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涸れ川に、流れる花  作者: 碧檎
本編
23/39

(2)

 道がひどいせいか馬車はすこぶる揺れた。いくらシェリアが気丈だとしても車酔いには勝てず、つい弱音を吐きかけた。だが、変に介抱されてしまうと危険かもしれないという思いが邪魔をしているうちに、弱音の代わりに胃の中の物を吐き出した。汚物で馬車を汚したが、どちらがましだったかはもう考える余裕はない。

 胃が空になり、少し気分が良くなったとたん眠気がやって来た。揺れに従ってうつらうつらとしていると「婆さん、着いたぜ」と声がかかり、シェリアは慌てて目を開けた。どうやらカルダーノに着いたらしい。

 男が荷台の惨状を見てぎゃっと声をあげた。


「もしかして吐いたのか。商品が汚れちまったんじゃねぇか? 洗う水なんかねえんだが」


 男は迷惑そうに顔をしかめ、顔を覗き込もうとする。シェリアは口を抑えて俯いた。


「だ、いじょうぶだよ。ちょっと酔っただけだし、髪には付いてない。掃除代も払うから勘弁しておくれ」


 男はシェリアの言葉にやれやれと溜息をつく。


「じゃあ、さっさと行くか。すぐそこだ。髪を頂かないと掃除代まで出るかわからねえだろ。まだ店は閉めてるだろうが、開けてもらおうかな」


 思わず眉を寄せる。この男が急ぐ理由に思い当たらなかったのだ。


「あんた急いでるのかい」

「まあな。夜明けまでにつく予定だったのに、もう夜が明けちまったからよ。早く商品を届けて親方の機嫌を取らねえと」


 商品など載っていただろうか? 嫌な予感がした。もしかして、騙されているのではないか――一瞬そんな気になったが「この間もよー」と愚痴を言い出すのんびりした様子に考え過ぎかと思い直す。道中は馭者台で賭け事の愚痴ばかり言っていた。賭けに負けて老人からも金を無心するろくでなしで、間も抜けている小者というのがこの男に対するシェリアの見立てだった。心の中で暴言を並べつつも、感謝はしているが。


「ところであんたの仕事はなんなんだい」


 シェリアは一応確認した。人は見かけだけではわからない。穏やかな顔をしていても腹の中に熱を溜め込んでいる。それはヨルゴスにしっかりと学ばさせられたから。

 男はシェリアの問いに首を傾げたあと、ちっちっと人差し指を顔の前で振る。


「言えねえんだ。言っちまうとクビになっちまうからな。ま、婆さんには関係ない話さ」


 怪しいと思うものの、あまり突っ込んでこちらに話を振られても困る。


「そうかい」


 シェリアがさっさと引き下がると、男は再び馬車を動かし始めた。


(とにかく、時間もないしさっさととんずらしないとね)


 速やかに決別するべく、男の隙を窺うことにした。

 ふいにシェリアは布の中の髪を指にからめた。細く滑らかな自慢の髪だ。生まれてから一度切り揃えただけの、人生を供にして来た髪だった。

 馬車に乗り込んだ時には惜しくなかったが、やはり時間が経つに連れて覚悟が鈍って来た。髪を切るということは、つまり、ジョイアの女としては価値を失うということだ。

 シェリアの結婚相手に名があがっていたジョイアの金貸しでも、彼女が髪を切れば縁談を破談にする。破談自体は喜ばしいことだが、ジョイアの男との縁談はまずもう諦めないとならないだろう。万が一皇太子がスピカに飽きたり、どこからかあぶれた貴族の子息が回って来たりしても、後の祭りだ。

 アウストラリスでも事情は変わらない。シェリアの顔は醜くはないが、体は貧相だし、誰も彼も魅了するメイサほどの輝きがあるとは思えない。両親は罪人で、家に金がないどころか借金まである。

 髪を切れば、悪条件に加え、シェリア自身の価値までも暴落する。ただでさえ歳もとっている上、性格が……自分で言うのもなんだが、すこぶる悪いのだ。結婚自体諦めざるを得ないだろう。

