第8話「理想の関係とは、仲が良いことではなく、うまく喧嘩が出来る関係のことである」②
「あっはっはっはっはぁ! 殴った、殴った!」
僕が倒れ込んでいるすぐ下で、同じく寝転がった天音さんが大いに笑った。僕はボコボコの顔面でその不愉快な笑い声を聞いていた。
――5秒と持たなかった。
手を挙げるのを躊躇したのもあるけど、天音さんは僕のパンチを軽くいなした後、とんでもない勢いでラッシュをして、そのまま僕の顔面を何度も殴ってKOした。
気絶とまでは行かなかったのは、彼女が手加減していたからだろうか。いずれにせよ、色々な意味であまりにも酷いと思う。
そもそも、暴力反対のこのご時世で、拳で訴えかけると言うのはなかなかどうか。いや、そう言うのも全部合意の上で向かって行ったから、文句の言いようもない……と思うのだけれど。
「いやぁ、スカッとしたわ。やっぱムカつく奴殴んのって気持ちいいわ」
「とんでもない問題発言だよ。今まで良い人だって思ってたのに、一気に株が下がった感じがするよ」
「あ〜? 私が良い奴なわけねぇだろうが。勝手に人を祭り上げやがって。大体、ムカつく奴殴りてぇなんて、みんな思ってんだろ。私だって、相応にクズだよ。だって人間なんだし」
「……それは、まあ。と言うか、僕そんなに君を怒らせてたの?」
「そりゃあ嫌だろ。アンタ、私の好きな人の彼氏だぞ? これで済んだだけまだ温情があるっての」
「絶対にそんなことは無いと思う」
僕がそう答えると、天音さんは「あっはっはぁ!」とまた高らかに笑った。一体何が面白かったのだろうか。
「……まあ、でも。マジな話、本当はもっとぶん殴っても良いって思ってる。そんくらい、私はアンタにムカついてるんだよ」
と。天音さんは、また声の色を変えて、脅すように僕に言って来た。
だけど、その口ぶりは乱暴ではなく。僕は体を起こして、向かいに寝転がる天音さんへと視線を合わせた。
「……私さぁ。アイツのこと、本当に好きなんだよ。今でも」
天音さんは、僕の動きを察してか、そのまま語りを続けていった。
「高1の頃から……大体7年くらいか。ずっと、ずっと、私はアイツの隣にいた。ずっとアイツのことが好きだった。……正直、アンタなんかよりも、余程私の方がアイツを好きだって、胸張ってそう言える」
僕は天音さんの話を聞き、うつむくことしか出来なかった。聞いていて、あまりに胸が張り裂けそうな気持ちになったからだ。
「私の方がアイツを好きだし、私の方が、アイツのことをよく知っている。腹黒い癖に他人想いで、面倒臭がりでだらしねぇけど、やる時はきちんとやる。ひねくれてるけど真っ直ぐで、結構よく他人を見ている。……アイツのダメな所も、良い所も、よく、知っている」
ひとつひとつの言葉が、重たく、そして鋭く僕の中へと入ってくる。僕は喉が枯れてしまったかのように声を出せなくなり、やっぱり、ただ、黙って声を聞くしか出来なかった。
「――けど、これからは、アンタがその立場にいなきゃならねぇんだ」
僕は天音さんのその言葉に、ハッと顔をあげた。
天音さんはいつの間にか起き上がっていて、僕の方をじっと睨みつけていた。僕はその視線から逃げないよう、じっと、目に力を込めて彼女を見つめ返した。
「アンタが1番アイツを好きで、アンタが1番アイツを理解しなきゃならねぇ。……なのにアンタは、1番アイツが望まない選択をしちまった」
「――っ、」
僕は天音さんの言葉に奥歯を噛み締める。
思わず、『それは詩子を思ってのことだ』と言い返しそうになった。だけど、天音さんは先んじて、「言っておくけど、それがアイツのためだって言うのはナシだからな」と、僕にピシャリと言い放って来た。
「……アンタが勘違いしているのは、自分が我慢すりゃあ全部丸く収まるって思っている所だ。……そんなわけがねぇだろ。誰だって、身内が不幸になれば嫌になるモンだ。……だから詩子は、あの時、キモイ私と、それでも手を離そうとしなかったんだ」
