第三十話 破落戸
承前
菫に近付いてきた五人の先頭にいた目付の悪い男は、媚びた声で話し掛けた。
「よう、嬢ちゃん、姿絵か。払いはまだかい? 俺が奢ってやるよ」
「結構です」
「いいからいいから。遠慮しないで任しときな。その代わり、俺たちとちょっと付き合ってくれよ」
「ここで人と待ち合わせておりますので。御容赦ください」
「こんな所で待ってても詰まらねえぜ。あっちで俺たちと遊びながら待てばいいだろ。さ、来いよ」
そう言うと男は菫の手を掴もうとしたが、菫は口を引き締め後退って避けた。
「あんたら、止めなよ。嫌がってるじゃないか」
「うるせえ! 黙ってろ、ババア! 邪魔立てしたら只じゃ置かねえぞ!」
見兼ねた女主人が口を出したが、先頭に立っていた男が声を荒げて罵った。女主人が怯むのを見て、男は得意げに口の端を上げ菫に向かってさらに凄んだ。
「さあ、来な」
「……行きません」
「そう言うなよ。いいから、来いってば」
「嫌です。あなたたちなんかと、絶対に行きません」
「何だと、このアマ! 優しく言ってりゃ付け上がりやがって。お前、どっかの禿だろ! このあばずれの売り物が!」
菫はきっぱりと断ったが、男の罵声を聞くと俯いて黙り込んでしまった。体は硬く縮まり声だけでなく顔色も失い蒼褪めている。
「そうだ、禿も妓女も人じゃねえ、安物の売り物だ、この売女! 俺たちが買ってやろうって言ってんだ、黙って付いてくればいいんだ!」
そう言って無理やり菫の手を掴み、菫が持っていた紙筒が落ちた時に、男の背後から声がかかった。
「人でなしはお前たちの方だ。手を放せ」
低い声で、抑えようとしても抑えきれない怒りに震えるその声に、男は振り返った。
「その子の手を放せ」
ユーキは男を睨み付けて繰り返した。こんな場面にぶつかるのは生まれて初めてだが、怒りが、怖さや緊張をどこかに吹き飛ばしてしまった。
「何だ、お前」
「その子の友達だ」
男が眉根に皺を寄せて言う言葉に被せてきっぱりと言い放つ。
「友達? 売女の友達なら、お前も陰間かあ?」
「ふざけるな! 働いて金を稼ぐのは誰だって同じだろう。彼女たちは体を売っているんじゃない、芸を売っているんだ。そのために一所懸命努力している僕の友達を侮辱するのは許さない。今すぐに手を放して彼女に謝れ!」
「へっ、何が友達だ、この格好付け野郎。嘘を言え。俺たちはさっきから見てたんだ。お前ら、こいつにさんざん付き纏ってこの店まで来た挙句に、突っ撥ねられて離れてったじゃねえか。お呼びじゃねえんだよ。振られた野郎はすっこんでろ!」
男が咆えた。
「はは」
そういうふうに見えたのか。あまりの見当違いに、ユーキは怒りながらも笑ってしまった。
「何だこの野郎、馬鹿にしてんのか。痛い目に合わせてやろうか!」
嗤われたと思って頭に血が昇ったのだろう。男は菫の手を放し、ユーキの胸倉を掴もうとした。しかし軽く上体を引いて掴ませず、男の手を左手で払い落す。男が憤って詰め寄ろうとしたところに、女主人が止めようとして強く声を掛けてきた。
「やめなよ、ここではやめとくれ! どうしてもやるなら外でやっとくれ」
確かにここで騒動を起こしては、この店に迷惑が掛かる。ユーキは男たちから目を離さずに、「わかりました」と彼女に答えてから、目の前の男に声を掛けた。
「表に出ようか。先に出ろ」
「いいだろう。逃げんなよ」
応えて男たちは店から出る。
「大丈夫かい、あんたたち」
「ええ。この子をお願いします」
菫を庇いながら心配する女主人に笑って見せて、外に出ようとするとクルティスが囁き掛けてきた。
「御主人様、折角ですので一人お任せします。後は我々が」
『折角』って何だろうか。
不思議に思うがそれは横に置いて、外に出た。
通りに出ると、菫の手を掴んでいた男が、残りの四人を後ろに従えている。やはりこいつが五人の頭らしい。さっき以上に目付きが悪い。後ろの四人も楽しそうに顔に嘲り嗤いを浮かべている。恐らくこんな悪さを繰り返している連中なのだろう。
