第六十一話 壮行会
前話翌日
ピオニル子爵への監察が命じられた翌日、ユーキはスタイリス殿下の母方の祖父であるオットー伯爵が主催する宴会に招かれた。孫であるスタイリス殿下が監察正使を国王陛下から仰せつかったので、その成功を願っての内輪の壮行の集いとのことである。
内輪とは言いつつも、『監察団員は全員参加するようにスタイリス殿下が強く希望されている』との使者の口上を聞いては、急ぎ参加せざるを得ない。
ユーキが伯爵邸に到着した時には、会はもう既に盛り上がっている最中であった。
同伴して一緒に行く相手もおらず、クルティスを控室で待たせて一人で会場に向かう。内輪の会の体裁を取っているため入り口で名前を麗々と呼び上げられることもなく、従僕が静かに開いた扉を通って喧しい大広間の会場に入る。
中は大勢の紳士淑女で賑わっている。考えてみれば、美男貴公子スタイリス殿下のための会である。取り巻きの貴族や聞き付けた令嬢方が多数参集したのだろう、内輪とは思えない、規模の大きい盛大な会となっている。
監察は難しい役目でしかも貴族の不祥事絡みだし、早く現地に行かないといけないというのにこんなことをしている場合じゃないだろうと、国王陛下の御勘気に触れないか心配だ。
というか、陛下から仰せつかった翌日に良くこんなことを企画実行できるものだと、伯爵閣下の行動力に驚かされる。
さてどうしようか、取りあえずは主催者である伯爵と主賓であるスタイリス殿下に挨拶に行くものだろうと、ユーキがきょろきょろして捜していると、目の前に立ってこちらの気を引こうとしている人物がいる。
誰かと思えば、以前の宴席で話をして踊った年下の子爵令嬢だ。あの時とよく似た、桃色の華やかな衣装で脹よかな体を装っている。笑顔も声も服同様、あの時と相変わらず華やかである。だがその後に、もう一人の令嬢と強い口調でユーキの陰口を言い合っていたことを思い出し、苦い気持ちになるのが避けられない。
できれば話し掛けずに通り過ぎたい。それでもここは社交の場なのだ。無視して通ることはしてはならない。ユーキは懸命に笑顔を取り繕って挨拶の言葉を投げ掛けた。
「御機嫌よう。お久し振りですね」
「まあ、殿下、そのようなおっしゃり方は悲しうございます。私には久し振りとは思えません。お話しするのは何か月振りかも知れませんが、私は殿下の御活躍のお噂を始終伺っております。王城でお見掛けすることもしばしばございます。お勤めのお邪魔をしてはならじと堪えてはおりますが、手を振って気付いていただきたい気持ちで、いつも胸が一杯ですわ。その上に本日はお声を掛けていただき、嬉しさで胸が弾けそうです」
令嬢はそう捲し立てると、一歩前に出て胸を両腕で押さえて見せる。実際には体積充分な胸を下から持ち上げてさらに強調しているのだが。
「そうですか」
「はい。今回はお役に御参加の由、伺いました。殿下を御選任になられるとは、さすが国王陛下は御眼が確かでいらっしゃいます」
「いえ、私は今回は見習として連れて行っていただく身ですので」
「それは仮のお姿、陛下の御期待はもっと上にあるものと拝察いたします」
「そうでしょうか」
褒めてくれるのは有難がるべきなのだろうが、陰口のことを思うとそういう気にもなれない。
ユーキが苦笑していると、令嬢はさらに距離を詰めてくる。
「伯爵閣下に御挨拶に行かれるのですか? 実は私もまだですの。もしお差し障りなければ、随わせていただければ、この身の誉れなのですが……畏れ多いことですわよね……」
哀願しながらあざとく上目がちにこちらを見上げている。
だがそれは困る。主催者の依頼で同伴してきたわけでもないのに、手を引いて挨拶に行っては、非常に近しい間柄とみなされかねない。
どうやって断ろうかと迷っていると、目の前の令嬢に横から話し掛ける女性の声が聞こえた。目を向ければ、これまたユーキの陰口を言っていた、もう一人の子爵令嬢である。こちらは痩身をあの時と同様に涼やかな水色の衣装に包んだお姿だ。
