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下女皇后の後宮記  作者: 海野はな


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12.生誕祝い翌日

 ずぶ濡れ泥付きのまま長明宮(ちょうめいきゅう)に戻った珠蘭(じゅらん)は、雲英(うんえい)から根掘り葉掘り状況を聞かれた。明明(めいめい)からも事情を聞いた雲英は、雷様の形相になった。


「何をやっているのですか! 明明、あなたもですよ。娘娘(にゃんにゃん)に付いていながら止められないとはどういうことなの!」


 ドカンと雷が落ちて、感電した。濡れた身体は電気を通しやすい。ビリビリと雲英の声が響き、全身を駆け巡る。

 飛び火ならぬ飛び雷した明明もしびれている。


(明明、ごめん。一緒に叱られてくれ)


 主の責は侍女の責でもある。今回明明は何もしていない。むしろ止める方向で声は掛けていたのだが、一緒に叱られるのは免れないだろう。


 とにかく今は弱っているこの子犬だ。幸い今は春の終わり。気温は低くないが、どれだけの間水に浸かっていたのかわからない。


「申し訳ございません。お叱りならば受けますから、まずはこの子を。何か拭くものをくださる?」

「こちらはなんとかしますから、娘娘はまず湯浴みしてお着替えください」


 明明はまだ濡れている子犬を珠蘭から受け取ると、サッと部屋を出ていった。それはもう、それとなく、ごくごく自然に。


(逃ーげーたーなー!)


 要領のいい事である。

 残されたのは、珠蘭と、腕を組んで般若の顔をしている雲英だ。


「娘娘?」

「はひぃ」


 こうして珠蘭は、湯浴みの間も着替えの間も、その後もずっとお説教を聞き続けることになったのである。


 唯一静かだったのが、宦官医官が腕の傷を診に来た時だ。よく見れば数か所にできていた引っ掻き傷はどれも浅く、いずれは跡も消えて残らないだろうとのこと。痛みはほとんどなかったが、白い肌にできた赤い線は非常に目立った。

 さらしを巻き終えた医官に、珠蘭はお礼を述べた。


「大した傷でもないのに、足労をかけましたね」

「とんでもないことでございます」

「あの、それで、医官。あなたは犬も診られる?」


 雲英は頭を抱えた。


「娘娘、それは医官を侮辱する言葉ですよ」

「あ、えっ。ただ子犬が心配で、そんなつもりはなかったの。申し訳ないことを言いました」


 項垂れた珠蘭に、医官はただ「ははっ」と笑った。

 そして気のいい医官は子犬を診てくれた。専門外だから正確な事は申せません、と前置きした上で、食事も少し取れたようなので大丈夫でしょう、と言った。



 ようやく珠蘭が雲英のお説教から解放されたのは、就寝時に近い時間だった。珠蘭よりも雲英のほうが疲れていたのは申し訳ないと思う。具合が悪くなるんじゃないかと心配だ。


 寝台に入る前に確認すると、子犬は大きな毛玉のように丸まってすやすやと眠っていた。そっと撫でるとピクリと身体を動かしたが、起きることはなかった。


(子犬ちゃん、はやく元気になるのよ)




 翌朝、妃嬪たちの朝の会は休みだったので、珠蘭は御花園に向かった。皇太后の生誕祝い会場の片付けが問題なく済んでいるかを確認するためだ。皇后自らが出て行って片付けをすることはない。むしろ出ていけば作業の邪魔なので駄目だと止められたが、一応皇后が主催した宴なので、最終確認はしなければならないのだ。


 後宮内の祭事を司る責任者の女官と共に、会場だった場所を見て回る。


「片付け作業は昨日中に終わり、あとは細かい掃除を徐々に行う予定になっております」


 ぽつぽつと落ちている食事の残骸を小鳥がついばんでいた。掃除を、とは言うが、汚れているようには見えない。


「ご苦労でした。皆、疲れたでしょう。掃除は急がなくても大丈夫ですから、今日は労って、ゆっくり休ませてあげなさい」

「感謝いたします」

「それから、食べ物はたくさん余ったかしら?」


 一瞬不思議そうな顔をした女官は、何かに気がついたように慌てて頭を下げた。


「申し訳ございません。今回は購入量が多すぎました」

「あ、叱責するつもりはなかったの。多めに購入する意味はわかっています。残っているのなら、たまには宮女や下女たちにもあげてほしいと思っただけよ」


 今回はいつもよりも多く食材が余ったらしい。女官は余分に買いすぎだと叱られたと顔色を変えたが、珠蘭は単純に下女にも美味しい物を、と思っただけだった。


「下々の者へ配慮してくださるなんて、皇后さまはなんとお優しい」


(当事者でしたから)


