第五十三話 兄と弟
承前
ケンは二人の衛兵の情けを受けてピオニル子爵領側の関所を通過し、クリーゲブルグ辺境伯領側の関所に向かった。こちら側の衛兵もケンの顔を知っており、退屈そうな顔で、早く昼寝に戻りたいのか何も聞かずにすぐに通してくれた。
トリニール町に近付くにつれて人通りは少し増えてきたが、足早に歩くケンを誰も気に留めない。何人かケンの顔を知っている者もいたが、代官の弟ということで頭を下げてくるだけで、声を掛けてくる者はいなかった。こちらも頭を軽く下げて通り過ぎて先を急ぐ。
こちらの領に入ってからはずっと懸命に歩き続けたため、当初の思惑よりも早く、夕暮前にアルフ兄の代官役場に到着できた。
ケンが着いた時、ちょうど折良く次兄のブルーノが家から出てきた。
「ブルーノ兄さん」
声を掛けると、ブルーノは驚いてこちらを見た。
「ケンじゃないか。どうしたんだ」
「アルフ兄さんに頼みがあってきたんだ。兄さん、いる?」
「ああ、まだ執務室にいるだろう。行ってみな。俺も一緒の方が良いか?」
「いや」
「じゃあ、俺はブリギッテ義姉さんに知らせるとしよう。お前が来たからには、夕食は御馳走にしてもらわないとな。みんなで歓迎の酒盛りだ」
ブルーノは笑いながら言ったが、ケンは急いで止めた。
「兄さん、待って。俺が来たことは、できるだけ秘密にして欲しいんだ」
ブルーノはケンの真剣な口調に驚いたが、同じように強いその眼差しを見て頷いた。
「秘密の話か。わかった。それなら、執務室に行くのは拙い。手伝いの連中がいるし、いつ誰が訪ねてくるかわからない。一番奥の客間が空いてるから行ってろ。俺がアルフ兄さんを連れてってやる」
「有難う、兄さん。助かる」
客間に入って椅子に座ると、待つ間もなく、アルフがブルーノと一緒に入ってきた。
「ケン、久し振りだな。元気そうで何よりだ。今日は突然どうした?」
アルフはケンに声を掛けて手を差し出し握手をした。そして椅子に座ると、出て行こうとするブルーノに「ちょっと待ってくれ」と声を掛けてケンに振り返った。
「ケン、内密の話だそうだが、ブルーノにも聞いてもらった方が良い。ある程度事情を知っていた方が、ブルーノにしても秘密を守りやすいし、一緒に考えてくれる頭は多いほど良い。『ツェルベルスの左右の頭は飾りじゃない』だな。もし極秘だとわかったら、その時点で席を外してもらえばいい」
ケンは迷ったが、頷いた。
それを見てアルフはブルーノにも座るように促してから、笑顔で言った。
「それに、家族の間で隠し事は無しだよな? で、頼み事とは何だ?」
ケンは座り直して姿勢を正し、二人に向いた。
「辺境伯様にお願いがあるんだ。アルフ兄さん、取り次いでもらえないか?」
「閣下に? 事と次第によるな。どんなお願いだ?」
「それは言えない」
「言えない?」
アルフの顔が俄かに曇る。
「それじゃあ、駄目だ。取り次げない」
「そこを何とかならない?」
「ならないな。内容も分からずに何でも取り次いでたんじゃあ、子供の店番も同然だ」
「でも、中身は村の大事な秘密なんだ。お願いだ」
つい声が大きくなり、ケンははっとして周りを見回した。狼狽したその様子を見て、ブルーノが口を挟んだ。
「ケン、大丈夫だ。近くには誰もいない。ちょっと深呼吸しろ。大きく、ゆっくりだ」
ケンが言われた通りにして落ち着くのを待ってから、ブルーノは続けた。
「ケン、聞いてくれ。お前がわざわざここまで一人で来るぐらいだ、お前やお前の村にとって大事な用件なのは俺にだってわかる。当然、アルフ兄さんもわかっている。俺たちの弟の一大事だ。それはいいか?」
「ああ」
「だけど、アルフ兄さんにも代官としての仕事がある。もしもお前の頼みが、この領にとっては困る事だったらどうする? お前にとってお前の村や村の人たちが大切なように、兄さんや俺にとっては、この領と領の人たちが大切なんだ。それもわかるな?」
