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第66話 氷の追憶①

 空気中に舞う。冷気が。薄氷が。

 ノエルと兜の少女。二人の戦う空間は、まき散らされる氷によって周囲を薄く白い膜のようなもので覆われていた。


「凍えて消えろ――――『華吹雪ブルムザード』!」


 刃より吐き出された膨大な氷の華。広範囲に及ぶその一撃は、兜の少女を捉えることは叶わなかった。攻撃が当たらない――――否。まるでデタラメな方向に撃たされている。


「小細工を……!」


 漏れた白い吐息が冷気の風に乗って流れていく。

 息も上がってきた。いかに優れた魔力量を持つノエルといえども、大技の連発によって確実に消耗していた。徐々に蓄積していく疲労感を無視し、そのまま兜の少女へと刃を振るい続ける。


「…………」


「くっ……!」


 届かない。刃を幾度振るおうと、意にも介されない。虚ろな幻、実体のない霞のように揺らめき、手ごたえを得られない。


「…………」


 腹の底で煮え滾るマグマ。その迸りのまま剣を振るうノエルに対し、兜の少女は冷徹なほどに冷静だ。ノエルの攻撃をかわし続けながら、その隙を恐ろしいほど正確に、容赦も慈悲もなく突いていくる。


「それが……どうしたァ!」


 多少の傷など覚悟の上で強引に剣をねじ込む。が、またも兜の少女は霞のように消えてしまう。空を切る刃。空振りの感触。己が踊らされている人形のようにも思えてきた。


「…………」


「ちぃっ……!」


 瞬きの間に兜の少女が再び姿を現した。放たれる斬撃は鋭い。弾き飛ばせるタイミングはとうに過ぎており、ノエルは剣を防御に回さざるを得なかった。


「――――っ!?」


 咄嗟の感覚。己が才による直感に従い、身体を捩じる。次の瞬間、剣の防御をすり抜け、兜の少女の一撃がノエルの肩を掠めた。鮮血が噴き出し、頬を微かに濡らす。


(またか……!)


 傷としては大したものではない。だが、ノエルの身体には既に幾つもの傷が刻まれていた。

 どれもが浅く、出血量も僅か。されど蓄積すればそれは大きなダメージとなる。


 先刻から繰り返されてきたルーチン。

 ノエルの攻撃は一切届かず、兜の少女の攻撃はすり抜けてくる。

 恐らくは彼女の幻術によるものだが、今のノエルはその絡繰りを解くだけの冷静さを失っていた。


「はぁっ、はぁっ……! く、そぉ……!」


「…………」


 兜の少女が剣を掲げる。薄氷の嵐が舞い、周囲一帯に魔力が吹き荒れ――――。


「…………っ!?」


 次の瞬間には、ノエルの周りを取り囲むように、無数の刃が宙に展開されていた。

 先端の一つ一つ、その全てがノエルただ独りに向けられている。


「ちぃっ! 『華吹雪ブルムザード』!」


 咄嗟に繰り出した広範囲攻撃。氷の華が吹き荒れ、取り囲む刃を襲うが、


(手応えがない……!?)


 幾度と繰り返されてきた空振りの感触を味わった瞬間、再び己の勘に身を任せて身を捻る。わき腹を掠める刃。走る鋭い痛み。


「また……幻術、か…………!」


 あの刃の大半が幻術。本物は一握り。しかし今のノエルには、幻術を見極められるだけの余力も冷静さもない。それを『隙』と認識しているが如く、兜の少女はただ冷徹に幻術を織り交ぜた刃を雨のように降らしていく。


「がぁぁぁあああああああッ!」


 刃の吹雪が容赦なく襲い、ノエルの全身を切り刻んでいく。

 無意識の内に剣と魔法を駆使して致命傷は避けたものの、蓄積した傷と流した血の量が体から力を奪い、遂にノエルの身体は地に伏した。


「かはっ……ぁ…………」


 手に力が入らない。脚が言うことを聞いてはくれない。


(動け……なぜ……動かん……!)


 『霊装衣』は解除され、戦う力が失せている。


(いるんだぞ……目の前に……!)


