めすぎなんでしょ」
「……なくなっちゃった。ああ、次が待ち遠しい……そろそろまた来ないかしら? 外の時間、早巻きしちゃう?」
「気が早すぎんだろ」
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ユーキが一行のところに戻ると、スタイリス王子が驚いて声を掛けてきた。
「おい、随分早かったな。本当に行ってきたのか? 怖くなって途中で戻ってきたんじゃないだろうな?」
ユーキが辺りを見回すと、周囲の者はまだ休憩の準備を始めたばかりで、スタイリス王子は馬から降りてもいない。
ローゼンが時間を心配していなかったのはこういうことか、結構長く話をしていたと思ったが、ここでは数分も経っていないようだ。不思議だが、まあ、相手が相手だからと思えば納得も行く。妖魔は時を操れるらしいし。
「いえ。剣は拾ってきました」
ユーキはスタイリス王子に剣を見せてから元の持ち主に渡そうとしたが、手を引っ込められてしまった。
「そんな不気味な剣、要りません。スタイリス殿下にお譲りしたものですし」
「ああ、そうでした。殿下、失礼致しました」
ユーキはスタイリス王子の方に馬を寄せて恭しく剣を差し出した。
だが、相手は受け取ろうとはしなかった。
「俺も要らん。別に怖ろしくはないが、そんな汚らしいなまくら、俺が持てるわけが無い。お前にやる。ちょうど似合いだろう。どんな腕前かは知らんが、どうせ大したことはあるまい。だが、そうだな、斬れるものなら何でも好きなように斬ってみればよかろう。どうなっても俺は知らんがな。まあ、素人の生兵法で怪我せぬよう、精々祈っておいてやるさ」
スタイリス王子は憮然として好き勝手をぺらぺらと言い捨てるとぷいっと顔を背け、取り巻きに「おい、休憩は止めだ。行くぞ」と馬を動かして先に行ってしまった。ユーキが怯えもせず平然と戻ってきたのがよほど気に食わなかったのだろう。周囲の者も慌ててその後を追う。
「……有難うございます」
肩を怒らせて遠ざかる背中に向けてユーキがそう言った時に、心の中でさっき聞いた声が響いた。
「(ほーらね? 手放せないでしょ? もう完全にユーキのものになっちゃったわね)」
「(ローゼン? こういうことか)」
心に思い浮かべると、声を出さずにローゼンと会話できることがわかった。
「(ええ、そう。あのビビり君たちにその剣が持てるはずもないし)」
「(ビビり君……)」
「(それにしても、竜剣だけじゃなくて、呪剣にもなっちゃったわね。ビビり君のお蔭で)」
「(そうなの?)」
「(言霊を知らないって怖いわよね。この魔の森であんなこと言っちゃって。言葉って、使い方を間違うと身を滅ぼすのに)」
「(僕は気を付けることにするよ)」
「(それがいいわ)」
「(呪剣っていうのは? どういうこと?)」
「(ビビり君が言った通りよ。ユーキが斬ろうとしたら、何でも好きに斬れる剣。私たちには向けないでね?)」
「(でも、『呪い』って、怖ろしいんだけど)」
「(ああ、そんなに怖がることはないわよ。ただの呼び方だから)」
「(そうなの?)」
「(ええ。善意で祈れば『祝い』、悪意であれば『呪い』。祈った本人がどういうつもりかだけで、本質は同じよ。お祝いのつもりで言った言葉が、相手を縛り付ける呪いでしかなかったとか、良くあることよ)」
「(それはそうかもしれないけど)」
「(ま、ユーキが気にすることはないわよ。呪いの代償は祈った者が支払うわけだし。二、三日は大人しくなるでしょうけど、アレ、精気だけは人一倍有り余ってるみたいだから、きっと大丈夫よ)」
「(そうだといいんだけど)」
ユーキがじっと動かないで心の中でローゼンと話していると、敷物を片付け終えたクルティスに声を掛けられた。
「殿下、どうされましたか? 御気分でも?」
「いや、何でもない」
「では、参りましょうか。あまり遅れると、またスタイリス殿下の御機嫌が斜めになります」
「ああ、行こう」
どうやら傍からは、ぼーっとしているように見えたらしい。ユーキはシュトルツの脇腹を軽く蹴って進めの合図を出し、スタイリス王子の後を追った。
少し行くと、クレベール王子が馬に乗って待っているのが見えた。ユーキが近付くと静かに側に寄り、小声で尋ねてきた。
「で、剣は抜いてきたのか?」
「いえ、落ちていたのを拾ってきただけです」
「なるほどな」
クレベール王子は顔を逸らしてスタイリス王子が行った方をちょっと見るとぼそっと言った。
「確かに、そういうことにしておいたほうが良いだろう。『だけ』は余分だが」
驚いてクレベール王子の顔を見ると口角をちょっと上げた気がしたが、もうこちらを見ようとせず、馬を先に進めて行ってしまった。
森を出るとき、ユーキとクルティスは湖の方角を振り返り、また一礼した。
「(本当にまた来てね?)」
ユーキの心に、ローゼンの声が少し寂しそうに響く。
「(心配しなくても、必ず来るよ。甘い物と赤い花。約束だから)」
「(良かった。安心したわ。楽しみにしてるからね)」
ローゼンの声がほっとしたように、そして嬉しそうになった。
ユーキは心の中でもう一声掛けてからシュトルツの頭を森の外へと巡らせた。
「(じゃあ、森の主、紅竜ローゼン、また)」
その背中にローゼンの声が贈られる。
「(またね。紅竜の友、英明なる王子ユーキ)」




