第40話 終わりは婚約者と
そこは暗闇。深淵よりも深く、遠く、冷たい奈落の底。
「ただいま戻りました」
ルシルは闇に向かって優雅にカーテシーを行うと、恭しい所作のままに、一つの指輪を献上した。
「王族より奪ってまいりました『王衣指輪』となります。お受け取りください――――お母様」
かつてはレオルの右手に装備されていた『王衣指輪』が、物言わぬ邪悪なオーラに包まれ、冷たき闇の中へと呑み込まれてゆく。
「ええ……承知しております。次は妹の方にも動いてもらおうかと。お姉さまやお兄様は私の言うことなんて、聞いてはくれないでしょうし。……ああ、大丈夫です。力は尽くしますよ」
レオルには見せたことのない、冷たい笑みを滲ませる。
陽だまりとは程遠い。むしろこれがルシルの本性を剥き出しにした顔でもあった。
「私たちは、家族ですから」
☆
御前試合から一週間が過ぎた。
早期に排除出来たためか、巨人の襲撃を受けた王都の被害は最小限に抑えられた。だが決して小さい被害ではない。街もそうだが、『王都が襲撃を受けた』というその事実が、何よりも大きな被害になっている。
騒動が落ち着いた後、『影』を総動員させて巨人を送り込んできた魔法陣を捜索・発見して術式を削除している。少なくともこれでまた『ラグメント』が召喚されるようなことは起こらないはずだ。
……が、その魔法陣を仕掛けたルシル本人の行方は未だ掴めていない。
捜索に回す余力がないというのもあるが、あの女は痕跡というものを徹底して残していなかった。元より『影』の身辺調査でも何も出てこなかった女だ。それぐらいのことはやってのけるだろう。アイツの目的が『王衣指輪』だったことぐらいしか手がかりがないのが現状だ。
残された問題はこれだけじゃない。
「…………レオ兄は、謹慎か」
「ああ……他の二人も、な」
向かい側に座る親父は、静かに頷く。
レオ兄、ドルド、フィルガの三人は、謹慎処分となった。しばらくは取り調べでルシルに関する情報を引き出したのちに一旦は僻地へと送られるらしい。三人ともルシルに騙された被害者ではあるが、責任がないわけではない。
「ひとまず謹慎にはするが……それだけで終わるわけにはいくまい。他にも何らかの処分は必要になるだろうな。今はこちらも慌ただしい上に、レオルは片腕を失ってしまった。全ては落ち着いてからになるだろう」
「……流石に『王衣指輪』を奪われた失態はデカいか」
魔法は指輪を通じて発動する。逆に言えば、指輪を装備できる指が必要になるということであり、片腕を失うということは単純に考えても力の半減を意味する。それに加えて『王衣指輪』を奪われてしまった。失態としては大きい。
「王都もこんな有様だ。留学に向かわせている他の兄妹を呼び戻す必要がある。それどころか、今度はこちら側に応援が必要かもしれん」
「同盟国から『第五属性』を持った王族の助っ人を頼むのか。……ま、妥当な判断じゃねーの」
「……………………此度の件は、私の罪でもある」
その絞り出すような声は、どこか疲れきっているように聞こえた。
「親父にしちゃあ珍しいな。そんな弱音を吐くなんざ」
「そうだな。お前たちに人としての弱みは見せてはこなかった。ただ背中を見せてやればいい。王として在り続けることで、示せるものがある。そう思っていたが……それが、レオルを追い詰めていたのかもしれん。今回の一件にしても、早い段階でレオルと話し合っていれば……」
椅子に身を沈める親父。そこにいつもの『国王』としての姿はなく、ただ一人の父親だけが居た。
「仕方がねーだろ。あの婚約破棄が決まって、俺とシャルが婚約者になった直後に大型『ラグメント』が出てきて、その対応に追われてたんだから……ま、それも思えばあのルシルとかいう女が仕組んだことなのかもしれねーが」
親父を王都から引き離して、その間に事を進めることが目的だったのかもしれない。
「……それも言い訳だな。元より今回の騒動を看過したのは、お前とレオルが互いに向き合うきっかけになるだろうという打算もあった。一番向き合うべきだったのは、私だというのに」
「言葉を交わさなきゃ分からないことだってある。そんな当たり前のことを、俺たちは忘れてたんだ。……家族だからって、何もかもが分かるわけじゃない。いや、家族だからこそ、もっと言葉を交わすべきだったんだ。俺にしても親父にしても、今回はそこをあいつに付け込まれたってことだろうな」
