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前編

「リザ、力を抜いて。ガラスの時とおんなじだよ」


緊張して力んだ私の手に、後ろから伸びた大きな手が重ねられた。ちょっと冷たくて骨ばった、でもまだ柔らかい少年の手。私はその手に包まれた途端、どうやっても治らなかった体の強ばりがほどけていくのを感じた。


「うん、そう、肩の力も抜けたね。そのまま続けてみようか。ナイツダイヤと思わずに、緊張しないで。大丈夫、リザは上手だから絶対に失敗しないよ」

「でもっ、これガラスとはぜんぜん違うの。やわらかくて、すぐこわれそう…大事なナイツダイヤなのに、失敗したらお父様とお母様になんていえば…」


初めてのナイツダイヤ作りに、私はあまりの責任とプレッシャーに耐えかねて震えていた。ナイツダイヤは一粒で金貨五百枚になる、いわば我が家の命だ。今まで加工を成功させてきた数多のガラス玉とはわけが違う。重なった手からその震えが伝わったらしく、背中から抱きかかえるようにしていたフェルがふっと笑った。


「大丈夫だって、もしも何かあっても俺が何とかするよ。俺を信じられない、リザ?」

「…ううん」

「なら大丈夫。ほら、もう震えてないでしょ?」


はっと手を見れば、確かに震えは収まっていた。フェルにひとつ頷いてから、私は加工を再開する。


大丈夫、と何度も心のなかで唱える。


作業が進みまた不安に襲われそうになると決まって、大丈夫、落ち着いて、と後ろから声がかかる。


大丈夫、平気だ。だって、フェルがいてくれる。


ああ、このナイツダイヤは何色に光るのだろう。私は完成間際のそれに語りかけた。もし我が儘が許されるのなら、優しくて綺麗な、私の大好きな色に―――










あのナイツダイヤは結局、何色に光ったのだろう。










ばしゃん、と頭から降ってきたものが水だと気付くのに少し時間がかかった。ポタポタと水の滴るドレスを見下ろして、リザレアは立ち尽くすことしか出来なかった。


「貴女みたいな地味で美しくもない女がシュデリア様の婚約者だなんて、なんてお可哀想に!」

「野蛮な成り上がり侯爵家の人間がその立場を得られたのは、全部金の力よ!恥を知りなさい!」

「シュデリア様も仰っていたわ、真っ白な貴女の髪はまるで老婆のようだと。そんな女がシュデリア様の隣に立つなんて許されるとおもって!?」


リザレアに水をかけ吊し上げるこの三人のご令嬢たちは、第一王子シュデリアの盲信者だ。そしてなぜ吊し上げられているのかといえば、リザレアが他ならぬ第一王子の婚約者であるからだ。しばらく黙っていれば散々罵ってスッキリしたのか、令嬢三人組は周囲を警戒しながら足早に立ち去っていった。ナイツストーンが財力と直結するこの国で両親の怒りを買えば貴族として終わりだというのに、熱心なことだと毎度のことながらリザレアは半ば感心してしまう。今やナイツストーンはルシルスティア王国において権力の化身と言われるまでその価値を高め、夜会でつけるナイツストーンの数や質で貴族としての力を誇示できるシステムになっている。故にナイツストーンを売って貰えない貴族は回りから敬遠され、じきに没落するとまで言われているのだ。裏を返せば彼女たちはそれを承知の上で私に嫌がらせをしてくるほど、シュデリア(第一王子)を慕っているわけだ。だからリザレアは、彼女たちの怒りを甘んじて受け、今まで何を言われても真摯に受け止めてきた。少なくともそうする義務があると思ってきた。だって、権力にものを言わせて第一王子の婚約者になったのだから。


