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涸れ川に、流れる花  作者: 碧檎
後日談
31/39

(5)

 ミアー湖の湖畔に到着すると、そこからは船旅になる。オルバースからガレの港まで三日の日程だ。百人ほどが乗ることができるらしい大きな帆船を前にシェリアはため息をつく。

 馬車ではスピカとその侍女シュルマと菓子をつまみながら雑談を交わし和やかな時間を過ごした。シュルマの菓子作りの腕はなかなかのもので、シェリアは特に干しぶどうとくるみの入った焼き菓子が酷く気に入った。

 小さな皇子はシュルマが言うように若い女性が好きらしく、ここぞとばかりにシェリアにだっこを迫った。子供がさほど好きではないシェリアだが、慕われると邪険には出来ない。馬車を降りる頃には、柔らかい愛くるしい笑顔に笑みを誘われるくらいには打ち解けていた。


 船の出航前に皆で食事をとる。ついついヨルゴスの姿を追うシェリアの視線を、彼はいつも通りに柔らかく受け止めてくれる。その度にシェリアは胸が高鳴り、顔を赤らめた。だが、何かが物足りずモヤモヤとした気持ちを消化出来ずにいた。そんなシェリアを見てスピカが意味ありげに微笑む。


「そういうのって、すごく覚えがあるわ。あたしも昔はシリウスから目を離せなかったもの」

「スピカ様がおっしゃると変な感じがしますけど」


 シュルマが呆れた様子で突っ込んでいる。今だってそうだろうと言いたいのだろう。全くの同意だ。シェリアは頷く。


「あなたと一緒にしないで欲しいわ」


 毒づくがスピカは気にせずに惚気を続けた。


「あ、でもね。昔は目が合うと本気で息が止まりそうだったのよ」


 頬を染めるスピカを見て、シェリアは辟易するが、シュルマは納得するように頷いた。


「まぁ……殿下と目が合って卒倒する人間は未だにいますけどね」

「中身を知ればそんなことも無いんでしょうけどね」


 シェリアがふんと鼻で笑うと、


「ちょっと、シェリア。またそんな聞き捨てならないことを言うの?」


 スピカの目が一気に吊り上がる。だが本当のことを言ってなにが悪い。


「男の価値に外見は関係ないのよ」

「そんなこと言って、結局あなたが選んだのはあのヨルゴス殿下じゃない。あれだけきれいな殿方を捕まえておいて、説得力の無いことを言わないで」


 スピカが呆れたようにため息をつく。恋人を誉められて悪い気はしないが、ヨルゴスの良さは外見より中身の方が比重が大きい。要は何事も釣り合いである。


「シリウス殿下みたいな美しさは無駄って言ってるだけよ。夫のほうが美しいなんて、女として肩身が狭いったら無いじゃない」


 そう言うと、スピカは僅かに悲しそうに眉をひそめる。その辺は実は苦労しているのかもしれない。


「まぁ、そうね、あたしもそう思うけど」


 ふと見ると、いつの間にかシュルマが話題の主――皇太子に呼ばれていた。何か指示を受け取ったようで、「任せて下さい」と真剣な様子で頷いている。

 皇太子とシュルマがちらちらとこちらを見て笑うのを目ざとく見つけて、シェリアはムッとした。自分のことを陰で噂されるのは嫌いだった。

 戻って来たシュルマにシェリアは噛み付く。


「ちょっと何の話? 私に関係あること?」

「え、ええと、それはまた後ほど、船の中でゆっくりとお話しいたしますので」

「今言いなさいよ」

「いいえ。夜が来なければお話し出来ませんわ」


 けんか腰のシェリアにもシュルマは折れない。大抵は剣幕に圧されるというのに、さすがにスピカの侍女――手強い。結局船に乗り込み、夜が来るまで頑固な侍女は口を噤んだままだった。


 そうしてやって来た夜。それまで堅苦しい表情でシェリアを無視していた侍女は、生き生きと目を輝かせた教師に豹変した。


「これは、スピカ様のご婚礼の儀の前にもお話したことなのですけれど」


 という言葉から始まったシュルマの怪しげな“講義”が終わる頃、シェリアは頭に血を上らせて卒倒した。



 *



 額に触れたひやりとしたものに誘われてシェリアは微睡から引き起こされる。だが、瞼は相変わらず重く、頭は熱を持ったまま。


(ああ、冷たい……気持ちいい)


 どうやら氷枕がシェリアの額に乗せられたようだ。


「シュルマったら……もう少し表現は何とかならなかったの? 直接的すぎて、あたしも聞いてられなかった」

「ならないです」


 スピカの声だ。シェリアの枕元でシュルマに説教をしている。


「だって、はっきり言わないと誤解したままになってしまうもの。あなただって知ってて良かったでしょ? 知らないままあんなこと・・・・・されて平気だったって言うの」


 くだけた口調でシュルマはスピカに訴える。そういえば、シュルマとスピカはジョイア宮で侍女仲間だったと聞く。その時から仲が良いということは知っていたが、身分が変われど相変わらず友情は続いているようだった。


「た、確かにシュルマには感謝してるけど」

「でしょ、でしょ? あなただったら、殿下を張り倒してても、それどころか斬りつけてもおかしくないもの」

「…………」


 誇らしげなシュルマはスピカが口を噤むと、ふふふっと笑いをこぼして言った。


「文句を言うくらいなら、スピカが自分の経験談でも話してあげればいいのよ」

「な、ななな何言うのっ……!」

「興味あるなあ。ほら、例の講義のお礼に、こっそり教えてちょうだいよ。ねえ、殿下ってどうなの。お上手?」

「ぜ、絶対に教えないから!」


 半分眠った頭は呆れることも忘れてしまっている。それにスピカの惚気などどうでもいいくらい、シェリアの受けた衝撃は大きかった。


(ああ……胸どころじゃなかったんだわ)


