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2-7


「で」

 

 綜士郎は憮然とした面持ちで上座に座している。下座には克樹、皐月、奈月の三名が正座させられていた。

 

「五十槻のやつは気付いていなかったようですが……今晩の諸々のアレやらソレに対する、お三方の魂胆をお聞きしても?」

 

 静かに怒っている綜士郎の前で、皐月は不満そうに、皐月は冷静に、そして当主の克樹は真っ青な顔で俯いている。最初に声を発したのは、克樹だった。

 

「すみません、藤堂さん……! 私たちは、あなたを謀るような真似を……!」

 

 父と姉の目論見は、おおよそ綜士郎が想定していた通りの内容であった。

 

「私は前から、五十槻には婿を取って幸せな家庭を築いてほしかったんです。それで、前々からあの子はあなたを強くお慕いしているようでしたし……」

「あんだけ『とーどーたいい、とーどーたいい』って鳴き声みたいに言ってるのよ! 絶対恋じゃん!」

「うちのかわいい妹をたぶらかした責任は、しかと取ってもらわねばなりません」

「ちょっと黙っていただいてよろしいでしょうか、お姉さまがたは!」

 

 この姉妹がいると話の腰が折れる。綜士郎が一喝すると、皐月と奈月はむむっと押し黙った。

 そして父の正直な告白は続く。克樹はうぅっ、とときおり声を詰まらせながら語った。

 

「五十槻ももう十六です。まっとうな女子として育っていたなら、もう結婚できる年だ。それなのにあの子は、禍隠相手に危険な仕事に従事させられている。軍人として」

「…………」

「去年、私は正式な嫡男が生まれたことをきっかけに、五十槻に軍を辞めさせようとしました」

 

 綜士郎もそれは覚えている。五十槻の性別の秘密を知ることになった、きっかけの出来事だ。少女は女子である事実を隠していたことにいたく罪悪感を覚えていたらしく、慙愧のあまり切腹するところだった。

 いま思えば、性別のこと以上に──軍を離れさせられるという状況が、彼女には耐えられなかったのかもしれない。自分の存在理由を、神域(ひもろぎ)の内に見出しているような精神の持ち主だから。

 

「しかし結局受け入れられず……あなたもよくご存じの通り、五十槻はいまだに陸軍の将校をやっている。華族の特権を使うにしても、あと二年も待たなければならない」

 

 八朔克樹は、結局知らされていないようだ。五十槻の身柄はもはや、生きている限り永久に皇国陸軍麾下にあるということを。

 五十槻、すなわち八朔の神籠は、八洲の安寧に必要不可欠な異能。禍隠を出だす羅睺の門を閉じることのできる、現状唯一の神籠である。羅睺蝕などという恐ろしい現象の発生が控えている以上、彼女の神籠は国に必要とされるし、五十槻自身もそれをよしとしている。

 けれど、親からしてみれば、やはり──。

 

「私は到底そんなに長い間待てません。櫻ヶ原のときも、神祇研のときも、あの子は酷い怪我を負って帰ってきた。このまま神事兵の身分でいれば、いずれ命を落としかねない。だから……!」

 

 綜士郎は父親の吐露に共感し始めていた。しかし。

 

「だから好いた男と結婚すれば、あの子もさすがに軍を辞めると思って!」

「んん?」

 

 急に雲行きが変わった。父の主張はそのまま暴走し始める。

 

「私としてはデキ婚を狙ってたのに! だのになんで今日あの子に手を出してくれなかった、藤堂さん!」

「おいおいおいおい!」

 

 言うに事欠いて何を言っとんじゃこの親は。度肝を抜く発言に、綜士郎はただ愕然としている。大事な娘ではなかったのか、この人たちにとって。

 けれど克樹の弁は、あながち理性を失した言い分というわけでもなかった。

 

「うまいこと五十槻が妊娠して、神域(ひもろぎ)に立てなくなれば……もうあの子は従軍しなくていい。さすがにその状態の人員を、軍も在籍させておくわけにはいかないはずだ。なにせ、五十槻の性別を隠して軍務を強いているのだから……!」

「だからって……」

 

 綜士郎は何も言えなくなった。たしかに五十槻本人の意思を無視して綜士郎と娶わせようとしたのは、情状酌量の余地もない愚挙ではあるけれど。

 父は続ける。もともと泣き上戸のこの男は、いつの間にかはらはらと頬に涙を伝わせている。

 

