第60話:鮮やかな世界
二口目を口にしたとき、
ティアナの心に、確かに何かが触れた。
見慣れた晩餐の間が、すこしずつ色を変えていく。
光が柔らかく、音が静かに、空気が優しく――まるで世界そのものが自分を包もうとしているようだった。
「……あれ……?」
ティアナは思わず視線をさまよわせる。
壁にかかった紋章。騎士たちの笑顔。ワインの揺らぎ。
それらが、まるで薄い靄を晴らしたかのように輪郭を増していく。
(私……こんなに、世界が鮮やかだったこと忘れてた)
息を呑む。
同時に、胸の奥で冷たい何かがひび割れた。
「ティアナ……」
隣で、同じ料理を口にしていたレイナもまた、目を細めていた。
彼女は今、かつての自分を見ているようだった。
「この感覚……また、戻ってくる……私自身が……!」
レイナの視界もまた、澄んでゆく。
まるで、ずっと縛られていた鎖が一本ずつ、音もなく解けていくように。
王城・西塔の私室――
薄明かりに照らされた部屋の中、フローラが静かに笑っていた。
ロイドはその隣に腰掛け、彼女の柔らかな髪に指を通す。
「お前とこうしていると、心が穏やかになる……不思議だよ、フローラ」
フローラは控えめに目を伏せ、微笑みを返した。
「お側にいられるだけで、私は……」
その声音は、穏やかで従順。まさにロイドが求めた理想の姿だった。
彼は満足げに微笑む。
ふ、と。
空気が揺れた。
ロイドの笑みが止まる。
部屋に漂っていたはずの安らぎが、わずかに軋むように濁った。
(……なんだ、今の感覚は)
胸の奥で、針のような違和感が突き刺さる。
まるで遠くで誰かが鎖を外したような、そんなざわめき。
「……ロイド?」
フローラが不安げに覗き込んだが、ロイドは答えず、ゆっくりと立ち上がる。
視線は窓の外。
夜風がそっとカーテンを揺らしていた。
「……これは、何かがおかしい」
支配下にある者の氣が、わずかに逸れていく感覚。
一度気づくと、それは確信へと変わっていく。
スキルの干渉を受けている者は、完全な思考の自由を失っている。
そのはずだった。それが揺らぐというのは、何者かがスキルに干渉したということ。
ロイドは胸中で、初めて焦りに似たものを覚える。
「……誰だ。俺の支配に……手を出したのは」
手にしたワイングラスが、音を立てて砕けた。
フローラが小さく息を呑む。
「どうしたのロイド?」
ロイドはその声にさえ応えず、ただ冷たい目で窓の外を見つめ続けた。
次の瞬間、召喚の鈴を鳴らし、控えていた騎士に命じる。
「直ちに調査を。晩餐会にいる者の名簿をすべて提出させろ」
その声音に宿るのは、王子としての余裕ではない。
支配者としての怒り。そして、ほんのわずかな恐れだった。
晩餐の間。
熱と香りが交錯する中、料理人としての役目を終えたレオンは、静かに部屋の隅から様子を見守っていた。
その目は、ティアナとレイナ。二人の変化を見逃していなかった。
ティアナが、料理を口にした瞬間。
ほんのわずかに、彼女の眉が震え、瞳が揺れた。
それは、他の誰にも気づけない、しかし明らかな揺らぎ。
(……効いたな)
レオンは深く息を吐いた。
ティアナの視線がさまよい、どこか困惑したような色を帯びる。
その横で、レイナもまた、じっと自分の内側と向き合っているようだった。
懐かしさと痛みとがないまぜになったような、強くも脆い表情。
(スキルの影響が――確実に薄れている)
ロイドの支配が感情と思考を覆うならば、レオンの料理は感覚と思い出を呼び起こす。かつての心の輪郭を思い出せば、そこに支配は入り込めない。
(けど、ここからが勝負だ)
レオンは軽く目を伏せ、視線を逸らす。
料理人としての立場を崩さぬよう、あくまで無垢な表情で。
だが内心は、静かな熱をたぎらせていた。
すでに、次の料理の仕込みは終えていた。
もう一皿。ロイドの支配の根幹に届く、本命の一皿をティアナとレイナに届ける。
(お前のスキル解除してやるよ。ロイド)
厨房の奥で、料理の余熱が静かに香る。
給仕の手によって、次の料理がティアナとレイナのもとへ運ばれてくる。
白銀の蓋が静かに持ち上げられ、ふわりと立ちのぼる香り。
それは、どこか懐かしい、けれど今まで味わったことのない温もりを帯びていた。
ティアナの指が、自然とスプーンへと伸びる。
「これは……?」
隣のレイナも、そっと覗き込んだ。
湯気の立つその皿には、季節の野菜と淡い出汁の香りが丁寧に重なり合った、温かなポタージュ。どこにでもありそうで、どこにもない一皿。
ティアナが一口、口に含む。
――その瞬間。
「……っ!」
息が詰まった。
一瞬、心の奥に閉じ込めていた何かが、強く震えた。
(この味……何か懐かしい。誰かが、私のことを思って作ってくれた)
忘れていた。
けれど、確かにその感情は存在していた。
「……あ……」
ティアナの瞳から、一粒の涙が零れる。
レイナも息を呑んだ。
その涙が何かを伝えるように、静かに、ゆっくりと。
(私は……私を取り戻してる……)
思考が冴えていく。
世界の色が、かつて見ていた本当の姿に戻っていく。
偽りと支配のヴェールが、ひとつひとつ、剥がれ落ちていくように。
「ティアナ……」
レイナが、そっとその手に触れる。
ティアナは、ふるふると首を振り、言葉を絞り出した。
「……わたし、間違ってた……ずっと……っ」
その声は震えていたが、確かな意志が宿っていた。
「……私もです。ティアナ……」
と、そのとき――
誰もが言葉を失う中、扉が乱暴に開け放たれた。
ロイド直属の騎士たちが、ざわめきと共に踏み込んでくる。
「失礼する。全員、その場で名を名乗れ」
場が凍りつく。
ティアナの目に、はっきりと恐れの色が浮かんだ。
(ロイド……気づいたか)
しかし、レオンの目は静かだった。
彼は、確信していた。
(ティアナとレイナに心が戻った)
その一歩は小さくとも、世界を変える一歩。
ここから、すべてが動き出す。