「ここにいらしたのね? さきほど一緒にオットー伯爵閣下に挨拶に伺った後に消えてしまわれたから、捜しておりましたのよ。あら、殿下、お話し中大層失礼いたしました」
「御機嫌よう。お久し振りです」
思わぬ救いの手が現れた。ほっとして挨拶すると、こちらの令嬢も胸の前で細い指を組み合わせて一気に喋り始めた。
「まあ、殿下、久し振りとは連れのうございます。以前に踊りの手を取ってくださったのは数か月前かも知れませんが、私には昨日の事のようにありありと浮かぶ、大切な思い出ですの。殿下にとっては、多くのお相手の一人に過ぎないのでしょうが、切のうございます……。でも、御政務に誠心誠意取り組まれる殿下の事、遊び事などお忘れになっても当然のことですわね。父や存じ寄りの閣下方から、殿下の御活躍の御様子を嬉しく伺っております。御進境著しく、頼もしい限りと皆さま仰せです。私も殿下をお頼みにさせていただきとうございます」
こちらも褒めてくれているのだろうが、まともに聞いては勢いに押し流される。ユーキは半ばを聞き流したが、逃れ出る道が見えたのは有難い。
「ありがとうございます。それでは貴女も、伯爵閣下への御挨拶はお済みなのですね?」
「はい、こちら様と御同様に」
水色令嬢はそう言って隣に細めた目を落とす。見下された桃色令嬢が水色令嬢をきっと見上げた。
「貴女、失礼ではありませんこと? 私が今、殿下とお話をさせていただいていたのですわ」
「あら、恐れ入ります。でも、殿下をお独り占めなさろうとは、感心いたしませんわ」
正面から睨み合った二人に、ユーキは咳払いをして声を掛けた。
「オホン、お二方、私は伯爵閣下への挨拶がまだですので、申し訳ありませんが失礼してそちらへ向かわせていただきます。お二方はどうぞこちらでご歓談ください。では失礼」
一方的に喋る二人の所から、這う這うの態でユーキが逃げ出す。
もし後ろを振り返ったら、向き合って咲いた二輪のアルラウネのように、二人が身動きもせず視線をぶつけ合い続ける所が見えただろう。
ユーキが部屋の中央の方に向かうと、それぞれに着飾った令嬢方の麗しい花垣ができている。薔薇に鉄仙、花も盛りだが枝や蔓が絡み合う如しで密集していて中が良く見えない。割って入ろうとすると棘のある目で睨まれる。止む無く後方から伸び上がって覗くと、案の定、スタイリス王子がいる。
その人集りの手前に主催者であるオットー伯爵とスタイリス王子の母親であるフェブラー王子の正妃殿下がいたので先ずは無難に挨拶を済ませた。
次にスタイリス王子への挨拶も早いところ済ませてしまおうと思って何とか人を掻き分けていくと、いつもとは違って令嬢たちの輪の径が大きい。何事かと思うと、中でスタイリス王子が一人の妙齢の令嬢に刺々しい言葉をぶつけるのが聞こえた。
王子と向き合って一歩も引かないのは濃い紅の華やかな衣装を着た、ファレノ・アンデーレ伯爵令嬢である。
彫りの深い顔立ちの飛び切りの美女だが、派手好きで身持ちが悪いと以前からもっぱらの噂の女性である。多数の男性と浮名を流した後に同じ派閥の下級貴族の家から婿を貰ったはずだが、それらしい相手は見当たらず、一人のようだ。
「アンデーレ伯爵令嬢、久し振りだな。暫く社交界では姿を見掛けなかったが、元気そうで何よりだ。何か、人前に出てこられない理由でもあったのかな? ああ、そう言えば、御夫君がお家を出られたとか噂を聞いたが」
『刺々しい』は表現が生温かった。スタイリス王子が冷たい声と蔑む言葉でいきなり斬り付けても、ファレノ嬢は平然としている。眼を細めて相手の視線の剣を傲然と正面から受け止め、「ふふん」と鼻先で嗤って高く鋭い声で突き返す。