 それでも。


(オレの最も大切なものを…………)


 戦うことを諦めきれない。


(リアトリスを…………奪った……仇が…………!)


     ☆


 何かに執着したことがなかった。


 物心ついた時から、胸の中には吹雪が渦巻いていた。

 真っ白で、冷たくて、何もない。ただ冷たいだけの白い闇が広がっていた。


 何かに打ち込んで熱くなったことも、何かに拘ったこともなく。

 誰しもが心の中に持つはずの熱とは無縁の日々を送っていた。

 それを悲しいとも思ったことはないし、そんな発想に至ることもなかった。


 熱なき心。氷の心。

 燃ゆることなく、熱することなく、燃ゆることなく、凍てついた心。

 それがイヴェルペ王国の第二王子――――ノエル・ノル・イヴェルペ。


 イヴェルペ王国は、かつて『夜の魔女』と戦った戦士の一人が興した北の雪国だ。

 厳しい寒さが常に国中を覆っており、国境には苛烈な吹雪が壁のように立ちはだかっている。途絶えることのない永久の極寒。美しくも鋭き凍てついた王国。


 ノエルは、そんなイヴェルペ王国の第二王子として生を受けた。

 水の適性は初代国王に匹敵するほどであり、幼くして将来を期待されていた。

 元よりイヴェルペ王国は厳しい環境下にあることに加え、他の国と同じように『ラグメント』の脅威も存在する。王族の持つ責務の重圧は計り知れない。


 期待と責務の大きさは、そのまま幼いノエルにぶつけられた。

 どの兵士よりも過酷な鍛錬と、どの貴族よりも厳しい教育。

 一切の甘えなど許されない毎日。普通の子供にはとうてい耐え切れぬ日々を、ノエルは泣き言を零すことなく過ごしてきた。


 正確には、それを過酷だとも、厳しいとも思っていなかったのだ。

 ただ周りから求められるものをあるがままに受け入れて、それを実行できてしまうだけの才能を持っていただけのこと。


 ――――何も感じていなかった。ただ、それだけの話。


 氷の心を持つ、人の形をしたカタマリ。

 それがノエルという子供だった。


「ごきげんよう、ノエル様」


 ノエルはその少女と出会ったのは、七歳の頃だった。

 光を吸い込んでしまいそうなほど真っ黒な髪と瞳。歳はノエルと同じ七歳程度か。

 屈託のない、太陽のように明るい表情と、猫のようにすらりとした身軽な体躯。それでいて内側に燃える炎のようなエネルギッシュさを漲らせているのが印象的だった。

 身に着けている上品なドレスがいっそ拘束具にすら思えるほどで、恐らく本来の彼女はドレスではなくもっと身軽な装いを好むのだろうと、ノエルは何となく感じ取った。


「お前は誰だ」


「もしかして、まだそちらにお話が行ってません? アナタの婚約者です」


 言われて思い出した。父親から婚約者をつけるという話を受けていた。

 特に興味もなく、ましてや相手に拘りも興味もない。王族としての義務が一つ果たせるのなら誰でも良かったので、すぐに忘れていた。


「その様子だと、あたしの名前もご存知ないようですね」


 名前すらも知られていない、知ろうとすらしていないノエルに怒ることなく、少女はニカッと笑うと優雅なカーテシーをしてみせた。


「それでは改めまして。この度、ノエル様の婚約者となりました、リアトリス・リリムベルと申します。以後、お見知りおきを」


 悪戯気味に微笑んで見せるリアトリス。


「リリムベル……イヴェルペ王国に代々仕えてきた彫金師の家系か」


「そ。アナタの御父上の『王衣指輪クロスリング』を作ったのは、あたしのお父さんだったりするのですよ」


 かつん、かつん、とリアトリスは一歩ずつノエルのもとへと歩み寄ってきた。

 王宮の廊下はしんと静まり返っており、差し込んでくる月の光に照らされ、彼女の姿が徐々に鮮明に照らされていく。


「……がっかりしました?」


「何のことだ」