危うげな雰囲気に気が付いたのか、付近の通行人たちが遠巻きに集まってきた。それに紛れてユーキの護衛たちも、するすると破落戸どもの背後に近寄っている。
頭らしい男が嘯いた。
「おい、後ろの奴は体がでかいようだが、こっちは五人だ。そっちに勝ち目はねえぜ。後悔してんなら、地面に這い蹲って俺の靴を舐めりゃあ、勘弁してやってもいいんだぜ」
「這い蹲うのはお前たちの方だ。将来を信じて頑張っている人間を侮辱する権利など誰にも無い。もう一度言う。彼女に今すぐ謝れ!」
ユーキが即座に返した言葉を聞いて、店先で女主人の背中に庇われながらこちらを覗いていた菫が胸の前で両の手をぐっと握った。ユーキには見えないが、目から涙が一粒零れている。
「何だと、俺たちに向かって偉そうに! もう許さねえ!」
男が喚いた時に、少し後ろに控えていたクルティスがユーキの横に並びながら言った。
「御主人様、屑に謝らせても仕方ありません。屑籠に片付けるべきかと」
「この野郎! やっちまえ!」
男は喚きながらユーキを目掛けて殴り掛ってきた。
左ではクルティスが二人の男の胸を突き、後ろに吹き飛ばしている。右では二人の護衛が一人ずつ、残りの二人の男の肩を叩いて振り向かせていた。
ユーキに向かってきた男は、こめかみを狙って右から左から拳を振ってくる。それを後ろに小さく下がり胸を反らして躱しながら、ユーキは驚いた。
午前中のクルティスとの組手と違い、相手の動きが良くわかる。むしろ遅く思えるぐらいだ。
拳を振ろうとするその起こりがわかる。来ることがわかっていれば、出所も軌道も落ち着いて見極められる。それどころか、相手の足が遅れて前のめりになる姿勢も手に取るように見える。これなら、慌てなければ拳を喰らう心配はない。
男が大振りを繰り返す拳をユーキは左右に小さく動いて躱し、相手の体が流れたところで左の手を真っ直ぐ突き出して相手の顔に軽く掌底を見舞った。鼻に受けた衝撃に堪らず男が仰け反った機を逃さず、その左足を外側から右足で素早く蹴り払ってやると、翻筋斗打って尻から落ちた。
男は「ぐっ!」と声を上げ、顔と尻の痛みに転がり回って立ち上がれない。
その隙に顔を上げて素早く周りを見ると、クルティスが残りの男の一人を、こちらに見せるかのように背中から投げ落としている。
なるほど、ああやるのか。
ユーキが目の前の男に注意を戻すと、男はようやく立ち上がって「野郎!」と喚きながら右手から掴みかかってきた。
その腕を左手で取ると、引き込みながら右手で胸倉を掴む。その手を引き付ければ男の体は重心の均衡を失って前に崩れる。そこで振り向きざまに背を見せて懐に入り込み、膝を曲げて腰を落とせば相手は支えを失ってこちらの背に倒れ掛かってくる。そのまま背に乗せ、左手で掴んでいた相手の右腕を引き落としながら膝を伸ばして腰を跳ね上げると、男の体躯はふわりと浮き上がり、ぐるりと回って背中からドカッと落ちた。掴んでいた胸倉を引き上げてやらなければ、頭から落ちて危なかったところだ。
破落戸の体が宙に描いた鮮やかな円弧を見た周囲の野次馬たちから、「おおっ」というどよめきと拍手が上がる。
「そうか、こうだったのか」
午前中のクルティスとの上手くいかなかった組手とクーツの「並人相手ならば」という言葉とを思い出しながら独り言ちた後に、ユーキは息もできない様子の男の腕を背中に捩じ上げて、俯せに地面に押し付けながら周りを見回した。
クルティスは既に片手に一人ずつ、二人の男を地面に抑え付けて、こちらに向けて片目をぱちりと瞑って見せる。護衛二人も残りの二人の男を這わせて、顔を大きく綻ばせて何度も頷きながらこちらを見ていた。
「畜生め、俺たちに、こんな、ことをして、只で済むとでも、思ってんのか」
ようやく息が戻ったのか、ユーキに腕を捩じ上げられ自分の宣言とは逆に顔を地面で汚して這い蹲っている男が、ぜいぜいと息を吐きながら言った。
「何のことだ」
「ふん、今に見てろ」
すると通りの向こうで「こっちだ、早く来い!」という声と共に、衛兵が何人か走ってきた。どうやら誰かが詰所に知らせたらしい。