「スタイリス殿下、相変わらずの不躾なお尋ね、有難うございます。その点、初めてお会いした時からお変わりないようで安心しましたわ。あの時も、ある家の奥方の御夫君は、毎日何時頃に家を出て何時間後に戻られるのかとお尋ねでしたわね」
言い返されてスタイリス王子が「うっ」と詰まった。どうやら痛い所に刺さったようだ。
「……その不遜な態度が、御夫君が家を出られた原因かな? それとも、結婚後もあちこちで若い男に声を掛け続けていたせいかな?」
それでも何とか応戦する。閣議では国王陛下の御下問を受け流すのがもっぱらだが、この場では正面から立ち向かうことにしたようだ。剣と剣とがぶつかり合うような高い声音での論戦が始まった。
「どうでしょうかしら。私は存じません。相変わらず下世話なことにも御興味が広くていらっしゃること。下らないことをお知りになりたければ、出て行った本人にお尋ねになられれば? ああ、よろしければ、『もう戻ってくるには及ばない、連れて行った婢とお幸せに』とついでにお伝えくださりませんこと?」
「ふん、王族を使者に走らそうとは、結構な御身分だ。どうせ今日も、別の男を見繕いに来たのだろうが。いつまでも昔のように男どもにちやほやされると思わぬ方が良いぞ」
「あら、御忠告有難うございます。殿下に置かれましても、お言葉、御身に戻らぬようにお気を付けあそばせ。近頃は御自慢の御姿絵の売れ行きに陰りが見えるともっぱらのお噂ですわよ」
「……何だと?」
「他の王族方の御姿絵が伸びているとか、聞いております。どうぞ庶民人気首位の座を奪われぬよう、お祈りいたします」
「俺はそんなもの気に掛けたことは無い。人聞きの悪いことを言うな」
「あら、そうでしたの? 初めて夜啼鳥の声を御一緒に聞いた夜に、一番人気だと嬉しそうに一枚お下げ渡しくださったのは、私の空憶えだったのかしら。大層失礼いたしました」
「ああ、全くだ。お前が欲しいと言ったからくれてやったのだ。勝手なことを言って、不愉快な奴だ。俺の目の前から消え失せろ!」
「おお、怖い。では、失礼いたします。ごめんあそばせ……お通しくださいませ」
どうやら論戦は決着が付いたようだ。スタイリス王子が怒気を露にして声を荒げると、アンデーレ伯爵令嬢は含み笑いで慇懃無礼に頭を下げ、勝った戦は退き時が肝心とばかりに人垣を突き抜けて離れて行った。帰るのかと思うとそうではなく、部屋の片隅で若い男を捕まえて何か話している。どうやら結婚後も、そして婿に逃げられた後も、男好きは健在のようだ。一時はスタイリス王子と相思相愛とも噂されたが、今の話を聞くとまんざら嘘でもなかったようだ。
幸い、ユーキはアンデーレ嬢とは知り合いではない。有難く遠ざかっておくことにしよう。
アンデーレ嬢が離れて行ったことで、スタイリス王子の周囲はほっとした雰囲気が漂っている。離れていた令嬢方の花垣がここぞとばかりに王子に向かって輪を狭めて行く。
これでは挨拶どころではない、どうしようかと思ったら、スタイリス王子の方からこちらを見付けたようで不機嫌な声を掛けてきた。
「ユークリウスではないか。随分遅かったな」
「スタイリス殿下、遅参致し申し訳ございません。今回は正使への御就任おめでとうございます。随行させていただけること、光栄です。よろしく御教導のほど、お願い致します」
特に遅刻したわけではないが、荒れている男に逆らうのは愚か者か痴れ者である。ましてや相手はこの会の主役でこれから暫くの間は自分の上司となるのだ。ユーキは丁寧に挨拶して頭を下げた。
「うむ、いいだろう。お前も精々励むことだな。まあ、俺の指示に従っていれば問題ない。びしびし鍛えてやるから楽しみにしていろ」
「はい、精一杯励ませていただきます」
「飲み物はどうだ? ゆっくりしていくがいい」
大勢の令嬢の前で自分に対して同じ王族のユーキが深く遜って見せたことで面目を施し、スタイリス王子の御機嫌は綺麗に回復したらしい。先程のアンデーレ嬢への刺々しさはどこへやら、鷹揚な態度を取り戻し、近くにいた従僕に酒杯を準備させようとした。