「五十槻は、あの子は……あの子の言動は、まるでかつての達樹を見ているようだ。きっと、香賀瀬さんの元でそう育てられて……」

「八朔さん……」

「香賀瀬さん、いや、香賀瀬のもとであの子は、きっと幸せじゃなかったはずだ。私は、娘が笑ったところを見たこともない。香賀瀬はあの子から笑顔を奪い、泣き方を奪い、怒り方を奪い……ただの従順な操り人形にしてしまった。あの子はあの人をただの一度も悪く言ったことはないが、親の私には分かるんだ!」

 

 さすがに血のつながった肉親だ。克樹だけでなく、皐月や奈月も面を伏せて涙をこぼしている。香賀瀬修司の行いは──五十槻が打ち明けなくとも、親兄弟には透けて見えている。

 

「私にとって達樹はよき弟だった。しかしあの男が五十槻に、達樹の振る舞いを強制している。そうして育てられたんです、きっと。あの子は」

 

 綜士郎は先刻、夕食の席での克樹の言葉を思い返す。五十槻の言動は、八朔達樹に酷似しているという発言だ。

 青年は香賀瀬と八朔達樹の関係を知らない。だから、それ以上詮索のしようもなく。

 克樹は時折歯を食いしばりながら、慄いた面持ちで続けた。

 

「いまのあの子を見ていると、まるで……達樹の亡霊が五十槻に憑りついて、連れ去ってしまうんじゃないかと思えてしまう。達樹は、達樹は──神域(ひもろぎ)の内で、片腕だけ残して死んだ! 私は五十槻まで、そんな惨い死に様を迎えてしまったらと思うと……!」

 

 父はそう言って、うずくまってすすり泣いた。

 綜士郎は納得した。五十槻の生い立ち、香賀瀬修司、神籠の将校としての使命。八朔達樹と、その壮絶な死に様。家族の目から見て、八朔五十槻を取り巻く事象は、彼女の人生を歪め、その生命を奪い去ってしまいかねない事物ばかりで構成されている。

 だから彼らの行いも歪んでしまった。娘を愛し、思っているはずなのに、彼女の意思を置いてけぼりにした。

 

「……落ち着いてください、八朔さん」

 

 綜士郎の呼びかけは、いつのまにか「御当主」から「八朔さん」に変わっている。ひとりの娘を救いたく思う気持ちは、対等だ。

 

「まず、あなた方は……据え膳に飛びつくような男が大事な娘さんの婿になって、本当に満足ですか?」

「そ、それは……」

 

 青年の冷静な正論に、克樹は「うぐっ」と声を詰まらせている。

 

「みなさんのお気持ちは分かります。俺は五十槻が部隊に配属されてからの付き合いですが、あいつが歪な環境で育ったことは、なんとなく察しています。性別を偽っていると聞いたときは本当に驚いた。五十槻は赤子の頃から、あなたたち家族と引き離され、男として育てられた……そうですね」

 

 家族が揃って頷く。綜士郎はすっかり酔いの醒めた頭で、慎重に言葉を考え、選び、発言する。五十槻は神祇研での出来事を、家族には秘密にすると決心している。少女の選択を無下にしないためにも、不用意なことは口にはできない。

 

「本来は女子として養育されるべき子どもが、男として、軍人になるべく教育されてきた。だから五十槻は、自分の性別に対してきっと、複雑な思いを持っているはずです」

「それは……」

「そうかもね……」

 

 姉妹は顔を見合わせて納得している様子。綜士郎は続ける。

 

「俺は──生まれ持っての性別と違う性別を強要されたあの子に、到底ふつうの恋愛ができるとは思いません。子どもを宿すような行為に対して、忌避感を持っていてもおかしくはない。仮に、もし俺があいつにそういう欲を持っていて、今晩あなた方の企み通りに五十槻にそういう行為を強いていたら……あの子は、とてつもなく深く傷ついたと思います」

「あ……うぅ……」

 

 克樹がぐす、と鼻を鳴らした。すすり泣く声は、自責の念のためか、ほとんど呻き声に近くなっている。

 

「たしかに五十槻は俺を信頼してくれています。けれどそれはたぶん、俺があいつに対し、不埒な行いを絶対にしないという確信のもとでの信頼です。俺たちの間にあるのは、恋愛感情じゃない。ただの上官と部下の間にある──信頼です」