「ほら。あたしって……こんなですし」


 リアトリスは指先で漆黒の髪を弄ぶ。

 黒い髪。黒い瞳。それは夜の魔女の爪痕が残る世界において不吉とされているものだ。


「いやー、どうかしてますよね。こんな忌み子を第二王子様の婚約者にするんですから。優秀過ぎるってのも考え物ですよね。アナタには同情しますよ。あはは」


「くだらん」


 彼女の物言いを、ノエルは一言で切り捨てる。


「それがどうした。『第六属性』は『ラグメント』に対抗できる貴重な力だ。貴様がオレの婚約者だというならば、せいぜいその力をこの国の為に役立てろ」


「……………………」


 ノエルの言葉に、リアトリスは目を丸くしていた。そのリアクションにすら興味はなく、ノエルは静かに背を向けて歩みを再開する。


「話は終わりか。今後はそんなくだらないことで呼び止めるな。時間の無駄だ」


 歩いている内に、徐々に婚約者を決められた時のことを思い出してきた。

 ノエルは確かに優秀だ。しかし、あくまでも肩書きは第二王子。王位継承権は兄に一歩譲る。そしてその第一王子はというと優秀ではあるが、ノエルほどの能力はない。


 ノエルを『千年に一人の天才』だとするならば、第一王子は『並の優等生』止まりといったところか。


 貴族たちの間では『ノエルを王にするべきだ』という意見も少なくない上に、第一王子派との小競り合いが起きていると聞いている。


 このままでは第一王子派と第二王子派で本格的な争いが起こることになると予見した国王は、ノエルの婚約者に不吉の象徴である『黒髪黒眼』の婚約者をつけ、第一王子と第二王子のバランスをとろうとしたのだ。


 つまりは政治。大人の都合で大人の事情。

 ノエルはそれに不満を感じたことはなく、元より王座にも興味はなかった。

 言われるがままに従い、義務を果たすだけの人形に過ぎないという自覚はあり、その在り方に不満も文句もない。


(…………どうでもいい)


 そんな事情も、婚約者のことも。何もかもがどうでもよく、興味がない。

 変わらない。過去むかし現在いま未来これからも。

 熱のない日々を過ごし、冷たい人形のまま生きていくだけなのだと。そう思っていた。


「ねぇ、ノエル様っ!」


 声をかけられて、歩みを止める。

 振り向けばリアトリスが駆け寄るや否や、彼女は躊躇いもなくノエルの手を掴んだ。

 その温もりに反射的に肩が跳ね、思わず慄いている間に、


「不束者ですが、これからよろしくお願いしますっ!」


 目の前でにこやかに笑う少女は、思わず目を逸らしたくなるほど真っすぐで、明るい太陽のようだった。


     ☆


 婚約者としての挨拶を済ませてから、リアトリスは頻繁にノエルのもとを訪れるようになった。


 ――――ねぇ、ノエル様。一緒にお散歩にでも行きませんか? 今日はオーロラがめっちゃくちゃ綺麗なんですよ!


 ――――ノエル様、昼食を作ってきました! けっこー自信あるんで、食べてみてください!


 ――――ノエル様ノエル様! 聞きました!? 侍女のジェシーが騎士団長と恋仲になったんですって! ロマンチック~!


 ――――見てください、ノエル様! これあたしが作った魔指輪リングなんですけど、パパに褒められちゃったんですよー! いえい!


 彼女との日々を言い表すなら、『喧しい』の一言だ。

 とにかく毎日訪れてはノエルにいつもの太陽のように明るい笑顔で話しかけ、あしらわれ、それでも性懲りもなくやってくる。


(こいつはなぜオレに構う)


 一切の無駄を削ぎ落して生きてきたノエルにとって、彼女の行動は理解が出来なかった。

 オーロラも、手作りの昼食も、誰かが恋仲になったことも、そして魔指輪リングを褒められたことも、ノエルにとっては何の関係もないことであり、婚約者という務めを果たすにあたって必要のないこと。