とはいえ改めてドレスに目をやればため息が溢れた。


「…これ以上酷くならないといいけど」


その時、近づいてくる足音に気づき、目を向けた。


「リザ」

「ごきげんよう、シュデリア様」


予想通りの姿に微笑んで礼をとれば、現れた人物もごく自然ににこりと微笑んだ。婚約者が濡れ鼠にも関わらず、だ。


「水をかけられた?」

「ええ。でも今日は暖かいので暫くすれば乾きますわ」

「それは可哀想に。ああ、調度君に贈ろうと思っていたドレスがあるんだ。今日はそれを着て帰ればいい」

「私に贈り物など…気を使わなくともよろしいのに」

「なぜ?だって君は私の婚約者だ。婚約者に贈り物をするのは、おかしなことかな?」


腹の読めない微笑みを浮かべ、シュデリアは首をかしげた。星の数ほど女性を落としてきたのであろうこの人の笑顔は、リザレアにとってどこか薄気味の悪いものに過ぎなかった。それにこのタイミングで出てくる辺り、やはり()()()一部始終を見ていたに違いない。リザレアが嫌がらせを受けた後必ずと言っていいほどすぐに現れ、その癖、助けに入ってきたことはただの一度もない。つまり、シュデリアはただ物陰からリザレアが吊し上げられている姿を鑑賞しているのだ。それを気味が悪いと言わずなんと言えばよいのか。


そもそも社会的地位が低いとは言えないリザレアが嫌がらせを受ける根本的な原因は、シュデリアにあった。絶えず浮き名を流す、この第一王子に。いっそのこと邪険に扱って貰えれば所詮政略だと割りきれるのだが、しかし、リザレアの前で彼は奇妙なまでに紳士だった。周囲が語る人物像と、リザレアの知るシュデリア。どちらが本物か分からないから期待を捨てきれない。お互いに恋愛感情が無くとも良好な関係を築けるかもしれない、なんて虫のいい期待だが。


「まあ、でも…ナイツダイヤが散りばめられたそのドレスに比べれば、私が用意した物など大したものではないのかな」

「いいえ、そんなことございませんわ。贈り物はお気持ちが何より大切なのですから。とても嬉しいですわ、ありがとうございます」

「…そう、良かった」


シュデリアはリザレアと目を合わせると、また笑みを浮かべた。


シュデリアにエスコートされて王宮へ戻る道すがら、リザレアは珍しい紺青の薔薇に目を奪われた。

ふと思う。彼は、今何をしているのだろうか、と。その様子を無表情に見つめているシュデリアには気付かずに。



リザレアが第一王子と婚約したのは、五歳の誕生日だった。もとはナイツストーン侯爵家とルシルスティア王家の仲を改善するために、と即位したばかりの現国王・リュジナ陛下から申し込まれた縁談だ。そして王族嫌いの両親――特に父――が当初断るつもりだったその縁談を進めるよう頼み込んだのはリザレアだった。ただ、義兄であるフェルシアを困らせたくない一心で。


もともと長男ジュダレアと次男フェルシアは養子でリザレアや両親とは血の繋がりはない。忙しかった両親やジュダレアに代わっていつも面倒を見てくれていたのが比較的年の近いフェルシアだった。ナイツストーン加工の師でもあるフェルシアへの気持ちが、兄に対するそれを越えるのは必然だったのだろう。しかし、リザレアが気持ちを打ち明けた時、彼は困ったように笑ったのだった。

その時、悟ったのだ。フェルシアへの気持ちは消さなければならないと。辛うじて加工をできる程度のリザレアに比べ、ナイツストーン加工に関して天賦の才をもつフェルシアを失うことは侯爵家にとって果てしなく大きな損害だ。だから、リザレアはなんとしてでも早急に嫁ぎ先を得る必要があった。フェルシアにとってただの義妹でありつづけるために。


そんな不純な動機だからか、当初は上手くいっていたシュデリアとの関係も、今では良いとは言えない状態になってしまっている。けれどどれだけ不仲になってしまっても、婚約破棄は許されない。王子との婚約が破棄されれば、リザレアは傷物。当然次の縁談は難しくなり、間違いなくフェルシアに迷惑がかかるだろう。それだけは避けなくてはならない。だから、せめて問題を起こさぬようリザレアは全ての嫌がらせを甘んじてうけ、シュデリアの女遊びにも苦言のひとつだって溢さず頑張った。