しかしユーキとしては酒を飲んで正使殿下のお相手をしている場合ではない。
「いえ。予めいろいろとお教えいただきたいこともありますが、本日は殿下とお話をされたい方も多いと思いますので遠慮させていただいて、これにて失礼致します。クレベール殿下にも挨拶させていただきたいのですが、どちらにいらっしゃるか御存じでしょうか?」
「おいおい、もう逃げ出すのか?」
「はい、このような華やかな場は苦手ですので」
実際、自分たちが話をしたいのだから早くあっちへ行けという、令嬢方の尖った視線が四方八方から突き刺さって痛い。本物の矢なら針鼠と化して満身創痍になっているだろう。
「そんなことで王族が務まるか。このような席で人に取り囲まれるのは、王族であれば当たり前だろう?」
「いえ、これは殿下の御人徳のなせるものと」
「持ち上げたところで手は緩めてやらんが、まあ、それはそうかもしれんな。クレベールならあっちの隅にいたぞ。行ってみるがいい」
「はい、では失礼します」
上手く捕まらずに解放されたユーキが令嬢方の間を擦り抜け潜り抜けして離れると、後ろから「まあ、あいつは糞真面目だからな。こういう所が場違いなことがわかるぐらいには成長したのだろう」というスタイリス王子の声と、令嬢方の追従笑いが追い掛けてきた。
こういう事には慣れっこなので気にせずに歩いて行くと、クレベール王子が地味な格好をした中年女性と一緒にいるのに気付いた。王子の母親である、フェブラー殿下の側室だ。
早速近付いて挨拶を済ませよう。
「クレベール殿下、奥様、御機嫌よう」
「ユークリウス殿下か。御機嫌よう」「殿下、お久し振りにございます。御機嫌麗しゅう存じます」
「クレベール殿下、今回は副使への御就任おめでとうございます。随行させていただけること、光栄です。よろしく御教導のほど、お願い致します」
「ああ、よろしくお願いする」
言葉を交わしていると、クレベール王子の横で母親がユーキに向かって丁寧に頭を下げた。
「ユークリウス殿下、兄君とこの子に御同行なされるとのこと。何卒、この子をよろしくお願いいたします」
優しげな声は細く弱々しく、微笑には陰がある。第二王子の側室と言う微妙な立場と夫の看病で苦労しているのだろうか。
「はい、今回私は副使殿下の御指示を仰ぐ身ですが、精一杯に補佐をさせていただきますので、どうぞ御安心下さい」
「ありがとうございます。まだまだ未熟な子で至らぬところもあるかと思いますが、どうかお許しください」
「奥様、とんでもないことです。クレベール殿下は普段の閣議での御議論も私などには及びもつかないもので、憧憬と共に拝聴させていただいております。陛下からも御信頼を篤く受けていらっしゃいますので、どうぞ御心配なさいませんように」
ユーキが労りを声に込めて返事をしていると、クレベール王子が憂い顔で母親を咎めた。
「母上、いつまでも子供扱いはお止めください。ユークリウス殿下に笑われてしまいます」
「ごめんなさい。貴方の事が心配で、つい。それでは、私はフェブラー殿下のところに戻りますので。ユークリウス殿下、下がらせていただいてよろしいでしょうか」
「奥様、どうぞ御遠慮なく。それでは」
静かに会場を去る母親を見送った後、クレベール王子は切なそうに溜息を吐いている。心配事でもあるのだろうか。
ユーキは尋ねてみることにした。
「フェブラー殿下のお加減は、良くないのですか?」
「いや、そういうわけではない。寝付いたままというのには変わりはないが。母上は父上が何より大事だからな。できるだけ側を離れたくないのだろう。正妃殿下様はお忙しくてあまり父上の所に来られないので、その間は母上がずっと付いておられる」
「それは大変ですね」
「ああ。母上自身の心労が大きくてな」