 何度考えても理解はできなかった。それも当然だ。これまでのノエルの人生において、彼女が日々運んでくるような『無駄』など、一切介入する余地がなかったのだから。


 しかしそれでも彼女は『無駄』を運んでくる。

 凝りもせずに毎日。雨の日も風の日も。この国では珍しくない雪の日にも。


「……いいだろう」


 それが少し、鬱陶しくなって。


「はぇ?」


「そのオーロラ見物とやらに付き合ってやる」


「えっ、ホントですか?」


「ただし見物を終えたら、もうオレに不必要に関わるな」


 ノエルはその『無駄』に付き合うことにした。

 一度付き合って、それで終わり。以降は無駄のない、必要最低限の婚約者となるために。


 毎日来る彼女があまりにも鬱陶しくて。だけど、そんな彼女を『鬱陶しい』と感じた自分にも、ノエルは内心では少し驚いていた。今までは『鬱陶しい』などという感情を抱いたこともなかったのに。


「わかりました! じゃあ、約束ですよっ! オーロラ見物っ!」


 そんなノエルの考えを知ってか知らずか、約束を取り付けた彼女の笑顔は、何よりも輝いていた。


 数日後。

 リアトリスに招待されたノエルが訪れたのは、王宮にあるだだっ広い庭の中心だ。


「あ、ノエル様! こっちですこっち!」


「…………なんだこれは」


 降り積もった雪の足跡をたどった先。リアトリスがぶんぶんと元気よく手を振り回して招こうとしているのは、いつの間にか作られていた氷のドームだ。縦の大きさはノエルやリアトリスよりも二回りほど大きい。大人が入るには窮屈なのだろうが、子供が入る分には十分だ。横幅の広さにはゆとりがあり、二人ぐらいなら入ることが出来る。


 このイヴェルペ王国の子供ならば誰もが作ったことのあるものだ。しかしこれは子供が作ったにしては頑丈で、恐らく水属性魔法と周囲の雪を組み合わせているということは見て取れた。


「オーロラ見物とやらをするんじゃなかったのか」


「ここが、そのオーロラ見物の特別会場です!」


 えっへん、と胸を張るリアトリス。対してノエルは怪訝な表情を浮かべることしか出来なかったが、そんな反応リアクションも想定済みなのだろう。リアトリスは手招きをしながら、氷のドームの中にノエルを誘う。


「まぁまぁ。ちょいと入ってみてくださいよ、旦那」


「…………」


 内心ではやはり時間の無駄だったか、と後悔のようなものが滲みだしたものの、それでも約束は約束だ。ノエルは無言で氷のドームの中に入っていく。


「ささ、ここで寝転んじゃってください」


 当のリアトリス本人は既に寝転がっており、自分の隣をぽんぽんと叩く。


「…………」


 ノエルはしぶしぶといったていで彼女の隣に仰向けになって寝転んだ。

 寝転んで初めて分かったが、この氷のドームは天井がくりぬかれていた。そのおかげで空が見えるようになっている。


「んー。まだ出ませんねぇ、オーロラ。いつもはこれぐらいの時間帯なら見えるはずなんですけど。……でもあともうちょっとで出てくる気がするんですよね。それまで軽くおしゃべりでもしませんか?」


「なぜだ」


「あたしたち婚約者じゃないですか。もうちょっと親睦を深めましょうよ」


「求められているのはオレたちが婚約者であるという事実だけだ。無駄な親睦を深める意味はない」


「そりゃあそうですけど。でも、周りがどう思うかは別じゃないですか。仮に不仲説が流れて、婚約破棄なんてことになったら、また王位継承がどうのとか面倒なことになりますよ? わざわざこーんな黒髪黒眼の曰く付きの小娘と婚約した労力も『無駄』になっちゃいますって。ノエル様だって嫌でしょ? そーいうの」


 その言い分は最もであり、ノエルは内心でリアトリスの評価をほんの少しばかり改めることにした。彼女はただ騒がしいだけの少女かと思っていたが、そうでもない。ノエルの拒絶を理屈を以てねじ伏せ、己の希望を通してきた。中々に強かなところがあり、だからこそ父親はこの少女を己の婚約者にしたのかもしれない。


