第四十一話 荷馬車は南へ
王国歴223年2月(ノーラ20歳)
二月は王都にも雪風が吹き抜ける。
雪が積もった寒々しい風景の中、街路には除雪作業に忙しそうな人が多くいるが、それを除いて見れば行き交う人は少ない。多くの人が外出を避けて家に籠る季節だが、行商人はそうは行かない。
「今度はどこへ行くの?」
ノーラ・カウフマンは自宅の居間の暖炉の前で体を暖めながら、父親のノルベルトに尋ねた。前の行商からは二か月ほどが経っている。
数年前に、ノーラの両親はこれまでの行商の儲けを元手に、王都の片隅に拠点となる商会本店を構えた。それを機に、母親は行商への同行を止め、本店の維持を担当することになった。年齢的なものもあり、また、徐々に治安が悪くなり各地の街道への盗賊の出没が増えてきたことも理由の一つだ。
母親はノーラの同行も止めさせたがったが、本人が言うことを聞かなかった。今の所はノーラが一人娘だ。将来、商会を継ぐか他の商家に嫁入りするか、いずれにせよ商売に携わって生きていくのならば経験を増やすのに越したことは無い。ノーラ自身の口からそう言われると、母親も反対し続けるのは難しかった。
ノルベルトは本人が好きなようにすれば良いと思っていたので、強く反対はしなかった。今も昔も、男親は娘には甘くなりがちだ。自分に同行したいと言ってくれるのが嬉しくもあるのだろう。
ノルベルトは手にしていた陶器の中の温葡萄酒を一口飲んでから娘に答えた。
「今回は南部に行こうと思う。ローゼン大森林をぐるっと一周する」
「南部に行くのは初めてね」
「そうだな。今のうちに行っておこうと思う」
「今のうち?」
「ああ、北部の方が人口が多くて商売としてはいいから、これまでは南部には行かなかったんだ。最近、北部は治安が悪くなってきたが、南部はまだましのようだ。今のうちに新たな商路を開拓しておきたい。それに、一回は国中を回っておきたいからな。寒さも南部の方が少しはましだから、丁度いい」
「わかった」
「だがこの先、国中の治安がさらに悪くなるようなら、行商そのものが難しくなるかもしれん」
ノーラは火に向かって翳していた手を下ろし、父親の方を振り返った。
「それは、やっぱり、陛下が老いて行くから?」
「『御歳を召される』だ。頼むから、言葉には気を付けてくれ」
「うん、次から気を付ける」
「やはり陛下の抑えがないと、各地の領主が勝手なことをしだす。治安維持には金が掛かるからな。税を高くする碌でもない領主ほど、衛兵の数や訓練を減らしたがるもんだ」
「税を増やすと、不作の年に盗賊に商売替えをする農民も増えるしね」
「ああ、そんな素人の盗賊は、衛兵が足りていればすぐ討伐されるんだがなあ」
「そうよね。で、今度は何を商うの?」
ノルベルトは陶器を持ち上げてゆらゆらゆらと揺り動かした。温葡萄酒の肉桂の香りを嗅いで、また一口味わってから答えた。
「今回は、商売は二の次だ。南部の様子を見て回るのが一番の目的だ。だから値が張るものは持って行かない。もし盗賊に遭った時にも被害が少なくて済むようにな」
「塩とか?」
「ああ、南部は海から遠い。塩は儲けは少ないが確実に売れる。それから、鉄屑、作物の種とかにするか」
「どれも安物だね」
「だが、必要な所へ持っていけば、確実に感謝されるものばかりだ」
「必要な所?」
「ピオニル子爵領のネルントとかいう開拓村だ。マーシーさんが今はあそこに移り住んでるっていう話だ」
「マーシーさん。あの、盗賊団に襲撃された時の傭兵さん。剣術を優しく教えてくれた」
「開拓村なら、今のうちに顔を繋いでおけば、先々発展した時に有利な取引ができるかもしれん。折角知り合いがいるんだ、訪ねておくのも悪くは無かろう」
「塩、鉄くず、種。確かに喜ばれるだろうね」
「ああ、開発の相談相手になれれば最高だが、まずは顔繫ぎだ。お前もそのつもりでいてくれ」
「わかった」
数日後にノーラたちは王都を出発した。
ピオニル子爵領の手前までは何事もなくやってきた。ローゼン大森林を右手に、街道を荷馬車で南下する。荷は腐るような物ではなく急ぐ旅でもないので、ノルベルトは荷馬車をゆっくりと進める。ノーラは珍しく荷台に籠ったり荷馬車の横を歩いたりせず、道中ずっと御者台のノルベルトの隣で大森林の風景を眺めていた。