全て、私一人が我慢すればいい。そうすればフェルを、幸せにできる。


「ねぇ、リザ。初めて会った時に私が言ったことを覚えてる?」


はたと、隣を見上げた。美しい金糸を風に遊ばせて微笑むシュデリアと目があう。そのアイスブルーの瞳に落胆する自分がいることに気づいて、苦い気持ちになった。


「『共にこの国を支えていこう』と仰って下さったと記憶しております」

「うん、それも言ったかな。でも、覚えていて欲しかったのは『君を大切にするから』の方」

「…ええ。もちろん覚えております」


ただ、嫌みになりそうで言わなかっただけだ。考えてみれば常に女遊びに興じるシュデリアだが、まあ大切にされているのかもしれない。


「だから、言いたいことがあったら言ってほしいし、困ったことがあったら頼ってほしいと思うんだ」

「…本当に、大丈夫です。大事にして、彼女たちの家を潰すような真似はしたくありませんから」

「うん、君ならそういうと思った。やっぱり今まで手を出さなくて正解だったかな」


いつも物陰から見ていたのは、私がそれを求めていないと分かっていたから。確かに王子が助けに入れ事態は悪化しかねない。けれど、だとしたら、薄気味悪いだなんて随分失礼なことを思ってしまった。


困ったように微笑むシュデリアに昔の、仲が良かった頃の面影を見つけた気がして、リザレアはどこかほっとした。女遊びはともかく、まだ完全に愛想を尽かされた訳ではないのだと。嫌われようが好かれようがどっちにしろ生涯を共にする相手だ。憎みあうよりは支えあえた方がいい。


「でも、これ以上酷くなるようなら黙認とはいかない。そのときは今までのことも罰するけど、それくらいは許してくれるかな?」

「…お手柔らかにお願いしますね」

「残念だがそれは私が決めることだ。ああ、でもリザが私の我が儘を聞いてくれるなら考えてもいいよ?」


リザレアに出来ることなら良いのだがと首を傾げた。


「実は、ドレスを作りすぎてしまってね。本当はリザが私を頼ってくれるまでは秘密にするつもりだったんだけど、私のお姫様は中々強情だからやめたよ。私なりに全部リザに似合うものを作ったつもりだから、着てくれる?」

「ええ、それはとても嬉しいのですけど…作りすぎたって、いったいどれほど?」


戦々恐々として聞けば、アイスブルーが悪戯っぽく煌めいた。嫌な予感がした。小さい頃は毎日のようにドレスやら飾り物を寄越してきたシュデリアが、作りすぎたなどと言うのは相当だ。


これは、かなり不味いかもしれない。


「そうだね…一日二着ていくとしても、今シーズンいっぱいは困らないくらいには」

「なんて浪費をしているんですか!」

「君に着て貰いたいものをデザインしていたらどんどん増えてしまって。

あ、代金はちゃんと私が稼いだものだから問題ないよ。新たに貿易路を拓いたり、新種の穀物の栽培に成功したんだ。君のために国を傾けるなんて本末転倒だからね。

王宮に来るときだけでいいから、着てくれると嬉しいな。で、私に姿を見せに来てね?」


にこりと微笑んだシュデリアに、リザレアは絶句した。だって今シーズンは、始まったばかりだ。なんて膨大な量を。それに近年随分と執務が忙しそうだと思ったらそんなことをしていたなんて、どこから突っ込めばいいのか。


リザレアはため息をついた。


「…どうせ王宮には頻繁に来るのですから、毎日、大切に着ますわ。ですから日課として一緒にお茶をするのはいかがでしょう?」

「よし、言質はとったからね。ああ、毎日会いに来てくれるなんて嬉しいよ、リザ!良かった。この計画を始めてからなかなか会えなくて、愛想を尽かされたらどうしようかと思っていたんだ」

「シュデリア様、計画と仰いましたね…作りすぎたって、嘘でしたの!?」

「嘘ではないよ、当初はドレス百着計画だったんだ。だから、一年かからない予定だったのに、色々な女性から流行をリサーチしているうちにデザインが百枚では収まらなくなってしまったんだ」


