62.あいうえお作文
夕方、宴は一旦散会となり、招待客達を見送る。騎士の方達はこの後、居酒屋でまだ飲むようだ。楽しそうに侯爵邸を去っていく。
「片付けの指示は私がしておくわ、アンズさんは、もう休んで」
にっこりとチェルシーさんが私に言う。
「ありがとうございます、チェルシーさん、でも、疲れてないし大丈夫です」
私もにっこり返す。
お義母様、チェルシーさんとはこの1ヶ月半ほどですっかり仲良くなって、チェルシーさん呼びもさせてもらっている。
母を思い出した私が泣いてしまった初対面以降、チェルシーさんは完全に私を、“娘”としてロックオンしており、とても優しいし、適度な距離も心得ていて、本当に素敵なお義母様だ。
2人で、カフェに行ったり、買い物に行ったりもした。関係は至極良好だと思う。
対するお義父様、とは疎遠なままだ。
私としては、お義父様であるし、カッコいいし、全然お近づきになってもいいのだけれど、お義父様は初対面で泣いた私にもはや恐れをなして避けられている。
「情動的な生き物は苦手だ」との事。
生き物って……。
お義父様については、グレイとチェルシーさん、そしてセバスチャンまでにも、「気にしなくていいから」と言われた。
対人関係が苦手な方らしい。「私、仲良くなるのに、3年もかかったのよ」と、ふくふく笑いながらチェルシーさんは仰る。
チェルシーさんで3年なら、私、10年くらいかかるんじゃないかしら。
でもそんなお義父様も、今日の結婚式では、招待客や親戚の方々に、きちんと対応していて、そういう所はちゃんと前侯爵だ。
もしかして、かなり無理して社交をしてたのかな?と思う。
見た所、体力的にも、健康的にも問題無さそうなのに、グレイに爵位を譲ったのは、とにかく対人が苦痛だったのかもしれない。
王都から領地に引っ込んでいたくらいだしね。
ふむふむ、なら、“情動的な生き物”としてちゃんと距離を取ってあげよう。まずは挨拶からね、と私は思っている。
「でも、初夜の支度もあるでしょう?きっと侍女達が待っていますよ」
「はっ、えっ?あ、えーと、はい」
義母のチェルシーさんより、初夜の支度、と言われてあたふたする私だ。
義理の母から、そういう事を言われるのってびっくりするわよね。こういう所、貴族だわ。
「アンズさん」
私のあたふた、を不安と読んだらしいチェルシーさんが私の手をそっと手を握る。
「大丈夫よ、最初は皆、怖いけど何とかなるものだから」
慈愛に満ちたチェルシーさんの眼差し。
どうやら、私の、初めて、を気遣ってくれてるようだ。
「…………はあ」
チェルシーさん、私、乙女ではないので、そういう不安はないんですよ、とは言えない。
ええ、言えない。
まあ、もちろん緊張はするけどさ、怖さはない。
そして、私の曖昧な返事に、はっとなるチェルシーさん。
「もしかして、アンズさんの居た世界では、閨教育とかなかったのかしら?大変!気付かずごめんなさいね、どうしましょう、今からでも私の侍女に、」
「大丈夫!大丈夫です!チェルシーさん、ちゃんと知識あります!」
力いっぱい止める私。
うわあ、止めて、何かすごく恥ずかしいから止めて!
「そう?」
「はい!じゃあ、お言葉に甘えて、休みますね!」
私はそそくさと庭を後にする。
屋敷に入ると、待ち構えていた侍女達によって、私は風呂で磨かれ、香油を塗られ、若干セクシーな夜着を着せられた。
そのまま寝室に放り込まれそうになったので、抗議してガウンを羽織り、軽食をつままさせて貰い、その後は素直に寝室に放り込まれてあげる。
そして、無事に初夜を迎えた。
***
「アンズ」
熱い吐息が落ち着いて、とろとろと微睡みだした時、グレイがとても優しく名前を呼んで、私を抱き寄せた。
ちゅっと額にキスをされる。
「もう寝るのか?」
閉じかけていた瞼にも、キスが降ってくる。
目元と鼻にも、ちゅっ、ちゅっとされた。
何だか心地いい。何とも言えない幸福感に包まれる私。
「そうですね、ちょっと眠たいです」
グレイの体温が心地よくて、ますます眠い。
「まだ夜は長いが」
「でも、ひ、」
とろんとしながら、完全に油断していた私は、「久しぶりだったので、疲れましたし」と言いそうになって、慌てて口をつぐむ。
あっぶな、眠気が少し吹っ飛んだわね。
久しぶり、とか、前の男を匂わすような事、結婚初夜に絶対に言ってはいけないわよね。
「ひ?、何だ?」
ひい、そこ、食い付きますか!?
