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1-1 椋野山


 むかしむかし。

 泥のように混ざりあっていた天地(あめつち)をいまのように別たれたのは、恒日大神(トコヒノオオミカミ)さまであらせられます。

 大神は天には神々の住まいである天津㝢(あまつのき)を築かれ、地上である四海内(よつみうち)を人間の住処(すみか)とされました。

 人々は神々のお守りくださる四海内で、しばし平穏な時を過ごしておりました。

 けれどあるとき、四海内に黒い獣の群れが現れます。いまでは禍隠(まがおに)と呼ばれている悪鬼たちです。

 禍隠は剣でも弓矢でも傷つけることができず、四海内の人々は日々彼らの害に苛まれるばかり。

 これを見かねた恒日大神は、人々の祈りを受け、ご自身の御子を地上へ遣わされます。

 降臨された御子は人々へ、禍隠を退治するためのお力──神籠(こうご)をお授けになりました。

 そして御子はこのようにおっしゃったのです。

 

──天津㝢に住まう天神(あまつがみ)、四海内に宿る地祇(くにつがみ)。それら八百万の神々の力を、汝らに貸し与えましょう。私が子々孫々、伝え受け継ぐ神域(ひもろぎ)の内でのみ、力を使うことを許します。

 

──禍隠を討ち滅ぼす、その日まで。


~「八洲神代記(やしまかみよのき)」より


      ── ── ── ── ── ──


 八洲の蒼生(あおひとくさ)が千年以上待ち続けたその日を、八朔(ほずみ)五十槻(いつき)は本気で手繰り寄せようとしている。

 五十槻の紫の瞳がいま見ているのは、山中に降り注ぐ豪雨の景色だ。まっすぐに望む山容は雨に煙っている。

 ざんざんと篠突く驟雨(しゅうう)の中、雨水を吸った軍服が重く身体に纏わりついている。地面を踏みしめる度、長靴の中に入り込んだ水がぐじゅりとした感触をもたらし、不快だ。煙った視界の中、降りしきる雨をこらえるかのように、木々の群れは樹冠を重く俯かせている。

 皇都郊外、椋野(むくの)山。皇都十二区西側の酉西(ゆうさい)区に隣接する山で、近隣住民もあまり近寄らない鬱蒼とした場所だ。ただでさえ日中もあまり陽光の差さないこの土地の上にどんよりとした黒雲が覆いかぶさり、七月の強雨を降らせている。

 

「門の位置は、ここから南南西に十町ほどの雑木林の中にある。……おそらく」

 

 雨の中、五十槻の傍らから聞きなれた声が落ちてくる。藤堂(とうどう)綜士郎(そうしろう)はこめかみを抑え、少々渋面を作りながら五十槻へ状況を述べた。

 皇都周辺に出現した門は、櫻ヶ原以降これで四つ目だ。五十槻たち第一中隊の面々がこの山林に足を踏み入れているのは、無論、『羅睺(らごう)の門』出現の報を受けたからである。

 

「門の周囲にはすでに禍隠が出現しているようだ。周辺にそれっぽい気配がある」

 

 綜士郎は神籠を使って、神域(ひもろぎ)内の状況を確認しているのだろう。彼の神籠は大気を媒介に、神域中のありとあらゆる構造を探知できる大変有用な能力だ。しかし今日の綜士郎はやたらと推定の表現を使い、断定の言葉に乏しい。まるで能力が鈍ってしまったかのようだ。

 事実、綜士郎の神籠は雨天の中、鈍っていた。五十槻にも理由は理解できる。降りしきる大雨のせいだ。大量の雨粒が香瀬高早神(カゼタカハヤノカミ)の神籠を阻害している。

 

「……やれやれ。こう大雨だと、明確に状況が掴めないな」

「いえ、充分です。藤堂大尉」

 

 (かぶり)を振って、五十槻は敬愛する上官を見上げた。薄暗い雨模様の中、綜士郎からはいつものように案じるような視線が返ってくる。若干顔色が悪い。悪条件の中、無理に探知の異能を使おうとしているからだろう。

 彼の神籠は身心にかかる負担が大きい。特に神域内の空間に物体──今日のように雨粒など──が無数に存在する場合、それだけ綜士郎の探知の異能は大幅に能力を制限される。

 

「すでに(きのえ)と崩ヶつえがたに獺越(おそごえ)が先行して禍隠を包囲している。禍隠の連中、おそらくはまだ神事兵の到来に気付いていない」

 