僕は天音さんの言葉を黙って聞き入れる。言いたいことも、思ったことも、全てを、喉の奥にしまいこんで。
「――私がムカついたのは、まるでアンタが、そんな詩子を、自分のことしか考えてねークソだって言ってるように見えたからだ。……自分の立場とか、周りからの目だとか、そう言うのを全部、全部投げ捨てて、それでも私って言うキモイ女と手を取ろうとした人間なんだ。……そんなアイツがさ、アンタの身内がクソだったって言う事くらいで、アンタとの関係を、手折りたいって思うわけがない」
僕は天音さんの言葉に、彼女が、僕たちの事情や背景を把握していることを感じた。
だからこそ、余計に何も言い返せなかった。『何も知らない癖に』なんて、そんな甘えを一切許さないような、そんな雰囲気が感じ取れたからだった。
「ふざけんなよ。アンタの見てきた詩子って女は、そんな奴だったのかよ。……もしそういう風に見えていたんだとしたら、テメェの顔面ぶん殴って、目ェ覚まさせてやるって……そう思った」
「……だから、僕を誘ったんだね」
「そ。……実際、どんだけ効果があったかはわかんないけどさ」
天音さんはそう言って、頭をポリポリとかいた。
僕はやっぱり何も言えず、2人の間に、気まずい沈黙が流れた。空気が圧迫されて、脳がそれに頭痛を引き起こす。
しばらく時が経ってから、僕は声を震わせて、天音さんに問いかけた。
「――わからないんだ」
「……は?」
「自分が、どうすれば良かったのか。……いや。わかっては、いるんだ。あの時、きっと、僕は別れを切り出すべきじゃなかったんだって。……でも、それじゃあ、アイツを救えるとは思えなくって……」
「――ばーか。何が救うだよ、カッコつけんじゃねぇよこのガリんぼが」
天音さんはため息を吐き、そして、ゆっくりと立ち上がった。
かと思えば、そのまま僕の前に来て、僕の前にかがみ込むと。
途端、パン、と、軽い力で僕の頬を叩いた。
「本当は分かってんだろ? どうすりゃ良いかなんて。……ただ、怖くてできねーだけだ」
「……」
「いいか? ……相手に楽をさせてやることだけが、正解だとは限らねぇんだ。私は、時にはぶん殴ることだって必要だと思うぜ? ……それと同じだよ。お前は少なくとも、そのボコボコに腫れた顔に、後悔はあんのか?」
僕は天音さんに聞かれ、口を一文字に結んでから、「ない」と、ハッキリと答えた。
天音さんは、「だろ?」と笑いながら、僕の頭を掴んで、わしゃわしゃと振った。僕は「やめて」と天音さんの手を払って、天音さんは、「あっはっは」とまた笑った。
「――とにかく。……お前じゃなきゃ、ダメなんだよ。だってアンタは、私がずっと出来なかったことをやったんだ。……高校生の頃から、ずっと、ずっと、出来なかったことを。……だから、」
天音さんはそう言うと、また立ち上がって、そして、背筋を伸ばしてから、僕に真っ直ぐ頭を下げた。
「アイツのこと、マジで頼む。……本当に、本当に、それだけが、私のお願いだ」
僕は胸がキュッと締まるのを感じた。
この一言を――このたったひとつの所作をするために、彼女は、どれだけの言葉を呑み込んだのだろうか。それを考えると、あまりに心が痛くなる。
……僕は、どれだけ情けないんだ。彼女に、こんな姿をさせるなんて。
あまりに不甲斐なかった。自分の弱さに悔しさが溢れて、僕は自然と腸が煮えくり返ってしまった。
――だからこそ。彼女のこの覚悟は、無駄にしちゃいけない。僕はゆっくりと顔を上げて、天音さんへと目を向ける。
「……うん。わかった。……ごめん、僕が不甲斐なくて」
「わかってんなら、ちゃんとやり通せ。……言っておくけど、仲直り以外の答えは許さねぇからな」
「……うん。わかったよ、うん」
僕は頷くと、彼女の言葉を胸に染み渡らせながら、顔を上げた。