 全容を知ってしまえば、胸くらいなんてことない気分だった。


(というか……ヨルゴスの顔見れないわよ、もう)


 大人しくエラセドで留守番をしておくべきだったかもしれない。シェリアは後悔に苛まれながら、再び浅い眠りについた。




 *



 ジョイア皇国の皇都シープシャンクスは水と森の都と諸外国から讃えられるに相応しい場所だった。

 切り出した石で見事に整えられた街道。その脇に植えられた木々は青々と輝いている。馬車の窓から流れ込むそよ風は水分を含み瑞々しく、胸の中が洗われるような香りがする。渇いた自国では深呼吸をすれば瞬く間に喉が干涸びるというのに、この国は一体どうだろう。逆に体中に水分が染み込んでいくようだった。

 街中の商店は交易でもたらされた富によって悉く活気づいている。店先には見たことも無い織物や貴金属に宝石類が惜しげも無く並んでいる。それだけではなく、食べ物もアウストラリスを始め周辺諸国から集められた名産品が揃っていた。

 アウストラリスでは比較的贅沢な暮らしをしてきているヨルゴスだが、この国の富を見る度に何十年かければこの国に追いつくのだろうかと焦燥を感じる。ルティリクスの貪欲さは十年という長い時間をこの国で過ごしたことに起因するに違いない。


 城下町を馬車で通り過ぎると、こんもりと木々の生い茂った麓で馬と輿に乗り換える。山頂にある宮殿に向かうためだ。

 乗り換えるときにも相変わらず銀髪の娘の姿は見えず、ヨルゴスの口からは思わず溜息が漏れた。


(見事に避けられているよなあ)


 彼がそう気づくのに時間はさほどかからなかった。

 船の食堂にも全く顔を出さなかったし、船から馬車に乗り換える時も時をずらされた。最後に顔を見てから既に三日が経過している。


「どうやらシェリアは妻以上に初心だったようですね」


 労るような声に顔を上げると、苦笑いを浮かべた皇太子が隣に並んでいる。女性陣は皆輿を使うが、彼はヨルゴスと同じく馬での移動だ。愛馬なのだろうか、美しいたてがみを持つ漆黒の駿馬を引いている。


「口だけは達者なのですけれどね。中身が全く追いついていない」


 やれやれと肩をすくめるが、皇太子は意味ありげに口角を上げた。


「そこが可愛らしい――と殿下はお思いなのでしょうね。なるほど」


 顔に出ていただろうか、ヨルゴスが目を丸くして口を噤むと、皇太子は笑みを深くした。


「ところで、宮殿に用意する部屋は二つでよろしいですか」

「まだ夫婦ではありませんし……元よりそのつもりですが」


 ヨルゴスの怪訝そうな顔に皇太子は眉尻を下げる。


「少し前、夫婦ではないからと部屋を分けたら、たいそう臍を曲げた男がいたものですから。念のためご確認させていただきました」

「……ああ、なるほど」


 お預けを食らった犬のようなルティリクスを思い浮かべて、吹き出したい気分になる。

 多少憂鬱の晴れたヨルゴスは、何気なくもう一度後ろの馬車を振り返る。

 そこではちょうどシェリアが馬車から降りようとしているところだった。

 久々に見た恋人の姿に思わず頬が緩みかけたが、それも途中で強ばった。

 一瞬見開かれた灰の瞳が、すぐに銀色の髪で隠されたのだ。


(いくらなんでも、……それはないんじゃないかな)


 あからさまなその態度にはさすがに傷つく。嫌われたなどとは思いたくないが、可能性を考えるだけで途方に暮れそうになる。

 だからと言ってヨルゴスもそこ・・はさすがに譲れない。きちんと結婚という手順を踏んだ後に、相思相愛の(はずの)相手に禁欲的ストイックになる必要は全く感じないからだ。


(キスだって、嫌がってはいなかった)


 最初は気持ち悪いなどと言われたが、それ以降は拒絶されなかったはず。歓んでいるなどと言えば顔を真っ赤にして怒るだろうが。

 要は徐々に慣らしていくしか無いのだろう。

 ――だが。


(僕の理性が持つかどうか。それが問題なんだ)


 シェリアを前にすると、まるで十代の少年に戻ったかのように気が急いてしまう。あの・・メイサを前にしても余裕があったというのに。

 今だって、例え裸の女が目の前にいても欲情しない自信があったが、そんな余裕は一体どこへ行ってしまったのだろうかと不思議でならない。

 口づけの最中の甘い吐息、そして淡く染まった頬に劣情を煽られ、拒絶された後の怯えた顔にも駆り立てられる。

 彼女はヨルゴスに狩るものとしての本能を思い出させるのだ。

 ふと喉に酷い渇きを感じて、はっとする。気が付けば、彼はシェリアの乗った輿を凝視していた。


(……ああ、まずいな)


 ここはジョイアで、隣にいるのは皇太子。油断してを出すわけにはいかないというのに。

 穏やかな王子の仮面を被り直すと、胸の中で煮えはじめた煩悩を密やかに息と共に吐き出した。


(とにかく、帰ってからじっくり考えるかな。むしろ今は避けてもらっていた方が、都合がいいか)


 今はしなくてはならないことは他にある。

 気持ちを切り替えると、ヨルゴスは皇太子に問うた。


皇帝陛下・・・・への対面はいつになりそうですか?」

「そちらが先でよろしいのですね?」


 すかさず返って来た皇太子の問いかけに、ヨルゴスは「はい」とにこやかに頷く。


「結婚の許しを乞うのに、あの場所は相応しくないと思いますからね」


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