「いつも頑張ってくれているのでしょう。お祝いですもの、こういう時くらいは下女にも喜んでもらわなければ、ね」

「なんということ。皆、皇后さまに忠誠を誓うことでしょう」


(え、そこまで思ってない)


 チラッと横を見ると、雲英が「もう何も言うな」と目で合図してきたので、あとを任せて立ち去ることにした。



 宮に戻る前に、池に寄ることにした。宮の宦官に調べてもらったところ痕跡がまるでなかったそうだけれど、昨日溺れていた子犬の親犬がいないか、どこからきたのか手がかりがないか、自分でも見てみようと思ったのだ。


 御花園からそちらに足を向けた時、横から声がした。


「あら、皇后さま、ごきげんよう。ほら、あなたも挨拶なさい」

「こうごうさまに、ごあいさつを」


 淑妃とその子だ。四歳の男の子がたどたどしくも挨拶する様子は微笑ましく、自然と頬が緩んだ。


「上手にごあいさつできましたね」


 そう褒めると、男の子ははにかんだように笑った。なんとも可愛らしい。


「淑妃たちは散歩ですか?」

「この子が昨日見たお花がまた見たいと言ったので、連れてきたのです。これから池の鯉に饅頭でもあげようかと向かうところですわ」


 行き先が同じだったので、一緒に歩く。


「皇后さまは昨日池に飛び込まれたとか」


 いやだわ、と言わんばかりの仕草で淑妃は珠蘭を横目に見ている。


「子犬が溺れていましたの」

「子犬など捨て置けばよろしいのに、お優しいことですわね。皇太后さまはお怒りだったとか」

「えぇ、せっかくの生誕祝いでしたのに、気分を害させてしまったことは申し訳なく思っております。わたくしもたっぷり叱られてしまいました」


 少しおどけたように言うと、淑妃は口元を隠してふふっと笑った。

 皇太后も淑妃も、子犬の命などまったく気に留めない。そのことに溜息をつきたい気分だったが、なんとか抑えて笑顔を作った。


「そういえば皇后さま、こちらにいらして大丈夫なのですね」

「え?」

「昨晩、皇太后さまが体調を崩されたでしょう?」

「そうなのですか?」

「あら、もしかして、まだお聞きになっていなくて?」


 自分が優位であるかのように振舞う淑妃の態度は鼻につくが、それはいつものことだ。今はそんなことにはかまっていられない。淑妃に状況を教えてもらえるように尋ねる。


「皇太后さまが口にされたものに、何か混入していたのではないかと、今調べているところですのよ」

「皇太后さまの体調は?」

「昨晩から朝にかけて良くなかったそうですけれど、今は落ち着いていらっしゃるとか。それにしても、毒物でも出たらと思うと怖いですわね」


 淑妃は話しかけてきた四歳の子に花を一本渡してやり、侍女に預けた。そしてあからさまに眉を下げて珠蘭を見た。


「わたくしは皇后さまがそんなことをなさるとは思っておりませんけれど、何か沙汰があるのではないかと心配していましたのよ」

「そんなこと? まさかわたくしが皇太后さまを害したと?」

「いいえ、だれもそのようには思いませんわ。ですが、皇后さま主催のお祝いでしたでしょう」


 あくまでまだ調査中のため何とも言えないが、とりあえず主催者であった皇后は何かしらの責任を取らされるだろう、というような話だった。


「淑妃、教えてくれたことに感謝しますわ」

「いいえ、もちつもたれつですもの。陛下のお怒りが皇后さまに向かないことを祈っておりますわ。それでは、わたくしたちはこれで」


 完全に言葉通りには思っていない顔をしながら優雅に礼をして、淑妃は子と池に向かって行った。


「雲英、すぐにお見舞いに行った方がいいかしら?」

「おやめください。まだ本調子でないところに行けばかえって迷惑になります。それに娘娘は昨日皇太后さまを怒らせているのですよ。具合が悪い時に怒っている相手の顔は見たくないものではございませんか」

「そのとおりね。余計に具合が悪くなってしまいそうだわ」



 珠蘭が急ぎ長明宮に戻ると、皇帝からの使いだという宦官が待っていた。


「皇太后さまの件ね?」

「さようでございます」

「陛下は何と?」

「まだ調査中のため詳しい沙汰が下ったわけではございません。お祝いが皇后さま主催であったこと、それに加えて昨日皇太后さまの怒りを買ったことを考慮して、五日間長明宮から出ないように、とのことでございました」


 調査の結果次第では変わる可能性もある、と宦官は付け加えた。大人しく謹慎していろ、ということらしい。珠蘭は一つ息を吐いた。


「承知しました、と陛下に伝えてくださる?」

「かしこまりました」


 宦官を送り出すと、珠蘭はドサリと椅子に腰かけた。雲英もそれを咎めなかった。


「五日間、か」


 珠蘭は小さく呟いた。

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