ドレス百枚でも、十分異常だ。誰がそんなにドレスを着るのだ。父も暇さえあれば母に着せるドレスを手作りしてるが―――かなり器用なので職人もビックリな素晴らしいものをつくる―――それでも百着など持っていない。ものを大切に、がモットーの我が家ではそれほど必要ないというのもあるが…一般的に考えても多すぎる。それなのに、さらに作ったというのか、この第一王子は。女遊びに興じるとは誰が言ったか、間違いなくドレスのリサーチだ。


ここ数年疎遠になっていた原因が解明されたというのに、今度は罪悪感に苛まれることになるとは思ってもみなかった。


すると、シュデリアに手をとられ、リザレアは顔をあげた。


「リザ、好きだよ」


その熱っぽいアイスブルーの瞳に射ぬかれ、束の間動けなくなる。すぐ近くに彫刻のように美しい顔が迫って、リザレアは戸惑った。


「ドレスを作り終わったら伝えようと思っていたんだ。ねえ、リザ。いい加減私を好きになってくれないか?ううん、そうなるよう努力してくれればいいから…私だけを見てほしい」

「…最初から分かっていらっしゃったの?」


―――私が、フェル(義兄)を忘れられないことを。


困ったように、そして悲しげに、シュデリアが笑った。それは、肯定だ。一気にリザレアの中で罪悪感が膨れ上がった。


こんなことなら、嫌われているほうが余程良かった。だって私は、彼の気持ちに応えられない。今さらフェル以外を好きになんて―――


「私は婚約してからずっとリザが諦めるのを待ってたよ。ドレスを作るなんてただの言い訳、いわばリザのための猶予期間だった。リザが気持ちを整理するための。それがこんなに伸びたのも、どうしてかわかるでしょう?」


ドレス百枚じゃ足りないくらい、待っていてくれたなんて。いったいどんな思いでこの数年を過ごしたのだろう。


それなのに、私は今何を考えた?

同じ金髪なのに、アイスブルーは紺青ではない、だなんて―――私は最低だ。


罪悪感は、ぶくぶく膨れて、ぱちんと弾けた。


「努力します、時間はかかると思うけれど…きっと、好きになるから」


待っていてなんて、おこがましくて言えるわけない。次期王妃として情けないけれど、やるせなさに涙が止められなかった。


広い胸に、そっと優しく抱き寄せられる。そして、ぽんぽんとリザレアの背を叩きながらシュデリアはごめん、と呟いた。リザレアは、ただ首を振ることしかできなかった。


「…っきっと、好きになりますから…」

「ありがとう、私も好きになってもらえるよう努力するよ」


嬉しそうな声に罪悪感を感じながら、甘い香りに包まれそっと目を閉じた。







「おかえり、リザレア…って、目が腫れてるじゃねぇか、泣いたのか!?」

「ただいま。大袈裟よ、ジュダ兄様ってば」


光の速さで飛んできた一番上の兄にガクガクと肩を揺さぶられ、思わず苦笑をこぼした。


「第一王子に何かされたか?言ってみろ、あの好色野郎をすぐに肉片にしてやるから」

「違うわ兄様。シュデリア様は、女遊びなんかしていらっしゃらない。好きって言ってくれた。私、とても、とても、大切にしていただいていたの」


ジュダレアは、微妙な顔をしていた。きっと、リザレアもそうなのだろう。嬉しいけど、それよりも苦しい。なんでフェルシアではなくシュデリアを好きにならなかったのだろう。だってそうすれば、誰も傷つかなかったのに。


「そう、か。良かったな」

「私ちゃんと頑張るわ。あの人を、好きになれるように」

「…まあ、困ったら言えよ。リザレアのためなら王宮だろうがなんだろうが飛んでくから」


ジュダレアは知っていた、というよりは気づいていたのだと思う。リザレアがフェルシアを好きだったこと。ダメだったこと。忘れられないこと。だからきっとこの人も悲しげに笑うのだ。


「リザレア…?どうしたの?」


ピクリと体が跳ねた。声を聞いただけで喜んでしまう自分が、酷く浅ましいものに感じた。












「何でもないの。ただいま、フェル兄様」


兄の陰から現れたリザレアに、フェルシアは素早く目を走らせた。目元が少し赤くなって、腫れている。リザレアを泣かせたと思えば、あのろくな噂のない王子に怒りが燃え上がる。が、しかし、リザレアのドレスを見た瞬間その怒りを忘れた。