 一応婚約中の身だが、ヨルゴスも彼女が唯一の美点を失えば婚約破棄を言い出しかねない。かといって縋るのは死んでも嫌だった。きっと縋れば彼は頷くだろう。だが、同情されるのは――同情なんかで結婚するなんてまっぴらだった。


(愛のない結婚をするくらいならば、一生独りでいるわ)


 考えた直後、自分でも違和感を感じて首を傾げた。その"愛のない結婚"を求めていたのはどこの誰だっただろう、と。考えるのを一度止め、思考を巻き戻す。


(あれ?)


 皇太子、王太子と政略結婚・・・・に乗り気だった自分が、今になってどうして愛のない結婚が嫌だなどと思っているのかが謎だった。

 しかも、ジョイアの成金との結婚よりも、今ヨルゴスと結婚する方が辛いような気がしている。身分も地位も金もある、眉目麗しい男との結婚。昔の自分だったら食らいついて離さないはずの良物件だというのに。


(でも……だって、彼は私のことを利用しているだけだもの)


 彼との結婚生活に愛など望めない。そんな冷ややかな結婚は嫌だとシェリアは沸き起こるやるせなさで胸を抉られる気がした。けれど……――じゃあ、もしも愛があれば?

 ふいにメイサの声が耳に蘇った。


『殿下の方は、あなたのことをお好きでしょう?』


 とたん、シェリアは「ひゃっ」と裏返った声をあげていた。


「どうかしたか?」


 男が振り返って尋ね、シェリアはぶんぶんと首を横に振って否定する。


「な、んでもないよ」


 辛うじて口調は保ったものの、辿り着いた結論に赤くなった顔を隠す余裕はなかった。頭の中に広がってしまった甘い未来を消す方が先だった。


 ――『シェリア、少し休もうか』


 甲斐甲斐しく実験を手伝うシェリアに、優しい声と共に彼の手が伸びる。振り返ると穏やかな笑顔に魅了される。屈託なく微笑み返すシェリアは優しく抱きしめられ――そして彼女の唇に口づけが降る。

 妄想を消すどころか感触までが蘇りかけて、きゃあと若い娘が出すような声で――シェリアはまぎれも無く若い娘なのだが、これまでにそんな声を出したことはない――叫び出したい気分で抱え込んだ膝に顔を埋めた。

 ヨルゴスとの愛のある・・・・結婚生活をシェリアは望んでいる。だからこそ、突然の婚約話に舞い上がった分だけ、破棄という言葉に地の底に落ちるほど傷ついた。つまり――これは恋だ。シェリアは彼が好きなのだ。認めざるを得なかった。

 馭者台で男が機嫌良く口笛を吹いている。馬車の振動はまるで陽気な音楽に合わせているかのように思えた。地平線から顔を出した朝日がカルダーノを照らす。赤光はシェリアの赤い頬をさらに赤く染上げていた。



 *



 カルダーノに入っても、ヨルゴスはシェリアの姿を見つけることはできなかった。

 街の入り口には宿屋や酒屋、武具店などの商店がまばらに並ぶ。早朝なので人影も少ない。そんな中、朝日に髪を赤く染めたひと際目立つ男が、小さな店の壁に大きな体を凭れさせていてヨルゴスは目を丸くする。彼はヨルゴスに気が付くと体を起こして歩み寄った。


「遅かったな」

「ルティリクス、どうしてこんなところにいる? てっきりもう踏み込んでいるのかと思っていた」


 彼の立場ならばそうすべきだったので、ヨルゴスは純粋に驚いていた。もう自分が犯人と共倒れするのはわかっていたのだ。


「先に行け。そして衣装を見つけて都合のいい場所に置いて、俺に教えろ。盗賊の仕業にするなりなんなり、お前がどうするか選べばいい。ただし、お前は巻き込まれるな」


 どういうことだとヨルゴスが目を見開くと、


「俺は衣装さえ戻ればそれでいい。母上はこの際害虫駆除を狙っているんだろうが、俺としては、お前にはまつりごとを支えてもらいたい。――ただでさえ全然手が足りないのに、使えない王子ばかり残されても困る」