 

 綜士郎の口調は真剣だった。思いつめすぎたこの家族を、なんとか正道に引き戻さねばならない。そもそも五十槻自身も、自分の意思で家族の元から通勤する希望を出している。つまり、彼女だってここを居心地のよい居場所だと認識しているのだ。お互いに愛情があるのだから、こんなことですれ違いを生んでほしくはない。

 

「ご家族が心配されるのも、無理もないことです。たしかに俺たちの仕事はいつ死んでもおかしくないし、身体の欠損や不具になることも間々あるような職務内容だ。そんな場所に十六歳の娘さんをお預かりしているのですから。俺だって人事権があれば、十代の子どもなんてなるべく戦場から遠いところへ置いてやりたい。しかし、残念ながら陸軍上層はしばらくあの子を退役させないでしょうし、五十槻自身も神籠の将校である自分に価値を見出している。自分から神域(ひもろぎ)を去ることはしないでしょう。でも……」

 

 綜士郎はいったん言葉を切る。

 

「こんな状況には、俺だって納得していない。でも、あいつはそうじゃない。五十槻は──神域(ひもろぎ)の内で、神籠として戦うことを何よりも望んでいる」

 

 そして、綜士郎は頭を下げた。誠心誠意、心からの本心で言葉を紡ぐ。

 

「微力ながら、俺があいつの生命を守るために力を尽くします。部下の生命を最優先することは、部隊の長の務めですから。だから五十槻に、あいつの意思を顧みない将来を押し付けるのはやめてやってください。何卒……」

「藤堂さん……」

「……とはいえ、俺は二度も五十槻を危地へ遣らざるを得ませんでした。説得力に欠けるとは思いますが……」

「…………」

 

 家族と軍人との間に、しばらく沈黙があった。

 

「……顔を上げてください、藤堂さん」

 

 克樹の声に促されて、綜士郎は畳から頭を上げた。五十槻の父の、泣いている顔と目が合った。後ろで姉妹も袖で目元をぬぐっている。

 

「私が間違っていました……親として、娘に取り返しのつかないことをするところだった……」

 

 心からの反省の弁だった。父は頭をもたげて、畳に涙の雫を落としている。

 克樹の様子に、綜士郎はやっと肩の力を抜いた。説得は成功だ。どっと疲れが押し寄せてくる。

 安堵するとともに、ふと我に返る。なぜ自分はこんなトンチキな一夜を過ごしているのか。無自覚色仕掛けをかいくぐった挙句、こんな熱弁を奮うことになろうとは。皐月に蹴られた腰もまだ痛い。

 克樹は目じりの涙をぬぐいって、晴れ晴れとした笑顔で言った。

 

「承知しました、藤堂さん……私たちは、大事なことに気付かされました。そうですね、たしかに……五十槻自身の意思が……」

 

 噛み締めるような達樹の言葉に、綜士郎が安堵の微笑を浮かべかけたときだった。

 

「そういうことでしたら、今後は五十槻にはしっかりと女子としての情操教育を施し、順序を追ってあなたへの恋愛感情を育んでもらうことにします!」

「八朔さん、ちゃんと話聞いてたか!?」

 

 綜士郎は愕然とした。おのれこのおっさん、なんも分かっちゃいない!

 青年は全力で心の底からそう思うけれど。

 

「もちろん聞いておりましたとも! いやぁ、こんなにもあの子のことを思ってくださって……! あなたのような立派な婿に五十槻を娶ってもらえれば、うちとしましては万々歳、後顧の憂いも断たれるというものです!」

「いや、だから! 俺も五十槻も、別にお互いそういうんじゃ……!」

「またまたー! 童貞のくせに見栄張ってんじゃないわよスットコドッコイ!」

「そこまで強く妹を思ってくださってるということは、つまりそういうことですわね」

「だーかーらー!」

 

 やばい。何も分かってくれていない!