クレベール王子はまた溜息を吐いた。
この殿下の母親思いは世間でも有名だ。ユーキは同情心を込めて言った。
「殿下としても御心配ですね」
「うむ。そうなのだ。私も母上の側におりたいので、今回のお役もお受けするのを躊躇ったのだが、陛下の御命だからな。あの兄から迂闊に離れるわけにもいかんしな。……今のは全て内分に御願いする」
「心得ております。できるだけ早く監察を終えられるよう、励みましょう」
「うむ、よろしく頼む。では、私は兄の所へ行くので、これで失礼する」
「はい、失礼致します」
クレベールはユーキから離れて歩きながら思った。
「(今のは何だったんだ。優しげな言葉をつい真に受けて、心が緩んで要らざることを言ってしまった。だが作ったとは思えない実の感じられる声だった。……ユークリウス、若いが不思議な男だ。心覚えが要るかもしれん)」
ユーキはクレベール王子を見送った後、出口に向かった。
挨拶は済ませたし、もうよかろう。こんなところで遊んでいる暇はない。旅装はアンジェラがあっという間に作ってくれたが、監察というものについて過去の事例を少しでも調べておきたい。とっとと帰ることにしよう。
そう思った時に派手な紅色が目に入ったと思ったら、声を掛けられた。
「失礼いたします。ユークリウス殿下とお見受けいたします」
艶のある声の主を振り返って見て、ユーキはぎょっとした。アンデーレ伯爵令嬢だ。困った。だが、貴族令嬢に声を掛けられて何も言わずに背中を見せて逃げ出すわけにはいかない。繰り返すが、ここは社交の場なのだ。
「はい。アンデーレ伯爵のお嬢様でいらっしゃいますね? 御機嫌よう」
「御機嫌よう。失礼ながら自己紹介させていただきます。ファレノ・アンデーレと申します。お見知りおきのほどを。どうぞ、『ファレノ』とお呼び捨てくださいまし」
「い、いえ。『永遠に花咲くアンデーレ家の胡蝶蘭』を呼び捨てになどできません。御容赦ください、アンデーレ嬢」
ユーキは動揺を隠して何とかそれらしいことを言った。
だがアンデーレ伯爵令嬢は自分の二つ名を聞いて口角を上げた。『にっこり』と言うよりは『にたり』と言う方が当たる。人身御供を見付けたミノタウルスはさもあらん、という笑いだ。
「あら、私を御存じくださっておられるとは光栄ですこと。嬉しうございます。そのように言ってくださる方はもう絶えて久しうございますのに。かつてその名で褒めてくださった方々は今では私を厭い、お離れになられました」
「そうなのですか」
「ええ。口さがない小雀たちの噂話を、殿下もお耳にされてと思います。面目を失い萎れ花となり、手折ろうと手を伸ばされる殿方もいなくなった淋しい私の身の上をお思いくださり、敢えてその名を呼んでくださったのでしょう? 思わず知らずに心熱く動かされてしまいます。真面目なお方とは伺っておりましたが……女性に向き合うのにも真面目でいらっしゃいますのね」
「いえ、そのようにおっしゃられては、お答えに困ります」
そんなつもりはこれっぽっちも無い。
困惑するユーキに全く構わず、アンデーレ伯爵令嬢は右手の甲を顎の下に当てて姿を作り、勝手に話を進める。
「私、実は先程から疲れのせいで少し気分が優れなくて……」
「それはいけませんね。大丈夫ですか?」
「はい。ですが、念のため帰ろうかと……申し訳ありませんが、殿下、控室までお手をお貸しいただけませんでしょうか」
そう言うや否や、アンデーレ伯爵令嬢はユーキの右腕に抱き着いてきた。ミノタウルス変じて、獲物を鎌に捕らえた雌の大蟷螂だ。狩りは終わった、もう我が物だ放さじと、腕に力をぐいぐいと込め、立派に盛り上がった胸を押し付けてくる。
その柔らかさに普通の男なら思わず鼻の下が伸びて絆されてしまうのかもしれないが、生憎と菫さん一筋のユーキに取っては不快でしかない。背筋に怖気が走り辟易したが、成り行き上、突き放すわけにも行かない。