「どうやら私は王であるということにかまけ、家族であることを忘れていたようだ。まったく……父親失格だな」
「あ、それはちょっと思った」
「………………」
親父が何とも言えない苦々しい顔をしている。図星なだけに言い返せないのだろう。
「俺にしても、親父にしても、レオ兄にしても……みんなが自分の中に抱え込んで、間違えた。だったらそれを糧にして、次は間違えないように進めばいい。ようは、これからどうするかなんじゃないのか」
「………………」
親父はまたも黙り込んでいる。が、今度はさっきみたいな苦々しい顔ではない。物珍しそうな顔をしながら、俺の顔を見つめている。
「何だよ。気持ち悪いな」
「お前も変わったと思ってな。いや……変えられた、とでも言うべきか」
その時、俺の頭の中に浮かんだのは一人の女の子。親父にはきっと見透かされている。
「…………別に。変わったっていうより、変えられたんだろ」
「…………ふ。そうか」
苦々しい顔ばかり浮かべていた親父だが、ほんの少しの笑みを浮かべる。
一体何が気に入ったのかは知らないけど。
「なぁ、親父。やっぱ王様ってのは大変だよな」
「そうだな。人の身で背負うにはあまりにも重い役目だ」
街に現れた無数の『ラグメント』たち。蹂躙される王都。
少しでも遅れていたら、少しでも力が足りなかったら、それだけで消えていく命があった。元より俺のことを虐げていた他人のことなんざ知ったことじゃあない。そう思ってすらいたのに、あの時は怖くなった。
判断一つで命の行方が左右される。王ともなれば、そんな状況にはこれから何度もぶつかることだろう。
「それでもお前は、王となるか」
「なるさ。そう決めたからな」
「…………そうか」
秘めていた夢。かつては諦めていた夢を言葉にして、口に出して。
それを聞いた親父の顔は、どこか嬉しそうだった。
☆
「そんな話をした矢先に、どーして寝込んじゃうんですかねぇ」
「…………うるせぇな」
親父と話をした翌日。
呆れ顔のマキナに見守られながら、俺はベッドの上で大人しくじっとしているはめになってしまった。
「働き過ぎたツケが回ってきちゃった感じですかねー。まあ、復興作業とかでここ最近はバタバタしてましたから、仕方がないっちゃないですけど……よりにもよって、御前試合の交流パーティーがある今日に限って寝込んじゃいますか」
「俺だって好きで寝込んでるわけじゃねーよ」
学園の御前試合は終了後に交流パーティーが開かれるのが伝統だ。
新学期パーティーに交流パーティーと、こうも宴会が多いのは理由がある。
端的に言えば、学園に在籍している貴族階級の子供たちに対する配慮だ。
様々な家の子供が一ヶ所にまとまって集まる場所というのは、人脈作りを行う上で都合が良い。これほどクリーンで都合の良い場所は滅多にない。
学園で過ごした学生時代をきっかけにして繋がりを持った家というのは少なくない。学園側もそうした事情を汲み取って、理由をつけてはパーティーを開くことが多いのだ。
それを差し引いても、新学期という友人関係の地盤固めの時期に、生徒同士の交流の場を提供したいと言う意図もあるのだろうが。
「レオル様は入院中ですし、アル様は疲れから熱が出て寝込んじゃってますし。前代未聞じゃないですか? 御前試合に参加した生徒が二人とも欠席だなんて」
「さぞ思い出に残るパーティーになるだろうよ。元からパーティーとか、あんまり好きじゃないし。むしろサボれる良い口実が見つかって助かるぜ」
「何を呑気なこと言ってるんですか。おかげでシャル様が、アル様の代理で参加することになっちゃってるんですから」
「…………は?」
これ幸いにと寝ようとしたところに、マキナがポロっと聞き捨てならないことを言った気がする。
「どういうことだよそれ。シャルは欠席するんじゃなかったか。交流パーティーの会場って確か……」
シャルがレオ兄から婚約破棄を受けた時と同じ場所だ。
これもまた伝統だからと会場は変わることはなく、またシャル自身も自分の為に気を遣う必要はないと学園側に伝えているらしいけど。
ただ、あそこがシャルにとってあまり良い場所でもないことは間違いない。
俺が体調不良になってしまった以上は、無理に参加する必要もなくなった。だから欠席するように言っておいたのだが。