グレイが探るように、こちらを見てくる。
えええ、何かしら、そんなに引っ掛かる?騎士の勘かしら?
ひ?何かしらね?
ひ?
えーと、ひ、
結婚初夜の、夫と関係を持った直後に、あいうえお作文を作成する事になるとは。
何でもいいから、ひ、のつくそれっぽい事を言わないと。
ひ、よ!
ひ!
さあ、アンズ、言うのよ!
ひ、ひ、
「ひ、、、火が付いたみたいに、熱かったので疲れました?」
何とか絞り出すと、グレイは、ふっと笑った。
「なぜ疑問形なんだ」
そう言いながらも、ぎゅうっと優しく抱き締められて、どうやら、あいうえお作文は上手くいったようだ、と私は安堵する。
せっかくなので、可愛い子ぶって私もグレイに腕を回した。
ついでに、そっと上目遣いで見上げてみる。
グレイは微笑みながら、おでこにキスしてくれて、やれやれ、やっぱり意外にチョロいわ、と安心して私は眠りについた。
***
翌朝。
ええ、もちろん、翌朝ですよ。
早めに寝たせいで、きちんとした時間に私は起きた。
身を起こして隣を見ると、グレイが凛々しいお顔で眠っている。素敵だわ。
そして今も素敵だけれど、年を重ねるとお義父様みたいに渋くなるのね、と思うと、ついついサイファみたいなニヤリ顔になってしまう。
楽しみよねえ……。
今の私の笑顔、黒いと思う。
私が身を起こしたせいか、グレイが身動ぎして、目を開けたので、私は黒い笑顔を引っ込めた。
「おはよう、アン」
「おはようございます」
ちょっと照れる私。
ちょっと照れてる私をグレイは嬉しそうに見つめる。
甘いわ。
ごめんなさいね、甘いわね。
「起きちゃいましたし、支度して、朝食を摂りに行きますか?」
「いや、行かない。もう少しゆっくりしよう」
寝起きの気だるい様子でグレイが言う。
凄絶に色っぽいな。
「でも、お義父様とチェルシーさんも居ますし、あんまり寝坊するのは、」
「あまり早く起きると、仲が悪いと思われる。昼までゆっくりしたらいい」
するり、と私の体にグレイの腕が回される。
「そういうものですか?」
「そういうものだ」
本当かなあ?と思いながらも、再び横になる私。
「1週間の休みの間、寝室から出なくてもいいくらいだ」
「それは、さすがに…」
そういうのは、小説の中だけでいいと思う。現実にするのはしんどいぞ。
「本来なら、結婚休暇は2週間取るのが慣例なんだ、1週間しか取れなくてすまない。おまけにその後はすぐ遠征だ」
グレイが私を抱き寄せる。
「しょうがないですよ。遠征が先に決まってて、そこに結婚を捩じ込んだんです」
南央部の瘴気を払う日程は予め決められていて、少しでも早く私と結婚してしまいたいグレイが、結婚をギリギリの日程で入れたのだ。
「行きたくない」
私の髪に顔を埋めてグレイが言う。
可愛いじゃないか。
「決まってた事ですよー」
「アンの全てを知って、手に入れた今はもう行きたくない。昨夜のアンは本当に、むぐ」
何だか恥ずかしい事を言われそうで、私は慌ててグレイの口を手で覆った。
この行為が、なぜかグレイを煽ったらしい(なぜ?)、目付きが変わったグレイが私を強く抱き締める。
結局、朝食は昼食になり、私達は大体こんな感じの1週間を過ごし、その数日後にグレイは南央部へと向かった。
私の肩書きに、司書、聖女の他に、侯爵夫人が加わったけれど、私の日々の生活は変わらない。
グレイの出発を見送った後、私は城の図書室の勤務に復帰した。
お読みいただきありがとうございます!
やっと結婚出来た。
次の更新は少し空く予定です。
よろしくお願いします。