「まるで、すぐにでも即位するつもりでいるみたいだな」


 力なく揶揄すると、ルティリクスは真面目な顔で頷いた。


「父上はもう国を背負うだけの力がない。俺は母上を休ませてやりたい」


 表面上は冷めて見えても芯は熱い。自分とは大違いだとヨルゴスは彼らの絆を眩しく思う。


「親孝行だな。正直に言うと、僕はお前たち親子が羨ましいよ」


 愚痴のように響いた言葉にルティリクスは眉を上げる。


「羨ましい? の母親が元気で生きているっていうのにか?」


(――あ)


 ルティリクスの実の母親は十年も前に他界している。あまりに仲の良い親子だからつい忘れかけてしまうが、シャウラ王妃とルティリクスが血が繋がっていないことを思い出し、失言だったと思わず口に手を当てる。と、ルティリクスがにやりと笑う。


「お前は母親に凄まじく愛されてると思う。あれは子離れができてないだけだろう。まぁ、はた迷惑なのは分かるが……うちのも過激なのは同じだからな」


 ルティリクスの目が『今からでも遅くないんじゃないか』と言っていた。険悪と言って良かった母子おやこ関係を改善した彼なりの助言アドバイスなのだろう。人の家に干渉しなかった従弟にしては珍しい言葉だ。素直に喜び頷きたかったが、ヨルゴスは首を横に振った。


「……すまない。気持ちは嬉しいが、今は行けない」

「どうした? このままだと王子の身分を捨てることになるぞ」


 ルティリクスが顔を曇らせるが、やはりヨルゴスは頷けない。


「シェリアが王宮から消えたんだ。老婆に化けてカルダーノに向かったと思われるが、道中見つからなかった。――さらわれてるかもしれない。とても放っておけない」


 心強い味方に、ヨルゴスは身の内に渦巻く不安を吐露した。彼はヨルゴスの心中を察したのか深刻そうに眉を寄せる。


「老婆? …………もしかして、あれか」

「心当たりがあるのか」

「途中一人で歩いている老婆を抜かしたような気がする。気にはなったが、急いでいたから放置した。――すまない」


 いや、とヨルゴスは首を振る。彼がメイサを優先するのは当たり前のことだった。今、ヨルゴスの最優先がシェリアなのと同じ。


「じゃあ、こちらに向かっているのは間違いないのか」

「どこに向かうにしろカルダーノは経由するだろうし。もう着いている可能性は高いな」


 二人がおのおのぐるりと街並を眺めると、街はすでに活気づき始めていた。




 ルティリクスと一旦別れ、ヨルゴスは町中を彷徨った。砂よけのマントが翻り、裏地が朝日に照らされる。禁色である赤は道行く者に彼の正体を知らしめる。

 マントの色に気づかずとも彼の容貌を知らない者は少なく、皆が皆遠慮がちに道をあけた。

 カルダーノの中央に走る一本の大きな道から木の枝の様に細い裏道が走っている。覗き込みながら彼は周りの目も気にせずに、進みつづけた。

 ふと彼の視界に飛び込む色があった。


(あれは――あの銀髪は!)


 ヨルゴスは思わず駆け出したが、すぐに見間違いだと気が付く。色は同じに見えたが、長さが短かった。しかも連れの男が親しげに肩を抱いていた。

 風貌も違ったが、もし彼女ならばまずあんな風に大人しくしているわけがない。気位の高さを考えると助けは求めないだろうが、騒ぎの一つくらい起こして人目を引いているはずだった。


「違う、か」


 がっかりしつつもすぐに気持ちを切り替える。落ち込んでいる時間も惜しく、ヨルゴスは大通りへと身を翻した。


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