だが『控室まで』と言いながら、そこまで行けば馬車の中へ、自邸へと、連れ込むつもりなのは初心なユーキでもさすがにわかる。周りの目も気になるし、ひそひそと言う声が聞こえる気もする。
どうやって逃げ出すかと思案にあぐね、蒼褪めた顔で出口の方へぐいと引き摺られそうになった時に、先程からこちらを見守っていた者たちが声を掛けてきた。
「アンデーレ様、大丈夫ですか?」「アンデーレ様、どうぞお気をお確かに」
最初にユーキに声を掛けてきた二人の子爵令嬢だ。こっちは、獲物を捕まえた大マンティスの周りをうろついて、隙あらば掠め取らんとする飢えたコボルトたちだろうか。この大広間、いつの間に魔窟になったのだろうか。
声を掛けられたアンデーレ嬢は二人に目もくれずに冷たく返事をする。
「ええ、大したことはありませんの。どうぞお気遣いなく」
「いいえ、御身をお大切に。控室には私たちがお供いたします」「そうですわ。両側からお支えしますので、どうぞ殿下のお腕をお放しくださいませ」
「いいえ、お構いなく。それに私の控室には、伯爵家以上の者しか入れませんことよ」
アンデーレ伯爵令嬢は、力強く宣言した。一体、どこが具合が悪いのだろうか。
だが、そう言われると子爵家の令嬢は分が悪い。悔しそうにしながらも、二人は引き下がらざるを得ない。
アンデーレ伯爵令嬢が勝ち誇った顔をしたその時、別の声が掛かった。
「では、私がお供しましょう、アンデーレ様」
そちらを見ると、見覚えのある別の令嬢が立っていた。
「私であれば、家柄に御不足はございませんでしょう?」
「……ええ、ディートリッヒ様」
ベアトリクス・ディートリッヒ伯爵令嬢、ユーキの従姉であるスザンネ・ウィルヘルムの友人で、今回の監察の随行員の一人である。
ディートリッヒ嬢はつかつかとアンデーレ嬢に近寄りながらユーキに伝えた。
「殿下、正使スタイリス殿下がお呼びのようですわ。監察に関係する事のようです。御心配でしょうが、アンデーレ様は私にお任せくださいまし」
「わかりました。ディートリッヒ嬢、有難うございます。アンデーレ嬢、申し訳ありませんが、失礼致します。どうぞお体をお大事に」
天使の救いの手に感謝しながらアンデーレ嬢に挨拶すると、相手はつんと顎を上げた。
「いえ、もう結構です。気分もどうやら気のせいのようでしたし、これで失礼いたしますわ」
そう言い捨てると、アンデーレ伯爵令嬢は身を翻して去って行った。
その姿が出口から消えるのを見届けると、ユーキは心からほっとした。
「ディートリッヒ嬢、有難うございました。スタイリス殿下はどちらに?」
「あら、そんなの嘘ですわ。お困りのようでしたので。もうお引き上げになられたいのでしょう? どうぞ今のうちにご退散を。監察ではよろしくお願いいたします」
「……助かります。こちらこそよろしく。それでは」
ユーキはディートリッヒ嬢の献言通りに、伯爵邸から逃げ出すことにした。二人の子爵令嬢が何か言いたげにこちらを見ているが、もう無視することにする。
急ぎ足で会場を出て、花蟷螂が待ち伏せしていないか用心しながら控室へ行く。そこで退屈そうに腕立て伏せをしていたクルティスと合流し、馬車に乗って無事出立した。
馬車の中でユーキが「はぁ……」と深い溜息を零すと、クルティスに聞き咎められた。
「ユーキ様、どうされました?」
「令嬢方って、やっぱり怖い……」
「何かあったのですか?」
「あったというか、なくて済んだというか」
「どっちですか?」
「疲れた」
「はあ」
「菫さんに会いたい……今日は本当にそう思った。これ、手紙に書いて良いのか悪いのか」
「はあ」
「そうだ! 監察に行っている間は手紙を書いてる場合じゃないんだった! 菫さんにそれを知らせておかないと! でも、監察の勉強もしないと……クルティス、急ぐぞ」
「はあ」