「……ああ」
「それにそんな話を持ち込んだ兄さんが、代官として失格だと閣下に思われてしまうかも知れない。それはお前も嫌だろ?」
「……ああ」
「だから、俺と兄さんを信じて、話の中身を教えてくれないか? 秘密は守る。約束する」
静かな声で、ひとつひとつ確かめながら次兄が諭してくれる。長兄も優しい眼で見守ってくれている。ケンは家族の有難さを噛み締めた。
それでも、村の秘密を漏らすことはできない。
「でも、とても大切な話で、辺境伯様以外には知らせないっていう段取りなんだ。俺たちの村の話で、こっちの領に迷惑を掛けるような話じゃない」
「迷惑が掛かるかどうかは、聞いてみなければ俺たちにはわからないだろ?」
「でも、本当にそうなんだ」
苛立たしそうに答えるケンに、今度はアルフが話し掛けた。
「ケン、わかるぞ。村の皆で良く話し合って決めた、大事な段取りなんだな」
「うん」
「段取りは大事だ。俺も仕事に取り掛かる前には段取りを良く考えろと閣下に言われているし、俺も、ブルーノや一緒に働いてくれている者たちに同じことを言っている」
「うん」
「だがな、仕事を実際に始めると、考えていた段取り通りに行かないこともしょっちゅうあるんだ。そんな時にいちいち仕事を止めて、段取りを考え直してもう一度最初からやり直すことはできないことが殆どだ。わかるな? お前も村でそんな経験があるんじゃないか?」
「うん」
「そんな時には、その場の責任者がどうするか決めないといけないんだ。段取りとは違っても、その場でできる最善の事をする、それをその場で決断するんだ。今のお前がそれだ。最初の段取りでは事情は漏らさずに閣下に会い、閣下だけに相談することになっていた。だが、それはできなくなった。ここにはお前の村の人は誰もいない。お前だけだ」
アルフは話を止めて暫く静かにケンを見詰め、自分の言葉がケンの腑に落ちるのを確かめてから続けた。
「責任者はお前だ。お前が決めなきゃいけないんだ。俺たちに打ち明けるか、何もせずに村に引き返すか。どうする?」
「……」
ここまで言われてもケンは踏ん切りが付かなかった。両手で頭を抱えて考え込んでしまった。
それを見て、アルフはブルーノに頼んだ。
「剣を持ってきてくれ。俺のとお前のと、二振だ」
「わかった、兄さん。ケン、ちょっと待ってろ」
ブルーノが出て行くとアルフはケンに何も言わず、黙って考えるままにしておいた。次弟が戻ってくると立ち上がって自分の剣を受け取り、まだ考え込んだままの末弟の前に立った。
「ケン、そこまで悩むということは、本当に重大な事なんだな。だが、俺たちに話してくれたら、一緒に考える事もできる。閣下にお願いできる事なら、お願いの仕方とかも相談に乗れる。俺たちを信じてくれないか? 秘密を守ることは、この剣に誓おう。閣下から頂いた剣だ。ブルーノ、お前の剣を貸してやってくれ」
「ああ。ほら」
アルフは姿勢を正し、自分の剣を抜くと顔の前に真っ直ぐに立てた。
「ほら、ケン。お前も」
促されてケンは立ち上がってブルーノが差し出していた剣を受け取り、同じように抜いて立てる。
アルフは顔を引き締めて誓文を唱え始めた。
「我、我が主に授かりし此剣に誓う。血を分けし兄弟の事が成るまで必ずやその秘を守らん。もしこの誓言破れることあらば、此剣必ずや我に仇なし、我が血にて錆び朽ちん」
そして剣を立てたままで前に差し出し、弟が持つ剣と打ち合わせた。キン、と澄んだ音が室内に響いて消えたところで、鞘に納めた。
ケンも真似をして剣を鞘に納めると、長兄の真顔が緩んだ。
「これでいい」
「ケン、俺ともやるか?」
ブルーノも尋ねたが、ケンは首を横に振った。
「いや、いいよ。兄さんたちを信じる。アルフ兄さん、ブルーノ兄さん、兄弟なのに疑ったようで、ごめん」