衛兵たちの先に立って、ユーキには見覚えのある良い身形の茶色の髪の若い男がこっちへ来る。彼が通りがかりに通報してくれたのだろうか。
若い男は近付いてくると、いきなり菫を指差した。
「あの女だ! 狼藉を働いたこの四人とあの女を拘束しろ!」
「え?」
周囲がざわつく中、男は今度はユーキを指差して続けた。
「俺は見ていた! この悪党四人があの不良女を餌にして、彼ら五人に美人局を仕掛けたんだ! こいつが首謀者だ!」
訳が分からない。ユーキが呆気に取られていると、姿絵屋の女主人が叫ぶ。
「何言ってんだ、ふざけんじゃないよ! 逆だろうが! この子はうちのお客だよ! そいつら五人がうちの店で、この子に因縁を付けたんだ! その人たちは、この子を助けてくれたんだよ! 先に手を出したのも、そいつらだよ!」
「やかましい! 庶民は黙っていろ! 俺はツベル男爵継嗣のファイグルだ! 俺の言う事に間違いはない!」
ファイグルと名乗った男は、叫び返すと女主人を睨み付ける。その名を聞いてユーキははっきりと思い出した。国王へのお目見えの後に廊下で擦れ違った彼だ。彼の方はユーキの顔を憶えていなかったらしい。それを言えば驚くだろう。だが、野次馬たちの前で大声で身分を明かすことはできない。
衛兵たちはどちらが正しいのか判断に困ってまごついていたが、貴族の名を聞いて怯んだ。ツベル男爵と言えば、内務省の下にある衛兵局の結構上の方の役人だ。当然、衛兵たちの出世や俸給など、生活を左右でき得る立場にある。彼らが怯むのも無理はない。
周囲の野次馬たちから「ふざけるな!」「貴族が何だ!」と声が飛ぶが、ファイグルと名乗った男がそちらを睨むと、皆、顔を背けて知らぬ顔をしている。
衛兵たちは躊躇った挙句に、こちらに向いて申し訳なさそうに「君たち、一緒に詰所に来てくれるか」と言ったが、野次馬たちの激しい抗議の声で動けずにいる。
そうこうするうちに衛兵の主任と思しき女が到着し、衛兵たちは彼女に事情の説明を始めた。
そこに、東方風の服を着た中年前の、背丈は低いが逞しい男が人垣を掻き分けて出てきた。
「ちょいとごめんよ、ごめんよ」
男は菫の所へ行って話をしていたが、二、三度頷くと衛兵の主任の所へ行き、頭を下げて話しかけた。
「マルテル主任、お手数をお掛けしておりやす」
「柏さん、か。一体全体どうなってるの?」
「へい、どうも事の始まりは、うちの菫がそこの地べたを味わっている連中にちょっかいを掛けられて、そちらの方々が助けに入って下すったことのようで。今事情を確認しやしたが、そちらの姿絵屋の御主人のおっしゃった通りでございやす。あっしが請け負いやす。それに……」
『柏』と呼ばれた男が何やら耳打ちすると、主任はそれを聞いて納得したのか、部下たちに指示を出した。
「ふん。柏さんの言う事なら、間違いないわね。皆、その転がっている五人を拘束して詰所へ連れて行って」
それを聞いてファイグルが慌てて騒ぎだした。
「何を言っているんだ! 貴族の俺よりそのわけのわからない男を信じると言うのか!」
だが、マルテル衛兵主任は動じない。むしろ冷たい落ち着いた声でファイグルに向かって宣言した。
「天下の往来で騒ぎを起こしておいて、貴族も庶民もありません。ファイグル・ツベル様、貴方も詰所に御同行願います」
「何だと!」
「最近この付近でさかんに若い女性を狙う強請り集りの破落戸六人組がおります。貴方はその首領と人相がそっくりです」
それを聞いてファイグルは蒼くなり逃げ出そうとしたが、すっと近付いた柏がその腕をがっちりと掴んだ。
「おっと、坊ちゃん、そうは行かねえ。出来損ないのデュラハンじゃああるめえし、体残して頭だけで逃げ出しちゃあいけねえなあ。手下を放り出すとは薄汚えコボルトでもやらねえ所業だぜ。お貴族様らしく、臣下の面倒はみてやんな」
「憶えてろ。何者だか知らないが、父上に言えばお前ごとき……」