「…………いいだろう」


「やったー。それじゃあ……お互いに一つずつ質問する感じにしません? なんかあたしだけが一歩的にお喋りすることになりそうですし」


 その可能性は否定できなかった。というより、ノエルは自分から話すつもりもなかったのは事実だ。彼女はそこをしっかりと見抜いてきた。


「質問事項なら紙にでもまとめて渡せばいいだろう」


「やぁですよそんな味気ない。お互いに言葉を交わして積み重ねた方が、絶対にいいですって」


「非効率だな。無駄が多い」


「その無駄がいいんですよ」


「無駄がいい……?」


 思わず聞き返してしまった。だが、リアトリスの言葉はそれほどノエルにとっては思いもしなかったこと、考えもしなかったことだった。


「雪と同じです。『無駄』はじゃんじゃん降らせて、積もらせちゃいばいいんですよ。そうすれば、自分の心の中に在るものを彩ってくれるんですから」


 木々や街に降り積もった雪が織りなす景色は、他国からは絶景として称賛されることも多い。それと同じだとでも言いたいのだろうか。


(やはり、理解は出来ん)


 しかし――――リアトリスの言葉が、ノエルの心に触れたことは確かだった。


「……フン。いいだろう。質問とやらを受けてやる」


「やったー! じゃあまずはあたしからですね。えーっと……ノエル様の好きな食べ物は?」


「……なんだ。そのくだらない質問は」


「婚約者の好みぐらい把握しておきたいじゃないですか。それに、知っておけば差し入れとか作ってあげられますし」


「必要ない」


「そんなこと言わないですくださいよぉ。それで、好きな食べ物は?」


「…………知らん」


「えっ、ないんですか!? 好きな食べ物が!?」


「味など気にしたこともない」


「そうなんですか? じゃあ、これから見つけることができますね」


 何の屈託もない笑顔でそんなことを言ってみせるリアトリス。

 言われてみればその通りで、だけどそんなことはノエルだけなら考えもしなかったことだった。


(…………変なやつだ)


 騒がしくて喧しくて。しかし、自分にはできない発想が出来る。

 そんなリアトリスに、ほんの少しではあるが興味を抱いていることを自覚させられた。


「次はノエル様の番ですよ」


「…………」


 いつもならここで拒絶するか、断っていただろう。だが今は不思議と、何かを訊いてみる気になった。


「……なら、お前は何が好きなんだ」


「あたし? 何がって……」


「食事の話だ。さっきの」


「ああ、なるほど。あたしはですねー、メロンが好きです! 王宮のパーティーで食べたのがもうすーっごく美味しくて! それからは大好物になりました!」


「そこまでは訊いてない」


 この後も、二人は氷のドームの中で仰向けになったまま、ぽつぽつと言葉を交わし続けた。

 リアトリスは必要以上に多くの言葉を贈り、ノエルは必要最低限の言葉を返す。

 まるで降りしきる雪のように、一つ一つは小さくとも交わした言葉は積もり積もって、二人の距離を縮めていく。


(…………こんなことは時間の『無駄』でしかない。そのはずだ。なのに、なぜオレは……)


 不思議と、己の中にこれまで感じたことのない未知の感覚だけが胸の中に生まれていることだけは――――これ以上ないほどにハッキリと理解していた。


 その未知の感覚は、最初は小さな蕾のようなものだ。

 小さく、儚く、弱々しく。ノエルの心に吹き荒ぶ白い闇に比べて、あまりにも脆弱なもの。けれど確かに、ソレは生まれていた。


(…………これほどまでに、心が穏やかになっている?)