「構わない。それほど大事な事なんだろう?」
「ああ。決めた。聞いてくれるかい?」
「勿論だ」
ケンは二人に事情を話した。
いきなりの増税のこと、契約を無視されそうなこと、ハンナが攫われかけたこと、そしてマーシーへの暴力のこと。国王への訴えの取り次ぎを辺境伯に依頼したいこと、そして戦う決意をしたことも話した。
話し終えると、胸に閊えていた大きなものがすっと落ちて行った気がした。
「酷いことをしやがるな」
「ああ全くだ」
ブルーノの呟きにアルフが答え、さらにケンに尋ねた。
「ケン、自分たちで直接王都に訴え出ることは考えたか?」
「ああ。でも、それは止めた方が良いって話になった。訴訟方は子爵の寄親の侯爵の手が回ってるそうだから」
「そうだな。その通りだ。もしそうしていたら、子爵の報復で、今頃は大変なことになっていたかもな」
そう言って二度、三度と頷くと、ブルーノも頷きながら応じた。
「ああ、アルフ兄さん。俺もそう思う。ケン、もしも閣下が聞き入れてくださらなかったら、あるいは陛下がお取り上げにならなかったらどうするつもりだ?」
「どうもこうもない。戦う決意は変わらない。戦えるだけ戦う。その後はわからないけど、皆で逃げ出すことになるんだろうと思う」
「戦う……そこまで覚悟しているのか」
二人の兄は顔を見合わせた。
長兄が真剣な顔で考え込む中、次兄が言い難そうに、探るようにケンに尋ねた。
「ケン、お前だけ戻ってくる考えはないか? お前一人なら、何とでもなるぞ」
「ブルーノ兄さん、何を言いだすんだ。俺は村の皆を見捨てるようなことは絶対にできない」
「……そうだろうな。試すような事を言って済まん。アルフ兄さん、どう思う?」
アルフは腕組みをして考えていたが、ブルーノに話を向けられるとゆっくりと頷きを繰り返しながら答えた。
「普通なら領主は、自分の派閥に無関係な他の領内のいざこざに手は出せないし、出さない。厄介事になるだけで、何の利益にもならないからな。だがこの件は……」
「例の件にも絡んでくるんじゃないか?」
「例の件? こっちでも何かあったの?」
互いの顔を見て頷き合った二人の兄にケンが尋ねると、アルフが答えた。
「ああ、子爵領がごたごたしているために、うちの領としても困ったことが生じているんだ。流通とか、な」
そして腕を解いて大きく頷いた。
「いいだろう。ケン、取り次いでやる。閣下に話してみるといい。明日は幸い閣下はお館におられるはずだ。明日の朝、荷馬車で連れて行ってやる。ブルーノ、留守を頼む」
「わかった。ケン、閣下の所へ行くのは秘密にしたいんだよな?」
「ああ」
ブルーノはケンに確かめて長兄の方を見た。その意図するところはアルフにもすぐに通じた。
「そうだな。確かにそこは大事だ。有難う、ブルーノ。今の子爵や代官、ニードと言ったか? そいつらがうちの領に息の掛かった者を送り込んだ気配はまだ無いが、子爵の寄親のシェルケン侯爵はわからん。この町は問題ないが、領都では誰かが見張っていると考えた方が良いだろう。ケンの顔は領都では知られていないだろうから大丈夫だとは思うが、念には念を入れた方が良いな」
「荷物運びに新しく雇った下男、という態でいいんじゃないか?」
「それでいこう。ブルーノ、準備を頼めるか?」
「ああ、任せてくれ。ケンに合いそうな野良着を荷馬車に積んでおくから、ここを出発して人目がなくなったらそれに着替えればいいだろう。閣下の料理人に頼まれている野菜があるからちょうどいい。それを運ぶ態で行けば人夫を乗せていても何もおかしくない」
二人の兄はてきぱきと段取りを決めていく。話に置いて行かれそうになって、ケンは慌てて口を挟んだ。
「ブルーノ兄さん、服って、ここから着替えて行っちゃ駄目なのか?」