「遅かったね、おかえり。




―――その服はどうしたの?」


その言葉でリザレアに飛びついていった兄は初めて彼女の見慣れぬドレスに気がついたらしい。


ふわりとリザレアは笑った。まるでよく聞いてくれた、とでも言うように。


「これは今日シュデリア様に頂いたの。似合うかしら?」


そんなことは、分かっている。


リザレアがくるりと回ると、生糸のように美しい髪とともにふわりとシフォンが舞った。ナイツダイヤがついていたら、その重さでこうはならない。幼い頃からナイツダイヤのドレスを着ていたリザレアは珍しいのか、それを楽しそうに見ていた。


突如腹の底に言い知れぬ怒りが澱むのを感じて、それを隠すように笑みを張り付けた。


「うん、可愛いよ」

「ありがとう兄様。さすがフェル兄様ね。ジュダ兄様ってば全然気づかないんだもの」

「っな、心配が先に来たんだよ!圧倒的に!」

「はいはい、俺たちは納期迫ってるんだから戻るよ兄さん。リザレアは夕食を食べておいで。今日は義母さんがキッシュを焼いたんだ」


はやく、目の届かないところへ行ってくれ。そして、そのドレスは二度と着るな、と自分の中の醜いものが唸った。けれどそれを彼女に見せてはいけない。彼女を突き放して、いけ好かない王子に差し出したのは他ならぬ自分なのだから。


