36.兄の訪れ
皇帝が朝議から戻ると、訪問者が玉祥の帰りを待っていた。
その顔を見て、玉祥は少し顔を綻ばせる。常に気を張っている玉祥にとって、数少ない気の置けない人物がそこにいた。
「陛下にご挨拶を」
「楽に」
形式的に挨拶だけ済ませると、玉祥は人払いをした。皆が外に出ると、男は許可を求めるでもなく、椅子に腰かけて出されているつまみに手を伸ばす。
「兄上、久しぶりだな。いつ戻っていたんだ?」
「昨日戻った。何だかいろいろ大変そうだな? 朝から疲れているし、顔が老けた」
玉祥の顔を覗き込んで、兄はケタケタと笑う。お互い真顔であればどことなく似ている二人だが、明るい表情の兄と疲れ切っている玉祥ではだいぶ違って見える。元々年齢差は一つだけだが、弟であるはずの玉祥のほうがずっと年上に見える。
「そこは心配するところじゃないのか?」
「心配しているさ。俺にはどうにもできないけどな」
玉祥はそんな兄をジトッと睨みつけた。
「兄上は相変わらず楽しそうで」
「まぁな。どうした。話くらいは聞くぞ?」
「本当にいろいろだ。朝は朝議で税だ事業だ反乱だのと言われ、余派は徳妃の子を皇太子にと言ってくるし、李派は睨みを利かせてくる。あれをしろこれをしろって、俺は都合の良いコマでしかない」
「うん、そうか」
「夜は夜でこの女の所へ行け、子を成せと指示される。後宮は俺のものなはずだよな? なんで行くところさえ選べないんだ?」
「そうかそうか」
もっともらしく相槌を打つ兄に、もう一度ジトッとした目を向けた。
「兄上は本当に聞いているだけだな」
「そういう立場だからな。変に突っ込んで狙われたらたまらん」
玉祥の父である先帝には十人の男児がいた。玉祥は五男であるが、今いる兄は目の前にいる彼、四男の祥斎しかいない。次男は夭折。長男と三男は、玉祥が皇太子になる少し前、死んだ。表向きは病死とされているが、そうでないことは誰もが感づいている。
「兄上の母君は息災か?」
「あぁ。おかげ様で。先日会いに行ってきたが、元気に過ごしているようだ」
「そうか。何よりだ。母君の作る菓子は絶品だった。いつかまた食べたいものだ」
「伝えておくよ。きっと喜ぶ。そちらはどうだ?」
「先日会いに行ったら、たっぷり文句を聞かされたさ」
「そりゃ、お元気そうで」
この兄、祥斎の生母は女官であった。先帝に見初められて皇子を産んだが、元の身分が低いために二十七世婦である婕妤の位を与えられるに留まった。
とても聡い人で、先帝の体調に不安が出たころ、祥斎に毒を飲ませた。毒といっても祥斎を殺すつもりなど最初からない。皇位争いを避け、祥斎を生き残らせるためだ。
彼女は自ら毒を飲ませたことを先帝に訴え、地位を廃されて尼寺に入った。
祥斎はこの毒によって子ができにくくなってしまったらしい。本当かどうかは分からないが、そう訴えた。子ができにくい男を皇帝にはできない。しかも母は元女官で、すでに廃されている。
これによって祥斎は皇太子争いからさっさと身を引いた。後ろ盾となる派閥を持たず、利用される前に逃げ、祥斎自身も権力には全く興味がないと示すことによって、誰も彼に脅威を感じさせなかったのが功を奏したのだろう。
そうして、祥斎は悠々自適に生きている。
もし一歩違えば、どうなっていたかわからない。
ちなみに祥斎の生母は先帝崩御の後に祥斎が用意した屋敷に移り、これまた悠々自適な生活を送っている。玉祥にとって彼女は、先帝の後宮では敵意を向けてくるか擦り寄ってくるか、という女性が多かった中で、どちらでもなく兄と同じように接してくれた、数少ない女性だった。
「兄上はどこへ行っていたんです?」
祥斎は今でも権力争いを嫌って所帯も持たず、ふらふらと歩き回っている。芸術が得意で絵や書を売ってみたり、子や書生に教えたりしながらよく旅をしている。
あまり自由に外に出ることができない玉祥にとって、兄の話はとても興味深いのと同時に貴重な情報源だ。
「今回は西の方へ行ってみた。さすがに国は越えていないが、黄国の近くまでだな」
「先日の朝議で黄国との国境付近で衝突があったと聞いた。何か聞いたか?」
「俺がそこを発った後のことなので詳しくはわからないが、衝突といっても警備する兵同士が喧嘩した程度のことだと聞いた」
「そうか」
「ただ、注意したほうがいい。黄国から人が流れてきているらしい。喧嘩もその件絡みだったようだ」
皇后が黄国出身なこともあるし、黄国とはやり取りもある。人の出入りも珍しくはないが、流入が多いとなると自国民とトラブルになることもある。
