第55話:レイナからの頼み
陽が傾き始めた頃、レオンは厨房の奥でひとつの食材を丁寧に下ごしらえしていた。
それは、レイナのために用意していた特別な一皿。
スキル解除のために練りに練った料理だった。
(次に来た時こそ、レイナのかかったスキルを解除してみせる……)
そう思っていた矢先だった。
カラン、と控えめに鳴る来客の鈴。
扉の向こうから入ってきたのは――レイナ、その人だった。
いつも通り無表情で、けれどどこか少しだけ柔らかくなった目元。
前よりも、ほんのわずかだけ彼女の中の何かが、揺れているのが分かる。
「いらっしゃいませ。今日は特別に用意していた料理が――」
そう声をかけようとしたレオンに、レイナはふいに告げた。
「今日は……食べには来ていない。お願いがあって来た」
「お願い?」
「今度、王都騎士団で慰労の晩餐が開かれる。功労者たちのための場だ。
その料理を……お前に、任せたい」
一瞬、空気が止まった。
「僕に……?」
「そうだ。料理長に推薦した。……理由は、腕を見ての判断だ。それ以上でも以下でもない」
無表情のまま、それでも確かに彼女は言った。
(――これは……)
レオンの心に、嫌な予感が差し込む。
「功労者の晩餐」――その席には、ロイドも出席する可能性がある。
あるいはこれは、レオンの力量や動きを試すための監視か、罠かもしれない。
だが、レオンはゆっくりと頷いた。
「……わかりました。引き受けましょう。最高の料理を皆さんにお届けします」
レイナは目を伏せるように、わずかに表情を曇らせた。
「……助かる」
静かに交差する視線の奥で、言葉にならない意図がわずかに絡み合った。
レオンは背を向け、再び包丁を手に取る。
これはチャンスか、罠か、それとも……まだ残された信頼か。
「ふ〜ん、王都騎士団の晩餐会? 随分と華やかな舞台に招かれたじゃない」
ひょいと、軽い声が頭の上から降ってきた。
「……ああ、来てたのか。リュミエル」
振り返ると、いつの間にか高棚の上に腰かけている妖精リュミエルが脚をぶらぶらと揺らしながらこちらを見下ろしていた。
「あの子がターゲットの一人なんでしょ?だったら好都合なんじゃない?」
「……だが、あまりに都合が良すぎる。正直、怪しいと思ってる」
「やっぱり?」
リュミエルはにんまりと笑った。
「そういう顔してた。これは罠かもしれないって、レオンの頭の中にぐるぐるって回ってたでしょ? わかるよー。私は人の顔、読むの得意だから」
「……お前、面白がってないか?」
「まあ、だから提案」
彼女はすっと身を起こし、宙に跳ねるようにして床へ降り立つ。
その動きはまるで重さがなく、風のように滑らかだった。
「私が、レイナの家と騎士団に潜入してあげる。罠かどうか、しっかり偵察してきてあげるよ」
「……そうか。リュミエルなら」
「ふふん、忘れてた?私は霊視適性がない人間には見えないから。
実体のある存在だけど、特定の感応力を持つ者以外には、存在にすら気づかれない。王都の騎士様たちなんか、まず無理」
「便利な体質だな」
「でしょ?偵察なら任せて!」
リュミエルはくるりと身を回し立つ。
「とにかく、晩餐会は好機にもなるけど、罠だったら最悪。
私が中にいれば、誰が何を仕込もうとも、すぐに察知できる。……悪くないでしょ?」
レオンはしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「頼む。……僕一人じゃ気づけないことも、あるかもしれない」
「ふふっ、了解~。じゃあ私は早速、騎士団に行ってみるよ」
そう言い残し、リュミエルは風のように姿を消した。
レオンは厨房に残された静けさの中、もう一度まな板に向き直る。
リュミエルが風のように姿を消し、厨房には再び静寂が戻っていた。
しかしレオンは、しばらくその場から動かなかった。
棚の上、ほんの少し前まで、彼女がいた場所を見上げる。
そこにもう姿はない。けれど、空気にはまだ、彼女の余韻がほんのりと残っていた。
「……本当に、いつも先を読んでるな」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
(魔獣の森で最初に声をかけてくれたのも、リュミエルだった)
(あの時も今も、俺は――助けられてばかりだ)
振り返れば、あの地での逃亡生活も、彼女のさりげない導きがあったから生き延びられた。どれほど心が折れかけた時でも、リュミエルは決して重たい言葉を投げつけたりはしなかった。
ただ、必要なときに、必要な支えをくれた。
「……戻ってきたら、あいつにしか作らない料理を出してやるか」
レオンは微かに笑みを浮かべながら、鍋の蓋を開ける。
「何がいいかな……甘いのが好きだし、それとも塩気の効いたもののほうが好みか。
でも、驚かせるような仕掛けは入れておかないと、あいつつまらなそうにするからな……」
つぶやきながら、彼はまな板に手を伸ばす。
これは依頼でも義務でもない。
恩返しでもない。ただ料理人としての、素直な感謝の形だ。
(お前の偵察が無事に終わって、またここに戻ってきた時。
俺は――お前のための特別な一皿で迎える)
レオンの手が再び動き始める。
彼にとって料理とは、戦いであり、祈りであり、そして感謝のかたちだった。