 綜士郎は状況の解析を続ける。

 山中に佇んでいるのは、五十槻と綜士郎の二人ばかりではない。綜士郎の先の言葉通り、この椋野の山に発生した『門』の付近には、先行部隊として、(きのえ)精一(せいいち)伍長、崩ヶ谷(つえがたに)黄平(こうへい)中尉、獺越(おそごえ)万都里(まつり)少尉の三名が身を潜めている。

 また、五十槻たちが現在いるあたりにも簡易の天幕が張られ、式哨(しきしょう)や軍医が数名詰めていた。人員のほとんどが、神事兵連隊麾下の将兵で構成されている。しかし。

 

「まあ、よく降る雨ですこと」

 

 雨中の深山に似つかわしくない、おっとりとした柔らかい声が会話に割って入った。聞こえてきたのは女性の声だが、濡れた落ち葉を踏みしめる足音は二人分。

 相合傘で現れたのは、美女と老人の二人連れである。両人とも、中隊の所属ではない。

 

清澄(きよずみ)博士と、それから……」

 

 美女の方は清澄(きよずみ)京華(きょうか)だ。相変わらずの太華の旗袍(チーパオ)の上に、白衣を羽織っている。

 彼女は五十槻の友人、清澄(きよずみ)美千流(みちる)の姉である。隣国・太華の大学院で神籠の研究を行っていた経歴を持つ。現在は陸軍神祇研究所に研究者として籍を置いている。

 彼女と連れ立って歩いているのは、白衣を着た隻眼の老爺だ。年齢はおそらく七十には達しているだろう。腰は曲がり、杖を掴む手はぷるぷると震えている。頭髪はほとんどない。申し訳程度に、側頭部に白髪が残っている。

 なによりも彼の容貌でひときわ目を惹くのは、右目にあてた眼帯だ。よほどひどい状況で片目を失ったらしく、眼帯からはみ出るくらい大きな傷跡が残っていた。

 

「所長、足元お気をつけて」

「そうは言ってもこけちゃいそうだよ。京華ちゃん、おっぱい掴まってていい?」

 

 よぼよぼしながらの助平(すけべ)な確認に、京華は顔色ひとつ変えず、「うふふ」と微笑みを保ったままバツーンと禿げ頭をひっぱたいた。やりとりにこなれた感じがある。老爺の好色な言動も、京華のおっとりと容赦なくひっぱたく制裁も、ふたりの間ではどうやら毎度のことらしい。

 

「南桑博士」

 

 五十槻は呼びかけつつ、咎めるような視線を老爺へ送った。綜士郎も呆れたようにため息を吐いている。

 雨の中ぷるぷるしている老人へ、五十槻は続けた。

 

「女性へ向けて猥褻な言動をなされるのは如何なものかと存じます。何卒お慎みください」

「なんだなんだ、八朔の小童はがきんちょのくせに、堅物だわいな!」

 

 老人──南桑(なぐわ)陣吉(じんきち)博士は不満そうにむくれて見せた。この老爺が、香賀瀬(かがせ)修司(しゅうじ)に代わる、新たな神祇研究所所長である。

 

「まったく娘っこみたいな顔しやがって……尻揉んでやろうか!」

「で、何かご用事があっていらっしゃったのですか、南桑所長に清澄博士」

 

 すっと綜士郎が五十槻と老人の間に割って入った。大尉の顔には思いっきり「このクソジジイ!」と書いてある。

 

「あのですね、南桑所長。すでに敵地へ先行している部下がいます。なるべく早く作戦を終えたい。ご用件なら手短に願います」

「はんっ、顔はいいのに不愛想なやつ! 京華ちゃん、わしの代わりに訊いといて!」

「承知しましたわ」

 

 説明役を振られた京華は、おっとりにこやかなまま神祇研からの質問を述べる。

 

「神祇研から藤堂大尉への確認です。何度かこの椋野の山を神籠で探知なさっていらっしゃるかと思いますが、何かしら古びた人工物などが周辺に無いかお聞きしたくて」

「古びた人工物?」

 

 京華の問いかけに、綜士郎は少し思案するような面持ちを浮かべている。どうやらまた神籠を使っているようだ。少しの間無言を保ったのち、綜士郎は口を開いた。

 

「……悪いが、この雨だ。たしかに門の周囲に、切り出した石材だとか廃屋らしきもののような、人工物らしきものはあるようなんだが……風化の程度については、いまは分からん」

「まあ、香瀬高早神(カゼタカハヤノカミ)の神籠にも意外な弱点があるものね。雨の日だと性能ガタ落ち」

「ったく、肝心なときに役に立たん! ただでさえ雨で古傷が疼いてイライラするっちゅーに……。しょうがない、門の破壊が終わって雨が止んだら、実地調査するしかないなぁ」