 綜士郎は頭を抱えた。この家族は──どうあっても、五十槻に女子としての道を歩ませたいらしい。

 肝心の娘の気持ちも置いてけぼりのまま、盲目である。

 

「藤堂さん。我々はあなたを信じます! あの子が立派な令嬢になるまで、軍営では何卒よろしくお願いいたします!」

「いやまあ、部下としてなら命かけてあいつを守る所存ですがねえ!」

「五十槻がいっぱしの淑女になった暁にはぜひ、かわいい稚児(ややこ)を! 理不尽を強いた陸軍を見返すためにも、式は盛大にいたしましょう!」

「い、いや、もう……ばっ、ばかたれーっ!」

 

 綜士郎のこんなに力のないばかたれも珍しい。

 そのときだった。

 不意に離れの玄関がガラッと開いた。戸を開く音は、明らかに怒っている。

 

「あ……」

「五十槻……?」

 

 離れにずかずかと入ってきたのは、五十槻だった。風呂を済ませたのか、いつもの短髪に、寝間着らしい浴衣を着ている。珍しく少女の顔は真顔ではなく──怒りが満ちている。

 

「い、五十槻。部屋で休んでるんじゃなかったのか?」

「いつまでも父上や姉さま方が母屋に帰って来ないので、母上から呼びに行くよう仰せつかりました」

 

 五十槻は荒々しい足取りでこちらへ近づいてくる。

 父からの問いに応える淡々とした口調にも、明らかな憤りがにじんでいた。どこからかは分からないが、おそらく外で会話を聞いてしまったのだろう。頼むからデキ婚のくだりは知らずにいてくれ、と内心で祈る綜士郎である。

 

「父上も姉さまたちも、夜も遅い時間に、どうして藤堂大尉を困らせていらっしゃるのです! 夜中に大声でしゃべっていらっしゃるから何かと思えば……なんなのですか、大尉に僕を娶らせるとは!」

 

 綜士郎の隣へどっかりと座りながら、五十槻は憤慨の面持ちを家族へ向けた。

 

「いや、あのね五十槻……」

「私たちね、あなたのことを思って……」

「どこが僕のことを思ってですか!」

 

 一喝。本当に珍しいことである。八朔五十槻が激怒している。獺越万都里、および香賀瀬修司への激怒以来、五ヶ月ぶりだ。

 

「先刻もお話ししたはずです。藤堂大尉は、結婚をしないと心に決めていらっしゃる。この方の生い立ちにまつわる、重大な信念です。それを穢すような言動は、いくら僕の家族とはいえ許しがたい──!」

「お、おい五十槻。別にいいって」

「よくありません!」

 

 乱入以降、五十槻は場を圧倒している。神域(ひもろぎ)が張られているわけでもないのに、部屋の中の空気はピリピリと張り詰めていた。

 

「それに。いいですか、父上、皐月姉さま、奈月姉さま。僕には女子としての教育なんか必要ありませんし、恋もしないし、もちろん結婚だってしません。そ、それに……子どもを作るような行為なんて……絶対に!」

 

 叫ぶように言葉を紡ぎながら、五十槻は膝に置いた手をぎゅっと握りしめている。その拳が少し、震えている。

 

「おかしいと思いました。親睦を深めるなんて名目で、僕を入浴中の大尉のもとへ行かせたり、同室で床に就かせようとしたり……でも、僕は、父上や姉さまたちの言うことなら、間違いないと思って……なのに!」

 

 怒りに震える五十槻の隣で、綜士郎は長い吐息をついた。軋轢が決定的になりつつある。

 向かい側では勝気な長女の皐月が、キッと末妹を睨みつけていた。

 

「でも五十槻! あなたこのまま、軍人なんてやってて……それでいいと思うの!? 死んじゃうかもしれないのよ!? 達樹叔父さんみたいに!」

「本望です!」

 

 もはや……いや、最初から五十槻は八朔家の令嬢なんかではない。皇国陸軍神事兵少尉、八朔五十槻である。妹の返答に、勝気な姉は泣きそうな顔を浮かべている。

 

「神籠じゃないあなたたちには分からない……! きっと達樹叔父さまも本望だったことでしょう。同じ八朔の神籠である僕には分かる!」

「でも五十槻、私たちね、あなたには、普通の女の子としての幸せを……」

「いったい、姉さまも父上も、誰を見ながら話をしているのです?」

 

 激昂を無理に抑えつけながら五十槻は続ける。もはや綜士郎は見守るしかできない。

 

「あなたたちが見ているのはあくまで、女性らしく育った理想の僕の姿。どうして、いまの僕を見てくれないんですか。どうして軍人である僕を受け入れてくれないんですか。どうして、神籠である僕を……」

