(3)
翌朝、シェリアは腫れた瞼を押さえながら朝食の席にいた。
昨夜の衝撃でほとんど眠れなかったため、昼まででも寝ていたかった。だが、スピカたちがが帰る前にとメイサが朝食にシェリアを誘ってくれたので渋々起き出して来たのだ。
しかし、シェリアは早くも後悔し始めていた。
(やっぱり寝ていれば良かったわ)
朝食の席には昨日の晩餐の面子である、スピカと皇太子、メイサと王太子の夫妻が揃っていたが、ヨルゴスはその場にはいなかった。
がっかりするのと同じくらいにほっとしたものの、どちらの夫婦も仲睦まじく、どう考えてものけ者のシェリアは次第に不愉快になって来ていた。
スピカは皇太子と席を近づけている。昨夜の喧嘩で右手に傷を追ったらしい皇太子は、手に包帯を巻いている。
そんな彼の口にスピカは甲斐甲斐しく食べ物を運ぶ。
不自由な手を理由に妻に食べるのを手伝ってもらっているのだ。
その様子はまるで彼の二歳の息子と中身が入れ替わったかのよう。
(ねぇ、本当にその手は使えないの?)
シェリアが思わず疑っても仕方ないくらいに、皇太子の顔は緩んでいる。ちなみに口元の青あざは痛々しいものの、その美しさは健在だった。
メイサと王太子の夫妻も同様だ。王太子は口の中の傷が痛むらしく、飲み物だけにとどめようとしていたが、メイサが柔らかく煮た粥を作ってあげたらしい。手料理にありつけた王太子は先ほどから満足そうに粥をすすっている。こちらも顔が緩んでいてだらしない。
なんというか一人でいるのが居たたまれない雰囲気だった。
それを作り出した原因をシェリアは想像して、思い当たることがあった。
ヨルゴスが言っていたように、王太子も皇太子も絶対安静を無視した。つまり……キスの先の行為を二組とも行ったということなのではないか。
昨晩はそのことばかり考えてほとんど眠ることができなかった。
シェリアを眠らせなかったヨルゴスが行った行為が、再び頭の中で再生されはじめる。頬が火照り始め、シェリアが首を振って妄想を追い出そうとすると、ちょうど目の前で仲睦まじそうに談笑しているスピカと皇太子が目に入った。シェリアは思わず昨日のヨルゴスの行為をスピカと皇太子に置き換えていた。
(スピカの胸に皇太子の手が?)
スピカの胸元に目がいく。ドレスの襟刳から僅かに覗くのは、大きくはないが白く柔らかそうな胸。皇太子のしなやかで長い指と交互に見つめる。
ふいにスピカがこちらを見て、つられたように皇太子もこちらを見る。ニコニコと幸せそうに笑いかけられて、ぎょっとして目を逸らすと、今度はメイサと王太子が同時に視界に入る。
とたん今度はメイサと王太子に置き換えてしまう。
メイサの体は衣装合わせの時に見てしまったので(さすがに全裸ではないが、それに近い恰好ではあった)、妙に生々しく像が現れ……そのあまりの色香に頭が煮立った。
(メイサのあの胸に王太子の手が?)
王太子の大きな手にも余りそうな胸だった。無骨な長い指の間から溢れる様までが想像出来て、目眩がした。経験の浅いシェリアには刺激が強過ぎる。しかし一度描いた像が強烈過ぎて、逆に目が離せない。
(スピカとメイサがこれだけ幸せそうなのって、“あれ”を乗り越えて来たからなのかしら……)
思わず息を詰めてじっと見つめていると、視線に気づいたメイサが怪訝そうにシェリアに尋ねた。
「どうかした? 顔が赤いけれど」
指摘されてシェリアは噴火しそうになる。
「な、なんでもないわよ。ところで――ええとヨルゴス殿下は?」
慌てて話をそらすと、メイサは不思議そうに首を傾げた。
「え――、もしかして聞いていないの? ヨルゴス殿下がジョイアに行かれるってこと」
「え?」
「あら……。噂を聞いていたからてっきり……」
「噂?」
シェリアが初耳だと目を丸くすると、メイサは「いえ、なんでもないの」と気まずそうに頬を染めた。
「殿下が、ジョイアへ?」
問い直すと、メイサは渋々のように頷いた。
「ええ……殿下、内緒にしていらしたのかしら。悪いことをしたわ」
「いっそ連れて行けば良いのに。静かになるし、お前も解放されるしいいことだらけだ」
王太子は文句を言い、とたん頬の痛みからか顔をしかめた。
「婚前旅行はまずいっておっしゃってたわよ。誰かさんと違って真面目な方なんだから、余計なこと言わなくていいの」
「真面目? あれはやせ我慢だと言うんだ。人生は短い。楽しめるうちに楽しまないのは馬鹿だ。俺は助言をしてやってるだけだ」