「どうぞどうぞ、あっしは花園楼の柏ってんだ。是非とも憶えておいていただきやしょう。名乗った以上は逃げも隠れもしやせんぜ。できるもんなら御存分になすって下せえ」
「畜生っ、痛いっ! 放せっ!」
藻掻いてみても、柏が腕を掴み肩を押さえると、どういうものかファイグルは全く身動きができない。その身柄が衛兵に引き渡されたのを確かめて、マルテル衛兵主任は姿絵屋の女主人とユーキに向かって言った。
「貴方方にも事情を伺いたいので、詰所にお出でください」
詰所に連れていかれるのはちょっと困る。
クルティスが目配せすると護衛の一人が心得てマルテル主任に耳打ちした。
「(お静かに。近衛第三大隊所属の者です。私が参ります。あちらはユークリウス殿下であらせられます)」
「しょ、承知しました。貴方で結構です」
主任はぎょっとして身を引いた。そこに女主人が空を見上げて言う。
「あたしは喜んで行くよ。どうせもう今日は店仕舞いだからね。片付けたらすぐ行くよ」
「ああ、そうだな」
柏も空を見上げて答え、もう一人のユーキの護衛に告げた。
「もう村雨が来やす。こちら様にお馬車を御用意なすった方が」
その言葉が終わらないうちに、ぽつり、ぽつり、と雨の雫が落ちだした。
「程無く本降りになりやす。どちらさんも、先をお急ぎなすって下せえ」
柏が誰にともなく声を掛けると野次馬はばらばらと散り始め、衛兵は破落戸どもを引っ立てた。マルテル主任も柏に「それでは」と頷いて見せた後に、ファイグルを衛兵との間に挟んで連れて行った。
「憶えていろよ! お前の顔は憶えたからな! また来るから覚悟しとけよ!」
ファイグルは最後までユーキの事がわからなかったらしく、青い瞳でこちらを睨み、捨て台詞を叫びながら連れ去られて行った。
うん、言われなくても大丈夫、僕は憶えていたよ、君の方は御目見えの時も僕の事に気付かなかったけどね。今度は憶えていた方が良いと思うよ、会うのはここじゃないだろうけど。無事に王城で会えるといいね、とユーキは心の中で呟いた。
その横では、知らない間に菫を連れて隣に来ていた女主人がファイグルに毒突いていた。
「へん、すっとこどっこいめ。来るなら来やがれ一昨日来やがれ、ってんだ!」
そしてユーキを見上げて嬉しそうに言う。
「それに引き換え、あんた、格好良かったよ。姿絵にしたいぐらい、大売れ売り切れ間違いなしの男っぷり、惚れ惚れしたよ。良いもんを見せてくれて、ほんと、ありがとね。胸がスカッとしたわ。大丈夫、後はあたしに任せときな」
女主人は笑ってユーキの肩をバンバン叩くと、「じゃあね」と店仕舞いのために戻って行った。衛兵たちも去り、一面黒くなった空から落ちる雨がどんどん強くなるにつれ、周囲の人が減ってきた。
柏が護衛に促した。
「御主人様とお伴の方は花園楼で責任を持って雨宿りしていただきやす。どうかお馬車の御用意を」
「……雨で道が混むと思います。一時間ほどお待ちください」
護衛は逡巡していたが、ユーキが頷いてみせると決心してそう言い、詰所のある方向に走り去った。
柏が今度は菫に命じた。
「菫、先触れだ。婆と椿姐さんに知らせに走れ」
「あい。シュトルム様、クルティス様、お助けくださり、本当にありがとうございました。ではまた、後ほど」
菫は柏に答え、ユーキとクルティスに礼を言うと、左手に持った姿絵の入った紙筒を体の前に庇い右手でキモノの裾をからげて小走りに急いで行った。
柏はそれを見送り、二人の方を見て促した。
「では、参りやしょうか」
ユーキは菫の後姿にぼうっと見惚れていたが、促されて慌ててクルティスと共に歩きだした。
雨は完全に本降りになっている。
先に立って歩く柏の後ろでつい足音を早めそうになると、柏は振り向いて両手で押し留める身振りをした。
「お若いの、いけやせん。花街を行く色男ってえのは、雨が降ろうが風が吹こうが気にもせず、ゆったり進むもんでさあ。あっしが露払いを致しやす。どうぞ、続いて歩いておくんなせえ」
ニッと笑うと前に立ち、懐手をして胸を張り、肩で雨風を切るようにして本当にゆっくりと歩いて行く。言われたように後ろを付いて行くと、花街の通りに入る頃には髪から引っ切り無しに雫が滴りだしたが、驚いたことに他にも同じように濡れて歩いている者が普通にいた。