 

 南桑老人はずっと失礼である。綜士郎の目元と口元がひくひくと引きつっているが、いまは門の破壊が最優先だ。五十槻はいつものようにまっすぐな眼差しで、上官を見据えた。

 

「藤堂大尉。自分はいつでも出撃できます。ご命令を」

「そうだな、早いとこ門を片付けて、作戦を終えよう。手間取ると甲たちに文句言われる」

 

 五十槻の発言に、新生神祇研に調子を狂わされていた綜士郎も指揮官の顔に戻る。

 

「神祇研のお二人は下がってください。八朔少尉、作戦の概要は頭に入っているな?」

「はっ。自分が神籠を発動し、雷鳴の発生とともに先行したお三方が禍隠に対し攻撃を開始。不意を突いている間、自分が瞬時に門へ到達し、速やかに目標を破壊します」

「結構。破壊後には先行の三名とともに、残党の討伐を頼む」

「はい、身命を賭して!」

「ばかたれ、いちいち身命を賭すな! いいか、怪我せず元気に帰ってこい!」

 

 五十槻は「はっ!」と歯切れよく上官へ応答すると、白獅子(しろじし)の面を取り出して顔に装着した。それから綜士郎が門を検知した場所を正面に見据え、軍刀の柄に手を掛ける。

 少年将校の準備が整ったことを確認し、周囲の式哨が声を張り上げた。

 

神域(ひもろぎ)展開よし! 神籠使用可!」

「近隣住民の避難完了!」

 

 式哨の喚呼を確認し、綜士郎が周囲を見渡して高々と声を張り上げる。

 

「作戦始め!」

 

 五十槻にとっては待ちかねていた言葉だ。綜士郎が背後に距離を取ったことを確認し、少年──いや、少女は刀の鯉口を切る。


──(かけ)まくも(かしこ)祓神鳴大神フツカンナリノオオカミの大前に 神實(かむざね)八朔(ほずみ)五十槻(いつき) (かしこ)み恐み(もうさ)く……


 心中で祝詞を唱える。五十槻の身心に人智を超えた力が満ちていく。雨中に小さな紫電がビリリと走り。

 ごぉん、と雷鳴が鳴り響いた。

 白獅子の将校は一瞬のうちに紫の雷光と化し、椋野の尾根を駆け上る一条の稲妻となった。八朔の神籠が合図となり、さっそく山中に銃声が響き始めた。


      ── ── ── ── ── ──


 彼女が発った後。綜士郎はすぐに式哨を呼び寄せて彼らにこう命じている。

 

「……門から東方向に沢がある。そこに倒れている人間がいるようだ」

「負傷者ですか? 生死は……」

「正確には分からんが、たぶん死んでいる。一応現地の式哨にも式をやって知らせてくれ。それからすまんが、式哨のうち三、四人は担架を準備のうえ、俺に同行してほしい。どのみち山から降ろすのに人手が要る」

「はぁ……でも、藤堂隊長の神籠も、この雨で不調なんでしょう。確認は門へ向かった神籠の皆さんや前線の式哨にお任せするべきなのでは? それこそ、さっき八朔少尉にお願いしとけば……」

 

 式哨は少し不満そうである。せっかく後方でのんびり観戦できると思ったら、禍隠ひしめく前線付近へ連れて行かれるのだから。

 そんな部下の恨みがましい視線を背中で受け止めつつ、「いいから来い」と綜士郎はさっさと歩き始める。

 生死不明のその人体は、門からは少し離れたところにある。普通に門を破壊して禍隠の残党を退治するのであれば、おそらく立ち寄らないような場所だ。

 雨さえ降っていなければ、倒れている人の呼気や呼吸器の動きで確実に生死が確認できたはずだった。けれどいまは、この大雨のせいで靄がかかったように状況が不明瞭だ。神籠に集中する都度、雨粒のひとつひとつが綜士郎の異能を妨げてくる。

 もし沢に横たわる人間が生きていると確証を持てたなら、式哨の言う通り、綜士郎は五十槻に保護を頼んだだろう。しかし、状況が状況だ。禍隠出現地域内に取り残された人間の、生存率はかなり低い。

 おそらくもう死んでいるだろう。禍隠に襲われた者の骸は、往々にして惨たらしいものである。

 

「八朔少尉はまだ子どもだ。万が一にも、子どもに無惨な死体を見せるわけにはいかんだろう」

 

 式哨の「はぁ」という気の抜けた返事を聞きながら、綜士郎はやるせない顔で尾根を登り始めた。

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