王太子の言い草にむかっ腹のたったシェリアは、
「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ」
と低く呟く。直後部屋の空気が凍った。気が済んだシェリアは、ふぅと大きく息を吐くと、固まった面々に向かってにっこりと笑う。
「――というお言葉を王太子殿下がご存知かは知りませんが、人は人、でよろしいんではないでしょうか? ――とにかく、どういうことか説明して下さいますわよね?」
ぴしりと言うと、王太子がうんざりとため息をつき、メイサがくすりと笑った。
「そのとおりよね。……シェリア、ごめんなさいね。この人、ヨルゴス殿下のことが心配なだけなのよ」
「おい、余計なことを言うな」
王太子がぎょっとして叱るが、メイサは例によって構わない。
そしてニコニコと嬉しそうに説明を始める。
「昨日の話を覚えていないかしら? アウストラリスの婚礼の手順について。男性側から女性の家に申し込みがあるって言っていたでしょう? つまり、殿下はまずあなたのご両親にご挨拶に行かれるつもりなのよ」
「殿下がご挨拶って――って、ケーンに?」
それ以外には答えは無いのだけれど、シェリアは呆然と問い返していた。
ただし現在故郷のケーンにいるのは母アレクシアのみ。父のダモンは……――そう考えたとたん、胸が重くなる。
顔色を変えたシェリアに気遣うように口を挟んだのは皇太子だった。
「殿下のご希望もあって、皇都へご同行していただくことになったんだ」
「え?」
聞き間違えたかと思ったが、皇太子は頷いた。
「つまり君のお父上に会いに行かれるんだよ」
「父に? でも父は――」
娘のシェリアでさえ、正式な手続きを得て面会という形でしか会うことができない。それはヨルゴスも同じはずだ。
「牢にわざわざ殿下が行かれるの? 挨拶のために? そんなの、申し訳ないわ」
それに――惨めで、恥ずかしい。
思わず上ずった声が飛び出し、頬が屈辱で染まるのを感じてシェリアは俯いた。
「――いっそ居ない者として、そんな手順は省略してくださればよろしいのに」
口に出す冷ややかな言葉とは裏腹に、心の中には幼いシェリアを優しくあやしてくれた父の面影が蘇る。
(父様)
父は外の光もまともに拝めない場所にいる。きっとシェリアの花嫁姿など見ることは出来ないだろう。
考えたとたんに、思いのほか胸が痛んだ。そんなこと、もう覚悟できていると思っていた。驚きながら胸元の服を握りしめる。
「シェリア」
皇太子はそんなシェリアに向かって柔らかい――例の腹の読めない――微笑みを浮かべる。だが頬の傷が痛んだらしく、すぐに顔をしかめた。
「同行を告げられたときにはっきりとおっしゃらなかったけれど、殿下が何をされようとしているか僕には予想は出来るよ」
隣でスピカも頷き、反対側の席に座っていたメイサも王太子も同様に頷いた。
(何? どういうこと?)
自分だけ理解が進まず、仲間はずれにされているような気分になって、シェリアは眉をひそめた。
「どういうことでしょうか?」
皇太子は曖昧な笑みを浮かべる。
「知っての通り、僕もスピカも母を早くに亡くしている。メイサもルティもそうだ。結婚式に両親が不在っていうのはやっぱり寂しいことだと思わないかな? ――ましてや生きているのならね。不在の理由を口騒がしく追求する者も出て来るだろうし」
改めて口に出されると、胸が一気に鬱屈とした気分に染まる。
(私は罪人の娘だもの)
ともすれば忘れそうになるが、それは消しようも無い事実。いくら隠しても結婚の際には明るみに出るだろう。父がその場に居ない理由を人々はきっと囁き合う。そのとき、シェリアだけでなく、ヨルゴスが笑われたりしないか。要らぬ傷を付けられたりしないか。それだけがシェリアは気がかりだった。
沈み込むシェリアの前では、皇太子がスピカを見つめ、視線に気が付いた彼女が彼を見つめ返していた。
「僕だったら、そんなことで好きな子を悲しませたくないと考えると思う」
甘く見つめられて瞬く間にスピカが頬を染める。部屋には溜息が三つこぼれ、
「…………さようですか」
年中行事に思わず冷えた声が出る。いっそ『だから、何?』と言ってやりたい――俯いて拳を握りしめるシェリアに、皇太子は緩んだ顔をもとの真面目な顔に戻して続けた。
