第十三話 菖蒲
王国歴216年4月(菫6歳、前話の約三年後)
ショルツ侯爵家の葬儀の三年後のある日、東方風の衣装を着た柏は幼い禿を一人連れて、花街の近くを歩いていた。
東から吹く春風は暖かく、街へと誘い出された人々で王都の大通りはごった返している。人波を避けながら、住み込みで働いている花園楼に戻るために角を曲がると、一人の女衛兵とばったり会った。
「アイセル!」
自分の昔の名を呼ぶ声を聞けば、顔を見るまでもなくマルテルだ。柏は無視して足を急がせようとしたが、相手は前に立ち塞がろうとする。
「どなたか存じやせんが、お人違いでは。ごめんなすって」
「待って、お願い、待って」
マルテルは横を擦り抜けようとした柏の腕を掴み、縋り付かんばかりに引き留めた。柏が仕方なく歩みを止めてマルテルに向き直ると、彼女は勢い込んで尋ねてきた。
「そのキモノに言葉遣いは、花街にいるの?」
「余計な詮索は、御勘弁くださいやし」
「……その子、可愛いわね。ひょっとして」
「いえ、この子は菖蒲と申しやす」
菖蒲は名前を呼ばれても振り向きもせず、どこからか翔んできた蝶々を追ってふらふら歩き回る。揶揄うように鼻先を飛び回る相手を捕えようと手を伸ばしては逃げられを楽しそうに繰り返している。鹿色の髪に細い糸目。器量は良くても確かにあの二人のどちらにも似ても似つかない。
マルテルは視線を柏に戻した。
「そう。私、侯爵家を辞めて衛兵になったの。今度、この先の詰所を担当するの。花街も管轄だから」
「……さいでやすか。あっしは花園楼の柏と申しやす。この先、お世話になりやす。どうかお見知りおきを」
「花園楼……やっぱり……」
言葉を呑んだマルテルを見て柏は態度を変えた。昔の同僚を睨み付けてきっぱりと言う。
「いずれ分かる事だろうから言っとくが、菫には手を出さないでもらおう。もし手を出したら、お前でも容赦はしない」
「わかったわ。決して手出しなんかしない。私はもう侯爵家の人間じゃないの。衛兵詰所の主任だから。困ったことがあったら何でも言って。できるだけのことはするわ」
「罪滅ぼしか? もう手遅れだよ」
「そうかも知れないけど。アイセル、ごめんなさい。あの時は、私が間違ってたわ。あの時、二人を引き裂くようなことをしなければ……」
「止めろ。今更、済んだことだ。もう何も元には戻せないんだ。フェルディナント様も葵様も、帰っては来ないんだ」
「そうね」
「俺ももう、花園楼の柏だ。お前が衛兵であるようにな」
「そうね。わかったわ」
「ああ。じゃあな。ごめんなすって」
マルテルと別れて少し歩き、後ろを振り返ると相手はまだこちらを見ていた。それでももう十分離れたことを確認すると柏は横をふらふら歩いている菖蒲に話しかけた。
「菖蒲」
「あい」
「今の事は誰にも言うな。特に菫には、絶対に黙ってろ」
「今のことって? 蝶々のこと? 菫も蝶々、好きだもんね」
「いや、違う。まあいいや、何でもない。お前は菫と違って、手間いらずだなあ」
「えへへ、あ、また蝶々」
「おい、待て、勝手に走ってくんじゃねえ。俺が間違ってた、菫と手間が違うだけだったわな」
「えへへ」
柏は菖蒲を捕まえると、まだ蝶々の方に手を伸ばしている禿を引き摺るようにして、苦笑いしながら歩いていった。