「あいかわらず大きな森だね」
「ああ、黒く深き魔の森は、国境の山々を除けば、国でも一番の大森林だからな。この森を何日も眺めながら進むことになる。魔物が飛び出してこないと良いけどな」
「魔物が森から出てきたことがあるの? 初めて聞いたんだけど」
「俺も聞いたことは無い」
「なーんだ」
面白い話が聞けると期待していたのだろうか、がっかりしたような声を出した娘に、ノルベルトは「ははは」と笑いを洩らした。そして真面目な顔に戻す。
「黒く深き魔の森の奥に一度入ったら出てこられない、という話はよく聞くけどな。魔物がいたとして、森の中で満足して出てこないんだろう」
「……そうね。有難いことね」
「地元の人々が大切にしている神聖な領域は、侵さない方が良い」
「たとえそれが、迷信でも?」
ノーラは視線を森に戻しながら尋ねる。父親はその娘の様子をちらっと見た。
あの時、ノーラは人攫いから少女を守るために躊躇せずに魔の森に連れて行った。世の中には妖魔を怖れず、そればかりか親しく言葉を交わす者までいる、という噂話もある。英雄ファルコの物語の元となったこの国の建国王もそうだったらしい。もしかするとノーラもそうなのかもしれない。
だが、行商の行先で信じられている迷信を守るのは行商人には大切なことだ。迂闊なことをすると反発を受け、嫌われ、信用を失う。『噂はフェアリーのように空を飛びピクシーのようにどこにでも入り込む』というが、田舎では噂の回りは信じられないほど速い。現地の仕来りを破り一度悪評を被ったら、商売は上がったりだ。確り言い聞かせておかないと。
「ああ。地元の人に嫌われたり恨みを買ったりして、良いことは何もないだろう?」
「それはそうね」
「例え自分には理解できないものでも、他の人が大切にしているなら尊重すべき、ということだ」
「ふーん」
「それが犯罪行為や、他の人に害をもたらすものでない限りは、な」
「なるほど」
どうやらノーラは納得したようだ。父親の方を見て頷きを返すと、また森の方を見た。
「地元の人は、森に魔物がいて欲しいのかもね」
「どういうことだ?」
「魔物がいれば、森を侵そうとする人はいなくなる。領主も森を切り拓こうなんて考えなくなる」
「自分たちが開拓に駆り出されずに済む、だな」
「森から流れ出る川の水も、絶えることなく綺麗なままに保たれる」
「森があると周囲の土地は旱魃に強くなるって言われているな」
「長い目で見ると、森を開拓しない方が、収穫量は多いかも」
「もっとも、国の南部が東西に隔てられているっていうのは、商業には不利だぞ」
「そうね」
ノーラは相変わらず興味深そうに森をじっと見ている。あまりに熱心なので、ノルベルトは荷馬車を止めた。
「何を見てるんだ?」
「ううん、別に」
ノーラが曖昧に微笑みながら答え、ノルベルトが肩を竦めてまた荷馬車を動かそうとした時だった。道の後方から苛立った声が掛かった。
「すまないが、停めるのなら横に寄せてくれないか?」
ノルベルトが後ろを振り返ると、荷馬車が後ろに止まっている。ずっと自分たちだけだと思っていたが、知らないうちに追い付いてきていたのだろう。
「申し訳ない」
ノルベルトは急いで馬を動かし、自分の荷馬車を道端に寄せた。その横を二頭立ての大型荷馬車が通って行く。荷物を満載しているようで、馬は二頭とも真っ白に大汗をかいている。
「ゆるゆると旅ができて結構な事ですな」
御者の横に座った、太った男が皮肉な声を掛けてきた。この荷馬車の主の商人だろう。
「道を塞いで済みません。子爵領の領都行きですか?」
「いいえ、辺境伯領です。私の商売では、伯爵領以上の規模でないと、儲けになりません。では、お先に」
「お気を付けて。良い御商売を」
「そちらも、良い商売を」
商人が挨拶する横で御者が馬に鞭を入れる。先を急いでいるようだ。速度を上げた馬車の荷台が満載の荷物で上下左右に大きく揺れ動きながら小さくなっていく。
ノルベルトはそれを苦笑いで見送りながら娘に言った。
「少々急いでも、到着には大して変わりはないんだけどね」
「馬と荷馬車を酷使すると、結局は儲けが小さくなる、って父さんよく言うよね」
「ああ。ファルコはそういう時にはなんて言うんだ?」
「『鈍きもの。休まぬ兵と研がぬ剣、それを用いて敗れ去る将』」