「学園側も、伝統ある御前試合の交流パーティーに主役不在は流石にまずいって思ったんでしょうねー。レオル様は片腕を失って絶対安静。アル様も体調不良。そこで白羽の矢が立ったのがシャル様ってわけでして」
「あの学園長の考えそうなことだな。……シャルはそれを受けたのか」
「ですね。アル様の評判も考えてのことだと思います」
「あのバカ…………無理しやがって」
ルシルが裏で糸を引いていたことが明らかになり、シャルの罪も晴れた。
しかし、学園内では未だにシャルは腫物のような扱いだと聞いている。当然、今夜のパーティーでもどんな目で見られるか分かったもんじゃない。
ただ独り遠巻きに見られて惨めな思いをするだけだ。
そうなることが分かって、あいつは参加しようと決めたのか。
「ホントは、シャル様から黙っているように言われてたんですけどね」
タオルを水につけて絞り、再び俺の額に乗せながら、マキナは困ったように笑う。
「……わたし、嫌みたいです」
マキナの手が、熱を帯びた頬に添えられた。
さっき水を絞ってくれたおかげだろうか。どこかひんやりとして気持ちいい。
「シャル様が傷つくところを見るのも、後でこのことを知って傷つくアル様を見るのも」
本当に、気の利いたメイドだな。俺には勿体ないぐらいだ。
「…………マキナ」
「分かってます。わたしも、そうなると分かっててお伝えしましたから。……我ながら酷いメイドですよ」
「珍しくしおれてるな」
「今日だけです。明日からはいつもの元気と笑顔が持ち味の健気なメイドに戻りますから。レアなマキナちゃんを味わってください」
「別にいいぞ。さっさと戻っても。……お前がそんなしけた面してると、余計に体調が悪くなりそうだからな」
健気で気の利く、頼れるメイドに対する罪悪感を抱えつつ。
「…………悪いが、ちょっと心配かけるぞ」
☆
この扉をくぐるのは、あの夜以来だ。
だけど、今夜はあの時とは違う。自身の置かれている状況も、周囲の眼も。
「――――――――」
歓談で賑わう広間にシャルロットが一歩踏み入っただけで、波が引いたように静まり返る。
ほんの一秒にも満たない僅かな刻。すぐにまた賑やかな波が戻るものの、皆の視線や話題はシャルロットに集中していることは分かった。
この場に居るのは学園の生徒のみ。中等部の頃から在籍し、当然のことながら交流パーティーにも何度も出席していた。勝手知ったるとまでは言わないが、慣れた場ではある。だがここは今のシャルロットにとって、間違いなくアウェーな場所になっていた。
すぐにパーティーは始まった。学園長からの簡単な挨拶が済んだ後は、奏でられる優雅で心地良い音色を背景にダンスを踊ることになっている。
最初は御前試合に出た生徒が躍るというのがこの学園の伝統なのだが、
「………………」
この場に居るのは、代理として参加したシャルロットのみ。
元はアルフレッドと踊る予定で、今日は直前まで欠席予定もであった。
急な参加でパートナーがいるわけでもなく、ましてや腫物のように扱われているシャルロットに堂々と声をかけてダンスを誘う生徒がいるわけもない。
それでも代理として参加している以上、壁際で棒立ちしているわけもいかない。
出来るだけ表情を表に出さないようにしながら、パートナーもいないまま、シャルロットはたった独りで視線の中心に歩みを進めた。
(………………………………あ)
会場の中心。生徒たちに囲まれ、ぽっかりと空いた穴のようなスペース。
たった独りで立つシャルロットの脳裏に、あの夜の出来事がフラッシュバックする。
誰にも信じてもらえず。味方も、救いも、何もない。
目の前が真っ暗になって、奈落の底に落ちていくような感覚がして。
「…………っ……」
徐々に身体が冷たくなっていく。
「…………どうしたんだ?」
「さあ……パートナーも不在だしな」
「お前、声かけてこいよ」
「嫌だよ。こんな状況で誰が行くか、恥ずかしい」
足が一歩も動かず、震えも止まらない。
「…………っ……ぁ……」
声を出そうとしても、上手く言葉が出ない。
「いつまで棒立ちしてる気なんだ……?」
「さっさと踊れよ……」
「パートナーがいないんだろ? 誰か声かけてやれって」
「だから無茶言うなって」
「こんな空気でさぁ、声かけるやつなんか居ないだろ」
ただ人垣の中心で震えることしか、出来ない。
(………………っ……!)