何より、わざわざ朱国に入ってくるということが気になる。
「税の取り立てが厳しくなったと聞いた。払えない者が故郷を捨てて逃げてきているようだとの話もある。そのような話は今に始まったことじゃないが、数が多いと兵がぼやいていた」
「税率は?」
「ころころ変わってわからないそうだ」
逃げ出すほどに税の取り立てが厳しいのはなぜだろうか。その地を管理する役人が代わったのかもしれない。役人が皆清く正しければ良いのだが、そうではないところは朱国だって同じで、玉祥の頭を悩ませる問題の一つだ。
もっと酷くなると、地方に留まらずに中央の官僚たちが腐敗している場合もある。国に納めるはずの税に役人たちの取り分がどんどん追加され、膨れ上がる。こうなれば税を払う側としては自分たちが食べていく分がなくなってしまう。
その場合は黄国内だけの問題なのだが。
「国が食料をため込んでいる?」
「その可能性も捨てきれないな」
国が食料をため込むのは災害などに備えるためでもあるが、戦を始める時にもそうする。黄国は朱国以外にもいくつかの国と接している。仲の悪い国もある。朱国とは良好な関係を築いているはずだが。
「皇后は黄国出身だし、特に国交に問題は起こっていない。もし黄国が戦を考えているとしても、こちらに向かってくる心配はないだろう」
「俺もそう思うが、警戒しておくに越したことはない」
「そうだな」
外からコンコンと合図が鳴った。
「皇后さまがいらしております」
「通せ」
扉が開き、皇后が入ってきた。祥斎を見て、少し目を丸くしている。皇后と祥斎は初対面ではないが、話をする機会は多くない。
珠蘭は二人に目を向けると、丁寧に礼を取った。
「陛下にご挨拶を。義兄さま、お久しぶりでございます」
「お久しぶりです、皇后さま。息災でいらっしゃいましたか?」
「えぇ。義兄さまもお元気そうで。あの、お話し中でしたらわたくしは出直しましょうか」
「良い。俺が呼んだのだ。皇后も座れ」
別件で用事があって呼んでいたのだが、皇后が聞いたらまずいような話はとくにない。珠蘭は言われた通りに腰かけると、自分で作ってきた菓子をつまみとして出した。
「ちょうど今、皇后さまがどれだけ可愛いかということを話していたところですよ。陛下は毎晩でも皇后さまのところへ行きたいのに、そうできないと嘆いていらっしゃいました」
「まぁ」
冗談だと分かるように言うので、珠蘭はクスクスと笑う。
玉祥はちょっとムッとした。
「違う。兄上が黄国の近くまで行ったという話をしていたところだ」
「黄国の近くですか? いかがでした?」
「大きな問題ではないが、黄国から人が流れてきているらしい。皇后、何か聞いていることはあるか?」
「いえ、特に何も聞いていませんけれど、久しぶりに黄国の親族に手紙でも書いてみましょうか」
「久しぶりなのか?」
「手紙を出すたびに、子はまだかと聞かれるのですもの。何となく遠のいてしまって」
肩をすくめる珠蘭に祥斎は軽く笑った。
「俺も母上に会うたびに嫁はまだか、子はまだかと言われますよ。親はいつでもそうなのでしょうかね?」
「そうかもしれませんね」
「皇后さまの場合、すべてこの陛下の責任ですからね。怒ってもいいですし、言いたいことがあれば全部ぶちまけていいのですよ」
「兄上……」
玉祥の困ったような顔が面白くて、「不満などない」と伝えるはずが言葉も出ずに珠蘭は笑ってしまった。
「そういえば兄上、弟たちの所へは行ったか?」
「行ったぞ。皆、息災にしているようだ。今のところ動きもなく、本人たちにその気は全くない。共に陛下の治世を支えようと話してきたところだ」
「そうか、ならいいが」
玉祥の五人の弟皇子のうち、二人は夭折している。残りの三人のうち、一人が李派の母をもち、二人は余派の母をもつ。
三人とも、本人には皇帝の座を取って代わろうという意志はない。
玉祥にも、弟たちと争う気は全くない。
それでも、ひとつ状況が変われば旗印にされる可能性もなくはないのだ。
しばらく話を聞いていた珠蘭は、頃合いを見て持ってきたお菓子を毒見として一つ食べた。二人もそれに続く。
ここから三人でたわいもない話をして、玉祥は束の間の楽しいひと時をすごしたのだった。
読んで下さりありがとうございます。
平日に一話を目標にしていましたが、今後しばらく更新頻度が落ちます。
お話はまだ続きますので、またお付き合いいただけると幸いです。