確かにお伽話では、『エルフの森ではエルフのように背を伸ばし、ドワーフの洞窟ではドワーフのように身を屈めよ』とも言うらしい。ユーキもずぶ濡れになる覚悟を決め、柏の真似をして胸を張って堂々と歩くことにした。髪から落ちる雨が顔にも掛かるが、気にしない。さっきの喧嘩で熱くなっていた頭を冷やしてくれているようにも思え、何だか気分が良くなって自然と笑顔になる。脇を歩くクルティスをちらっと見ると、同じように威勢良く歩いている。
すると柏が振り返って立ち止まり、またニッと笑った。
「そう来なくっちゃあ。良い御様子、まさに水も滴る良い男でござんすよ、シュトルム様、クルティス様」
「僕たちの名前を御存じでしたか」
「へい、失礼ながら、菫から伺いやした。あっしは『柏』と申しやす。もう御存じかも知れやせんが」
「柏さん、御面倒をお掛けして申し訳ありません」
「何をおっしゃいやす。貴方様は、うちの菫を四度までお助け下すった御恩人だ。面倒などとは、とんでもないことでございやす」
「四度? 迷子になったことと、あの連中と、二度ですよね?」
「いえ、お忘れかも知れやせん。九年前のさるお方の御葬儀で、むずかった菫をあやして祭壇まで花を捧げに連れて行ってくだすった、それが初度でさあ」
「……憶えています。あれはやっぱり、菫さんだったんですね」
「へい。そしてもう一度は、あのチンピラに菫のことを『将来を信じて頑張っている友達』と、『謝れ』と、すっぱり言い返してくだすったこと。菫の奴、涙が出るほど嬉しかったと言っておりやした。『売女』と言われて傷付いた、あいつの心を救ってやってくだすって、本当に有難うございやした」
柏はまた深く頭を下げた。
「そんな」
「菫は、あんな風に胸を張って明るく振る舞ってはいても内心はなかなか自信を持てない娘で。おっしゃって下すった事、心の奥まで染み入ったんでさあ」
柏が菫のことを沁み沁みと語った言葉がユーキの胸の深みに落ちた。心に拡がる波の輪が今朝の鍛錬での自分の醜態を思い出させ、言われた感謝の落ち着け所が見付からない。目の前にいるのは今まで見ず知らずだった男だが、なぜだか気持ちを聞いてもらいたくなった。
「いいえ。……実は、僕も今日、自分はもっと励まなきゃいけないと思うことがあったんです。まだまだ駄目だな、と。そうしたら、昔のあの時からずっと逢いたかった菫さんとまた出会えて。彼女は仕事のことを誇らしげに話していて、ああ、この子は一所懸命に頑張っているんだな、と。僕ももっと頑張ろう、この子に胸を張って向き合えるようにって思ったんです。そんな彼女があんな言われ方をして、本当に腹が立ったんです。菫さんだけでなくて自分も汚されているようで。だから、あれは自分のために言ったようなものなんです。それにお礼を言われるなんて」
柏は静かに耳を傾けてユーキの言葉を聞いていたが、顔を上げてユーキの眼をじっと見た。「ふっ」と小さく笑ったその後に口から出てきた声からはさっきまでの若衆らしい媚び調子は消え、大人らしい、まるで兄が弟に諭すかのような優しさだった。
「シュトルム様。いやさ、お若いの。あんた本っ当に真っつぐだ。他人事を自分事と思える優しさも、曲がったことにぶっかってく強さも持っている。この先長い人生で、裏切られたり騙されたりがあったとしても、どうかそのまま、真っつぐ進んで行ってくれ。人が柱にするのも杖と頼むのも、真っつぐ伸びた木だけだ。いつかお伽話のエントのように、真っつぐぶっとい木になって、この国の俺たち皆の頼りになってくれ」
柏は真顔でそこまで言うと、ニッと相好を崩して自分の頭をポンと叩いてみせた。
「いやこりゃ、詰まんねえことを言っちまいやしてすいやせん。年寄りの繰り言世迷言、どうか右から左へすっと聞き流しておくんなさい。さ、花園楼はもうそこでやす。参りやしょう」
そして一つ頭を軽く下げると、また歩きだした。