 その疑問を自分の中で考えるよりも先に、


「あっ! 見てください、ノエル様!」


 リアトリスが指したのは、天井がくりぬかれた氷のドームの先に広がる光の帯。


「オーロラです!」


「――――……!」


 天に敷かれたその輝きは――――どこまでも眩い金色を放っていた。


「金色のオーロラ……?」


「えっへっへー。驚きました?」


 イヴェルペ王国においてオーロラというものはさほど珍しいものではない。

 だがこれほどまでに美しい金色のオーロラというものはノエルも目にしたことがなかった。


「タネ明かしをすると、実はこの氷のドームには、あたしが作った魔指輪リングが壁面に仕込んであるんです。そこから放出させた魔力の粒をフィルターにして、ここから見える光の波長を制御することで金色にしてるってわけです」


「なるほどな……だからわざわざここに招いたのか」


 その技術に関しては舌を巻くしかない。いくら彫金師の娘といっても、まだノエルとそう変わらない幼い年齢であることに変わりはないにも関わらず、ここまでのものを造り上げているのだから。


 何より。


「――――……」


 美しい。


 何も考えずただ美しいと、そう思った。


「それで、えーっと……どうですかね? や、金色だからなんだと言われれば、困るんですが……」


「……フン。オーロラが金色に見えたからなんだ。無駄な時間を使ってしまった」


「あはは。ですよねー」


「…………だが、悪くない」


「え?」


「無駄な時間も悪くない、と言っている。何故かは分からんがな」


 金色のオーロラなど何の意味をなさない。無駄なものでしかない。

 だが、そんな『無駄なもの』にノエルの心が奪われていることは紛れもない事実だった。


 何かを美しいと思える心など、自分の中に在るはずがないと思っていた。

 己は氷の人形でしかないと思っていた。


 しかし、この時――――目の前に降り注ぐ金色は太陽のようにノエルの心を照らし、心の中で際限なく吹き荒ぶ吹雪という名の白い闇を消し去ってくれたのだ。


「……今度はオレが質問する番だったな」


 ふと、思いついたのはさきほどまで行っていた互いへの質問だ。


「お前はなぜ、ここまでしてオレに関わろうとする」


 自分が婚約者として優れているわけではないという自覚はあった。

 愛を囁いたことがあるわけでもない。お世辞すらも述べたことがない。

 だから関わることを避けられることはあっても、ここまで関わってくることは理解出来ない。


「……くだらない、って言ってくれたから」


 少しの間をおいて返ってきた言葉は、いつもの明るい声ではなく。


「あたしが黒髪黒眼の『忌み子』だって知っても、ノエル様だけはそんなこと『くだらない』って言ってくれた」


「その程度のことでか」


「ノエル様にとっては『その程度』でも、あたしにとってはとても嬉しかったことなんです。だからあたしも、ノエル様に喜んでほしかった。でも……あはは。我ながらちょっとウザかったかも」


 黒髪黒眼はこの国において……否。夜の魔女の傷跡が残るこの世界にとっては不吉の象徴だ。しかしノエルにとってはどうでもいいことだった。喜ばれることをした覚えもない。必要以上に感謝されても困るだけだ。


 むしろ感謝をするのは――――


「……ちょっとじゃないな」


「えっ」


「かなり鬱陶しかった」


「うぐっ」


「もうあんな鬱陶しい思いはごめんだな。生活に支障が出る」


「よ、容赦ないですねぇ……」


「事実を言っただけだ。しかも、オレにとってはどうでもいいことで必要以上に感謝されるのも迷惑だ」


「…………はい」


 一呼吸おいて、口から白い息が漏れる。


「……これからは、普通に訪ねてこい。感謝だの、喜ばせたいだの、そういうものではなく――――婚約者としてな」


 この時のリアトリスがどんな表情をしていたのかは分からない。

 どこか気恥ずかしくて、照れくさくて。まともに顔を見ることが出来なかったから。


「……恐らくお前は……いや、君は、堅苦しいのは苦手だろう。普通に話しても構わない」


「いいんですか? いくら婚約者でも口調には気を付けた方がいいかと思ったんですけど」


「……それで気を付けているつもりか。かなり怪しいぞ」


「マジですか……って、こーいうのか」


「無理をするぐらいなら、君の普段通りでいい」


「ん。分かった。じゃあさ。これから君のことは……ノエルって呼んでもいいかな?」


「……好きにしろ」




 この日、氷の殻は破られた。


 そしてノエルという一人の王族が、一人の人間になった。






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