少しは強くなれたと思った。でもそれは、ただの勘違いだったのかもしれない。
心に深々と刻まれた傷に立ち向かうことだって出来ず、ただ俯くことしか出来ないのだから。
それがたまらなく、悔しい。
もはや周りの人間がどのような表情をしているのかも見えない。
見えるのはただの床。真っ暗な彼方。底冷える闇に滴るのは、頬から伝った雫が一つ――――。
「『烈風魔法球』!」
窓ガラス諸共に、場の空気をぶち破るけたたましい音が響き渡った。
会場にいた人々は皆がぎょっとしたように、窓ガラスを破壊して中に転がり込んできた、その乱入者に視線を向けた。
「いってぇ……着地ミスった……でもまあ、いいか。近道は成功したし」
伝統ある学園の会場。その窓ガラスを躊躇いもなく破るその姿は、あの夜を彷彿とさせて。
「…………おっ。よかった、間に合ったみたいだな」
散乱するガラスを素知らぬ顔で踏みながら、黒髪の少年はつかつかと歩み寄る。
自然と人垣は割れて、誰にも邪魔されることなく、中心に独り佇むシャルロットのもとまでたどり着いた。
「あ、アルくん? どうして……!?」
「どうしてもこうしてもないだろ。このパーティーの主役だぜ、一応」
「で、でも……熱は……」
「引いてるよ。ギリギリまで待ってたらこんな時間になっちまったけど」
すぐに嘘だと分かった。まだ少し顔が熱っぽいし、僅かだが額に汗もかいている。呼吸もいつもより乱れており、明らかに万全ではない。
パーティー会場に駆けつけるためとはいえ、それしきのことで息を乱すアルフレッドでもないこともよく分かっている。
熱が引くまで本当にギリギリまで待って……それでもダメだったけれど、急いで駆け付けてきてくれたのだろう。
シャルロットを助けるために。
「……で、シャルは何やってたんだ?」
「あ……ごめんなさい。アルくんの代わりに、何とかしようとしたんですけど……踊る相手も、見つけられなくて……それで……」
助けるつもりが助けられてしまった。
何もできずただ立ち尽くすことしか出来なかった自分が情けない。
「ふーん……まあ、よかったよ。安心した」
「えっ……?」
「最初の一曲を、他の男に渡すのも癪だしな」
何気ない感じを装いながら、アルフレッドは手を差し出した。
「…………踊ってくれるか。俺と」
照れくさそうにする彼はやっぱり、どこか素直じゃなくて。
シャルロットも、自然と笑みが零れた。
「はい。喜んで」
差し出された手に応え、二人は一つとなって音色に身を委ねる。
「悪いな。誘っといてなんだけど、踊りはあんまり自信ないんだ」
「大丈夫です。私がフォローしますから。ふふっ……」
「…………なんだよ」
「いえ。アルくんにも苦手なことがあるんですね」
「あるだろ。そりゃ。伊達に色んなことから目を逸らして、逃げ続けてきたわけじゃない」
「だったら、これからは練習しないとですね。踊りも勉強も、私が手伝いますから」
「そりゃあ有難いんだけど、かなりスパルタになりそうだなぁ……」
「大丈夫です。気合と根性があれば、たいていのことは何とかなりますよ」
「そ、そっか……そっかぁ…………」
どこか遠い目をするアルフレッドと言葉を交わしながら踊り続けている内に、気づく。
もう身体は冷たくない。足だって動くし、震えだって止まってる。言葉を交わすことだって出来ている。
胸の中を温かく包み込んでくれる、この感覚。この感情は。
――――確かに色々な事情があったのは理解してますけど、結構アッサリ決まったじゃないですか。それにシャル様って、レオル様の婚約者だった頃もアル様とお二人で楽しそうに話していることがありましたし。もしかすると前々から恋愛感情があったのかなーって。
不意に、脳裏を過ぎったのはマキナとの会話。
あの時は、「あまり考えたことはなかった」と答えた。それは紛れもない本心だった。物語の中の恋愛に憧れたことはあったけれど、自分のことになると現実味がなかった。
でも、今は?
(私とアルくんは婚約者……約束によって繋がる関係で、そこにそれ以上の意味はなく、それ以外のものは必要ないのでしょう)
シャルロットの場合は事情がやや特殊ではあるものの、貴族に政略結婚は珍しくない。
物語の中のような劇的な恋によって結ばれる方が珍しい。多くは家、ひいては国を回すための歯車となることが定めだ。
アルフレッドとシャルロットにしても同じこと。
事情があったものの、特別な力を持ったシャルロットを捕まえておくための楔に過ぎない。その役目さえ果たしてしまえば、そこに恋だの愛だのは必要ない。
(それでも……それでも、私は――――)
必要はなくても、自分の心が欲している。
ただの約束事によって繋がるだけの関係ではいたくないと、思ってしまった。
この感情を、シャルロットは確信する。
(――――この人に、恋をしている)
重なる手の温もりに鼓動が高鳴る。
頬が僅かに赤くなり、緊張して、それが嬉しくて。愛しくて。
「…………アルくん」
「ん?」
「私、頑張りますから。覚悟しててくださいね」
「お、おぉ……踊りの練習の話か? お手柔らかにな」
勘違いをしている婚約者の言葉に、自然と笑みが零れた。
そうして二人は踊る。一つとなって。
この愛おしい時間がいつまでも続けばいいと、願いながら――――。
これにて第一章、完結となります!
色々と力及ばずなところもありましたが、続く第二章も応援していただけると幸いです。
これからも「悪役王子の英雄譚」をよろしくお願いいたします!!