リザレアが朗らかに頷いたのをみて、フェルシアは兄の腕をとって歩き出した。一応納期が迫ってるのは事実だ。


「頑張ってね、お兄様」

「リザレア、そのドレス似合ってるからな!寧ろしっくり来すぎて気づかなかったというか、あー…」


兄の言葉に、苛立つ。その先を聞きたくなくて掴んだ腕に力を込めたのに、兄は止まらなかった。


「第一王子はお前をよく見てるんだな」


ふざけるな、冗談じゃない。叫びたくなる衝動を、唇を噛んでこらえた。


「ふふ、ありがとうジュダ兄様」


嬉しそうなリザレアの声。フェルシアの口内に鉄の味が広がった。




「フェル、唇噛むなよ。血が出てる」

「…兄さん、わざとあんなこと言ってどういうつもり?」


作業部屋に入るなりフェルシアは自分と同じの濃紺の瞳を睨んだが、逆に此方が見透かされるようで目をそらした。


「いい加減にしろ。リザレアは、ちゃんと前に進もうとしてるんだ。手放したのはお前だろ」

「…わかってるよ」


突き放してなお、まだ自分を好きでいてほしいなんてどうしようもないエゴだ。奴隷上がりで血統も教養もない自分より、第一王子と結ばれた方が彼女は余程幸せになれる。


全部、分かってる。


「ちょっと頭に血が上っただけだから」

「アイスブルーのドレス。いつのまに測ったのかサイズはぴったり。極めつけはナイツがつかないアクアマリンのネックレス、だろ?」


兄は笑っていなかった。


「あいつは第一王子にちゃんと愛されてるよ」

「…」

「ま、納期迫ってるし作業再開だ。ほら、やるぞ」


頷いて、作り途中のナイツダイヤに向きあう。しかし触れた途端、石は砕けた。フェルシアがもう何年もしていなかった、あり得ないミスだった。








「いらっしゃい、リザ。今日も似合ってるよ」

「ありがとう、シュ…シド」

「ふふ、まだ慣れないね?」


楽しそうに笑ったシュデリアの向かいに腰かけ、リザレアは苦笑した。


「何年もシュデリア様、だったから」

「にしては敬語を抜くのは簡単そうだね」

「家ではいつもこれだもの。ナイツストーン家は秘密保持の観点から使用人もいないし、両親が形式ばったことが嫌いで平民に近い暮らしだから」

「なるほど、通りで弟が入り浸るわけだ。ヴェルは王宮の暮らしが嫌そうだからね」


おいしい紅茶を飲んでいるというのに思わず吹き出しそうになり、リザレアは急いで飲み込んだ。シュデリアはその様子をおかしそうに笑う。


「…ヴェルは王宮が嫌いなんじゃなく、ノアンに会いたいだけよ。私と入れ替わりに毎日ナイツストーン家を訪れては、ノアンをどろどろに甘やかしてるそうだし」

「いっそのこと、ヴェルとリザを交換した方がいいのかな」

「同性婚を認める気なら、いいと思うけれど?」


シュデリアは目を丸くして、それは不味いな、とため息をついた。今度はリザレアが笑う番だった。


「なに、ヴェルってそういう意味でノアン君に会いに行ってたの?」

「聞くところによれば、ナイツストーン領に屋敷を建てたらしいわ」

「本気だな、ヴェルのやつ。妖精の二つ名を持つ侯爵夫人にそっくりだと聞いた時から、そうじゃないかと薄々懸念はしていたんだけどね」

「確かに、開口一番に『結婚してください 』なんてびっくりしたわね」


懐かしい話題におのずと話が弾んだ。実は、リザレアがシュデリアとの顔合わせで両親と初めて登城した際、たまたま居合わせた幼いヴェルトナは()()()()()()にプロポーズしたのだ。


「で、あの時侯爵は、父上に何て言ったんだっけ?」

「『息子の命かナイツダイヤ、どっちか好きな方を選べ』だったわね」


その場面を思い出し、リザレアとシュデリアは二人して笑った。いつ思い出してもあの時の父の大人気なさは、未だに笑ってしまう。


「でも、良かった。ヴェルの初恋がリザじゃなくて」

「当然よ、母の方が私より数百倍は美しいもの。私が両親から受け継いだものと言えば色素の薄さと記憶力だけだし」

「そんなことない。リザは綺麗だよ。生糸のように艶やかな髪も、優しい水浅葱の瞳も、全部独り占めしたいくらい」

「…シド」

「照れないでいいのに、事実だから」

「貴方には恥じらいが足りないわよ。…でも、ありがとう」


うん、と嬉しそうな笑顔が眩しい。あの日からシュデリアとの関係は順調に良くなっているとリザレアは思う。贈られたドレスをそれなりに消費した最近は、彼と話すこの時間が楽しみになってきたほどだ。きっともう少し。もう少しで、フェルシアを忘れられるだろう。


そう思えるようになった自分に、リザレアは酷く安堵し、満足していた。


「ごめん、今日はこの辺でお開きにしよう。実はこの前話した灌漑設備の計画、私に任されることになってね。その関係でこれから視察に行くんだ。リザの助力のお陰で計画書は完璧だから、本当に軽い視察だけなんだけど少し遠いから」

「ううん、あの計画を一任されるなんて凄いわ!灌漑設備は国の一大プロジェクトだもの。それじゃあ、気を付けて行ってきてね。明日話すのを楽しみにしてるわ」

「わかった、リザはお土産楽しみにしてて」


リザレアも計画に一枚噛んでいるというのもあるが、かつて貧しかったこの国がナイツストーンのお陰でついに灌漑設備にも投資できるようになったのだ。とても誇らしい気持ちでシュデリアを見送って、リザレアは席をたった。この後はいつも通り、王妃様の仕事を補佐しつつ灌漑計画の書類を纏めるつもりだ。幸いなことに、両親譲りの記憶力と頭のお陰で王妃教育は異例の速さで終えていた。だから王妃様の補佐をしているのだが、シュデリアが一任されたとなれば本格的に計画に加わるのも良いかもしれない。


そんな浮わついた気持ちは部屋を出た瞬間、冷や水を浴びたように凍りついた。そこにいたのは、以前文字どおりリザレアに冷や水を浴びた令嬢の一人、グルシア伯爵令嬢だった。


「お久しぶりね。元気にしていらしたかしら」


嫌な予感に心臓が音をたてた。彼女はいつになく濁った目をしていた。


「まあ、そんなに警戒しないで下さる?私はちょっとしたお願いに参りましたの。


―――ねえ、貴方のお兄様はフェルシア様と言ったかしら?」











シュデリアは目を疑った。いつもなら既に帰っているはずの婚約者の馬車を見つけたからだ。視察よりも土産物選びに時間をかけたため、既に日はくれている。今からナイツストーン領へ帰るのは無理だ。そんな時間まで王宮に残るなど、何かあったのだろうかと不安になった。