「今日、この町で誰かに見られているかもしれないだろう? 親父の葬式で見掛けて、お前が俺たちの弟だと知っている住民も多いんだ。それが急に見窄らしい野良着に着替えていたら、変に思われるかもしれん。ただ弟が来ただけなら大した噂にはならんが、それが怪しい格好をしたとなったら、話は別だ。何事かと騒ぎになりかねない。万が一にも、そちらの領に話が伝わらないようにしたい、そうだろう?」
「ああ」
「もっともそっちの関税のせいで、人も噂も、めっきり行き来が減っちまったんだけどな」
苦笑いで顔を崩した兄たちを見て、ケンは山間の小さな村で暮らしてきた自分が全く知らない世界を覗いた気がした。長兄は代官で次兄はその右腕なのだ。村より遥かに住民の多い町を仕切っていくのは大変なことなのだろう。
「兄さんたちも、そんなことを色々考えながら仕事をしてるんだ。貴族に仕えるって、大変なんだな」
「まあな。でもまあ、習うより慣れろでなんとかやってるよ」
「迷惑を掛けて、ごめん」
「何を言ってるんだ。弟の一大事じゃないか。もし戦うとなったら、命懸けだ。勝算はあるのか?」
「ああ。知恵を合わせて色々考えて、準備もしている」
「どんな?」
「ブルーノ、それは聞くな」
ブルーノが何の気なしに発した問いをアルフは急いで打ち消した。そして申し訳なさそうにケンに説明した。
「ケン、戦いには手助けはしてやれない。もし他の領から戦いに手出しをしたら、領同士の紛争になりかねない。わかってくれるな?」
ケンも頷く。それはノーラや村長たちとの話し合いでも決めている。
「ああ、俺たちも、自分たちだけで戦うのが大事だと思ってる。自分たちの問題だし。それに裁きを受ける場合もその方が良いって話になった」
「その通りだな。済まん、ケン」
「ううん、いいんだ。兄さんたちが心配してくれてるのはわかってる。でも、自分たちで頑張って、勝つよ」
「その意気だ。それより、閣下に願い出るときの言上の準備はできてるのか?」
「一応、考えては来たんだけど」
「じゃあ、ここで練習しろ。見ててやる」
「うん。やってみるよ、アルフ兄さん」
ケンは立ち上がって練習してきた言上を始めようとした。
アルフもそれを聞こうとしたが、ブルーノが止めた。
「兄さん、ちょっと待ってくれ。その前に今日の仕事や用事を片付けてきた方が良くないか? この部屋に来てから、もうかなり経ってる。みんなそろそろ変に思い出すかもしれない」
「そうだな。そうしよう。後にした方が落ち着いて聴いてやれるしな」
「ケン、お前は腹が減ったろう。お前が来てること、ブリギッテ義姉さんに言ってもいいか? 勿論、内緒でだ」
「うん」
「じゃあ、何か作ってここへ運んでもらうようにするから、待ってろ。便所は、人の目に立たないように注意して行けよ?」
「わかった。有難う」
アルフ兄の妻であるブリギッテは、長い道程を歩いてきたケンに栄養があって消化が良い物をと、乾酪をたっぷり加えたブリューエを作ってくれた。ケンは義姉に感謝しながら頂いた後、兄たちに見てもらいながら、言上の練習を何度も繰り返した。
辺境伯とは、父の葬儀で少し話をしただけだ。先代の子爵とも数度言葉を掛けてもらっただけで、会話をしたことは無い。それ以外の貴族などは言うに及ばずだ。
当然貴族相手の言い回しは覚束ないので最初は閊え|閊えだったが、アルフ兄のお蔭で結構それらしくなった。夜まで掛かってやっと合格点をもらって床に就いた。
明日は村の命運が変わりかねない大事な日になる。ケンはなかなか寝入ることができなかった。長時間歩いて体は疲れ切っているのに、目と頭は妙に冴えている。言上のために準備した台詞を頭の中で何度も繰り返す。そのうちに自分の言葉の意味がわからなくなって何とか眠りに落ちた後も、見るのは練習を繰り返す夢だけだった。