「五十槻……」

「ありのままの僕を受け入れてくださるのは、藤堂大尉だけです」

 

 そう締めくくると、五十槻は綜士郎へ向き直った。怒りの残滓で少し紅潮しているが、いつもの真顔を精一杯浮かべている。

 

「夜分にお騒がせして、申し訳ありませんでした。今日はゆっくりお休みになってください」

 

 そう深々頭を下げて、五十槻は立ち上がる。肉親たちへは一顧だにせず、冷たい一言を投げつけて。

 

「さあ、みなさんも早くご退去なさってください。僕は先に戻ります」

「い、五十槻……待っておくれ」

 

 慌てて父親が追いすがる。克樹がそっと掴もうとした手を、五十槻はパシンと強めに叩き落とした。

 

「ひとりにしてください。いまは顔も見たくない」

「そんな、五十槻……! おやすみのぎゅうは!?」

「しません!」

 

 やりとりをしながら、親子の会話が遠ざかっていく。皐月と奈月の二人も、「し、失礼しました……」とすごすご離れを出て行った。

 しん、と急に静まり返る部屋。綜士郎は壁掛け時計を見上げた。深夜一時を指している。

 

「……寝るか」

 

 もう何も考えたくない、と思う綜士郎であった。


      ── ── ── ── ── ──


 翌朝。

 獺越(おそごえ)万都里(まつり)は八朔家近くの辻で、五十槻を待ち構えている。ここ最近の彼の日課である。

 同期の少年が自宅からの通勤を初めて以来、青年もこの近辺を通勤経路に組み込んでいた。しかし万都里の下宿の位置を考えると、このあたりに寄るのは彼にとっては盛大な遠回りである。おかげで毎朝とんでもなく早起きしなければならないし、長い距離を歩かねばならない。

 それでも毎朝、「おはようございます、獺越さん」の一言が聞きたくて。

 

(よぉハッサク、今朝も奇遇だな! いや、もっと爽やかにだな……)

 

 青年は心の中で予行演習に余念がない。こんな感じで毎朝偶然を装って、同期の自宅周辺に出没しているわけである。精一が知れば爆笑必至であろう。

 

「よ、よし……!」

 

 万都里は今日の第一声をしかと決めると、その辺のお宅の生垣付近に身を潜めた。いつもこのあたりで、五十槻の足音がするのを待っている。

 果たして、彼方から規則正しい足音が聞こえてきた。聞きなれた歩調に、万都里は意を決して生垣から飛び出そうとする……けれど。

 

「よ、よぉハッサ……」

 

 準備していた台詞は途中で止まる。

 五十槻の足音と一緒に、もう一人分の軍靴の音が聞こえてきたからだ。

 

「……すみません藤堂大尉。ただでさえお疲れのところ、遅くまでご無理をさせてしまって……」

「まったく、正直寝た気がしないな……。くそっ、まだ腰が痛ぇ……」

 

 初夏の朝日の中を、連れ立って歩く長身と華奢の二人組。

 五十槻は心配そうに綜士郎へ視線送っていて、その綜士郎は腰をさすりながら歩いている。

 

「…………」

 

 飛び出そうとした体勢のまま、万都里は固まった。

 ご無理。寝た気がしない。腰痛。漏れ聞こえる語句は、いずれもいかがわしい。

 そもそもなぜ、綜士郎は五十槻と一緒にいるのだろう。それも朝っぱらから、そろって八朔家の方角から現れて。

 ふたりは万都里に気付かず、肩を並べて歩いている。

 

「……そういえば、今日は獺越さんいらっしゃらないのかな……。最近、毎朝偶然このあたりで会うんです」

「はぁ? あいつの下宿ここから逆方向だぞ?」

 

 遠ざかっていく五十槻と綜士郎の背中。石像のように静止したまま呆然としている万都里を、行きかう人々は「お母さん、軍人さんが変な格好で死んでるよぉ」「こらっ、指ささないの!」などとやり過ごしている。

 

「…………は?」

 

 白皙の青年の混乱をよそに、お天道様はきらきらとした陽光を街に降らせている。慌ただしく人と物が動く早朝の街中で、万都里だけがコチンと固まったまま。

 そして結局その日、万都里は遅刻した。

 また彼の誤解を解くのに、のちのち綜士郎が散々苦労したことは言うまでもない。

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