「シュデリア様、ご報告が!」

「リザに何があった?」


馬車を降りてすぐ、駆け寄ってくる騎士は今日の昼間、婚約者の護衛につけた騎士で間違いなかった。


「シュデリア様が席を外された後、グルシア伯爵令嬢が、その…」


グルシア伯爵令嬢といえば、リザレアにしつこく嫌がらせをしていた令嬢の一人だと思いあたる。けれど、護衛がいれば令嬢ごときが危害を加えられないはずだ。ならばなぜ、この騎士は忙しなく目を泳がせているのだろう。


「なんだ、はっきり言え」

「…自分もはっきりと聞こえたわけではないのですが、シュデリア様との婚約破棄しろと迫っているようでした。異変に気づいてグルシア伯爵令嬢はすぐに取り押さえたのですが、リザレア様の様子がおかしくて」


シュデリアはリザレアが気を使わないように遠巻きに護衛をつけていたことを心底後悔した。同時にグルシア伯爵家と、過去にリザレアへ手を出した者への制裁を決める。


「わかった、リザはどこに?」

「ティールームから動いてません」


護衛に礼を述べるとシュデリアは着替えもせずそのままティールームへ足を向けた。ただ婚約を破棄しろといわれたくらいでリザレアが動揺するとは思えない。もしそうなら今ここに居るわけがない。帰れなくなるほど彼女を追い詰めるもの、それは?


「…結局()()なる、か」
















「リザ、遅くなってごめんね」


月明かりが照らすだけの薄暗いティールーム。昼間と同じ場所に腰かけていたリザレアは、ゆっくりと顔をあげた。やや焦ったように駆けつけてくれたシュデリアを見て、ぽろりと涙が筋を作った。乱れた金糸、揺れるアイスブルー、シュデリアの全てが胸を締め付けた。


「ごめんなさい、私との婚約を破棄して下さい」


思ったよりシュデリアが動揺しなかったことに安堵した。優しいシュデリアは、きっと、受け入れてくれる。それで彼がどれだけ傷つこうとも。罪悪感がまたぶくぶくと膨らんでいく。


こんな私を選んでくれたのに。何年も待っていてくれたのに。フェルシアの命と天秤にかけて、選んだのは彼じゃなかった。裏切ってしまった。


「いいよ」


予想通りの返答。いっそ冷たいまでに感情を殺したシュデリアの声だ。きっと苦痛を堪えたような苦い顔をしているのだ。それでも、返答に安堵した自分に吐き気がした。


ああ、今、私の顔はどれほど醜いのだろう。


リザレアは唇を噛んで俯けていた顔をそっとあげ、背筋が凍った。


「ただ、ナイツストーンの加工法と引き換えになら、だけど」


シュデリアは底冷えするような冷たい顔をしていた。リザレアは一瞬何を言われたのかわからず、無意味に唇を開いては閉じる。


これは、誰なのだろう。今まで見ていたシュデリアとは、全く別の人だ。そう思うくらい、目の前の人が怖かった。


「…っ、それは…」




加工法を引き換えに?


それは、無理だ。だって、そんなことをしたら―――




何かの冗談だろう、そんな都合のいいことを頭の隅で叫ぶ。だって、シュデリアは優しい人で、いつも私を慮ってくれる人で、間違ってもそんなことをする人じゃないのに。


そんな思いに反して、いつも優しい笑みを描くシュデリアの唇が冷酷に弧を描く。


「そう、賢いリザなら分かるはずだ。王家と対立し、多くの貴族から疎まれながらもナイツストーン家が存在できるのは何故だろうね。加工法が広まれば誰もがナイツストーンを作れるようになる。そうなれば君の家族は、どうなるんだろう?