「何より、君がこの国に嫁いだら、ケーンのパイオン家はどうなるんだい? 母君だけでこれから始める政を切り盛り出来るって言うのかな。未だかつてない大きな事業だ。僕にはとてもそう思えないけど」
最後にまだ分からない?とでも言うように、皇太子がにっと笑った。
「――――!」
シェリアは皇太子が言おうとしていることにようやく気が付いてはっとした。
顔を上げたとたん、皆がシェリアをじっと見つめていることに気が付いた。
スピカが微笑む。メイサも微笑む。
目を見開くシェリアに向かって、王太子もにやりと笑い、そして言った。
「むしろヨルゴスは、牢での面会などする気はさらさらないだろう。そのために政略結婚をお膳立てしてやったんだ。有効活用してもらわないとな」
「…………!」
思わず声を詰まらせるシェリアの前で、皇太子がやや不安そうに顔を曇らせる。
「問題は、父上がものすごく怒ってることなんだ。気持ちは分かるし」
「お前が説得するしかないだろう」
「やっぱり?」
「なんとかしろ。突き詰めれば単なる窃盗。しかも未遂。軽犯罪だ。溺愛する息子の願いなら叶えてくれるだろう? 何より人を煙に巻くのはお前の得意分野だ。簡単だろう」
皇族の墓荒らしをそんな風にあっさり言ってのける王太子に、皇太子は嫌な顔をする。
「簡単って――君、もしメイサの墓を暴かれたら墓荒らしを捕らえるどころか、その一族を滅ぼすだろ」
嫌なたとえをする皇太子に、案の定、王太子の顔が一気に殺気立つ。
「そういう不吉なことを言うお前をまず滅ぼしてやる」
「あ、それが人にものを頼む態度?」
睨み据える王太子にも皇太子は動じない。喧嘩で互角に戦ったおかげなのかしらないが、確実に態度が大きくなっている。
「やるか?」
「受けて立つよ」
がたっと椅子を引く音がして、二人が立ち上がる。
しかし、
「――ったぁ!」「っつ」
二人の男がうめき声を上げたのは同時だった。
皇太子の横でスピカが目の据わった怖い顔をして、彼の青あざ付近をつねっている。彼女は怖い顔を一瞬止めるとシェリアに向かって詫びる。
「話が逸れてしまって、ごめんなさい」
反対側を見ると、王太子の隣で、メイサが彼の耳を引っ張ってニコニコと笑っている。
「ほんと、兄弟仲が良過ぎて困っちゃうわね」
メイサが呆れたようにそう言うと、
「「どこが!」」
二人の男が同時に叫び、同時に傷の痛みに呻いた。
二つの夫婦の権力事情があまりによく分かって、シェリアは小さく溜息をつく。
(どちらも手綱を握っているのは妻の方ね)
馬鹿馬鹿しい展開に、のど元まで込み上げていた熱いものはいつの間にか元の位置に戻ってしまっていて、目の端を滲ませていたなにかももう渇いてしまっていた。
(ああ、でも――助かった)
人前で涙など見せたくなかった。そして、彼らだってシェリアの涙など見てもどうすることも出来ないだろう。
ほっと胸を撫で下ろしたと同時に、皆が一斉に安心したような顔をして、部屋に張りつめていた緊張感のようなものが解ける。
それを感じ取ったシェリアは突然悟った。
――今の喧嘩は、シェリアを泣かせないための茶番劇なのかもしれない、と。
(なんだ。この男たち――ろくでなしに見えるけれど、案外そうでもないんだわ)
男二人に対する心証を良くするシェリアに、スピカが問うた。
「それで、あなたはどうするの?」
「どうするって――」
突如振られた質問の意図が分からず目を泳がせると、メイサが代わりに具体的に問い直した。
「殿下が帰られるまで、ここにいるの? それとも殿下についてジョイアへ行くの?」
考えもしなかった案を出されて、シェリアは目を見開いた。
「もしあなたさえ構わなければ、一緒に帰っても構わないと思うわ。ね、シリウス?」
スピカの提案に皇太子が目を剥き、王太子が「それはいい案だ」と嬉しそうにした。あからさまに厄介ごとを押し付け合っている。
(さっきのは取り消し。こいつら、殿下の足下にも及ばないわ!)
心の中で罵りつつ、シェリアはすぐに自身のこれからの身の振り方を決めた。
彼がシェリアのために行動してくれる、そんな時に自分だけぼうっとしているのは嫌だった。故郷にも帰りたいし、――何よりもジョイアまでの旅ならば最短でも十日。その間、彼の顔が見れないのが辛い。
「私、一度帰らせていただきますわ。ジョイアへ。皇太子殿下、妃殿下。道中どうぞよろしくお願いいたしますわね?」