分かるでしょう、リザ。それでも婚約を破棄するのかな?」



パキリと、心が軋む音がする。



だって、婚約破棄しないとグルシア伯爵令嬢にフェルシアが殺されてしまうのだ。でも、破棄したら皆を路頭に迷わせるかもしれない。



また音が鳴る。



没落したらお母様とお父様は隣国や恨みをもつ貴族に殺されてしまうかもしれない。ジュダ兄様は刻印のせいで働くのはさぞ大変だろう。幼いノアンはお母様似だから男色家に囲われてしまうのだろうか。そうなればフェルはきっと、私を恨むのだろう。



小さなヒビが広がっていく。



家を潰すことはできない。でも、フェルを見殺しになんて、できるわけない。どうする、どっちか選ばないと。リザレアの中で天秤が激しく揺れる。どちらかに定まることのない天秤についに心が悲鳴をあげた。



かしゃんと、なにかがわれる音がした。



「…私、っ……!」

「―――大丈夫、辛いことは全部忘れて。おやすみ、リザ」


限界を超えて過呼吸になりかけた時、温かいものに包まれ視界がブラックアウトする。大切ななにかがこぼれ落ちる感覚が、ただ悲しかった。








「リザレアが帰ってないって、いつから?」


思ったよりずっと低い声が出た。


「…五日前からだ」

「兄さんは知ってたのか」

「お前に言ってたら、今日の納品が間に合わなかっただろ」


気まずそうに視線を反らす兄に、ぐっと唇を噛む。フェルシアはあの日ナイツダイヤを割ってから作業効率がすこぶる悪く、納期に間に合わせようとここ一週間以上作業部屋に籠っていたのだ。だから、夕食の席につくまで気づけなかった。


「フェル、ジュダを責めないの。仕事を優先させるのは職人として当然の選択よ」

「それに食事の席での喧嘩は厳禁だよ」

「義母さんも、義父さんも…よく、平気な顔してられるね」


睨み付けるように言えば、一瞬義父は目を反らしたが義母は動じることなく微笑んだ。


「リザレアのことなら心配は要らないわ」

「なぜ?」

「王宮の一室を宛がわれてるそうだから、そこで暮らしているのよ。というのも国の一大計画に携わることが決まって、ここから通うには何かと不都合なんですって」


それに、と続けた義母は少し躊躇うような仕草を見せた。


嫌だ、聞きたくない。


義母の表情はそれが悪い知らせだと物語っていた。


「あの子が望んだことでもあるの。多分、このままうちに戻る気はないんじゃないかしら」







それから、フェルシアの瞳に映る風景は色をなくした。リザレアが帰らぬ家で、ただ仕事をこなし食事をとって寝る。まるで心が死んでしまったように、何に対しても感情が動かなくなった。


今さら手の届かないところへ行ったからといって、なんて自分勝手なんだろう。


そうだ、あの子が例え結婚しても側に居られるような気になっていたんだ。無理に、決まっているのに。


「フェル、いい加減休め。ここのところ毎日机にかじりついてるだろ」

「頼むから、放っておいて。仕事を優先させるのは職人として当然のことなんでしょ?」

「っ、あのなぁ!このままじゃ体壊すぞ!?」

「…別に、それならそれで本望だよ」


些か焦ったような兄を部屋から追い出し、一先ず鍵をかけた。鍵は兄の自室にも保管されているはずだから作業に問題はない。


あの日から第一王子の贈るドレスばかり身に付けて、いつしか楽しそうに王宮へと出掛けるようになったリザレア。何年も近くで成長を見守っていた。自分のことを好きだと言ってくれた、あの子。


第一王子と結ばれた方が彼女は余程幸せになれる、だなんて嘘だ。ただ自分に自信がなかっただけなのだ。奴隷上がりでなにもない自分がリザレアを幸せにできるのか、あの子の未来を背負うのが怖かったのだ。


「馬鹿だ。俺は逃げて、何より大切なあの子を失ったんだ」


俺のことを兄様と呼ぶようになったのはいつからだっただろう。ナイツダイヤを作らなくなったのは?妙に距離が遠くなったのは?リザレアを失わずにすむタイムリミットは、いつだったんだろう。


大切なものは失ってから気付く。それが身に染みて、泣きたくなった。

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