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08


「なぁ……トリシア。なんで俺はここに居るんだろうか……?」


「なんでと仰られましても。勉強のためだからとしか言いようが」



 王都の全域が謎の出火によって、甚大な被害を被った翌日。

 シルヴィアは朝食後の午前、トリシアによる授業を受ける破目となっていた。


 本来であれば、語学の習得度が一定水準に達したシルヴィアは、午前の勉強からは解放されているはずでだ。

 だが今は再びフィオネと席を並べ、眼前にうず高く積まれた書籍を前に、頭を悩ます状況に追いやられている。

 そうなった原因は……。



「文字を覚えたと思ったら、次は地理か……」



 シルヴィアには少々、地理に関する知識が不足しているのは事実であった。

 それが今更ながら問題とされたのは、ブランドンとの会話の最中、地図を前にしてついうっかり口を滑らしてしまった言葉によるものだ。


 「俺の領地ってこんな場所にあるのか」と。

 それによってブランドンは、シルヴィアにはまだまだ覚えるべき事柄が沢山あると判断したのであろう。

 故にこの日の朝食後、直前になって急に勉強会への参加を命じられたシルヴィアは、半ば連れ去られるように勉強部屋へと押し込められてしまう。


 隣に座るフィオネは、すこぶる上機嫌だ。

 長く一人で勉強していたため、自分一人ではないというのが嬉しいのであろう。

 その嬉しそうな様子に今更逃げ出す訳にもいかず、大人しく本に向かう以外の道は残されてはいなかった。



「そりゃ確かに、自分の領地の場所すら把握してなかったのは否定しないよ。でもそれは一人で本を読んでれば覚える事であって、わざわざこうやって拘束されてまで勉強を……」


「いいからサッサと進めて下さい。これ以上不満を漏らされるようでしたら、追加で地図の描き取りもしていただきますよ?」


「ごめんなさい、ありがたく勉強させて頂きます」



 この世界の地図が大雑把に作られているとはいえ、写すとなると多大な手間がかかるのは言うまでもない。

 斯様な課題を課せられるのを考えれば、素直に与えられた問題を消化する方が遥かに簡単であった。

 それにジトリとした視線で見下ろすトリシアが、シルヴィアには酷く恐ろしい。

 一応は主人であるはずなのだが、そんな事など構い無しだ。



「とりあえずは、大陸各地方の主要都市と、ここに住まわれている方全員のご領地くらいは暗記していただかないと」


「その知識が役に立つ時が来ればいいんだがな……」


「少なくとも覚えていて損はありませんよ。とりあえずまずは、ご自身の領地について勉強いたしましょう」



 そう言ってトリシアは積まれた本の中から、一際分厚い一冊を取り出し、シルヴィアの前で開く。

 とはいえいつまでも駄々をこねて引き延ばすわけにもいくまい。

 渋々ながらも、シルヴィアはそのうんざりする厚さの本へと向き合った。





 そろそろ陽も沈み始めようかという頃。

 静かな中庭のベンチの上で、身体を倒して休息を取るシルヴィアの姿。

 勉強そのものは午前中だけであったのだが、昼食後も詰め込んだ知識が脳内を駆け巡り、振り払おうとしてもなかなか余所にいってはくれない。

 ある意味でそれはありがたいが、休息の時間にまでそれでは、気持ちが参ってしまう。



「なんだっけ……人口が二万人ちょっとだったか。本当に小さな領なんだな……」



 目を閉じたままで習った内容を反芻する。

 十年以上前の記録ではあったが、シルヴィアの領地はその面積の割には、随分と小規模な領のようであった。

 土地のほとんどが山地と森林に覆われ、人の住む地域は極僅か。

 主要な産業は林業と農業に牧畜。そして小規模ではあるが、希少鋼を算出する鉱山がある。


 あくまでも文字の上での印象ではあるが、シルヴィアには正直田舎であるとしか思えなかった。

 もちろんそれを馬鹿にする気など、毛頭ないのではあるが。



「ヒト種の割合が少ないんだっけか。エルフはもっと少ないけど」



 記された内容によれば、ヒト種が総人口の三割ほど。

 次いで同程度の数の小人族が居り、ドワーフと続いて残りを様々な種族が存在する。

 想像した以上にしっかりとした統計が取られているようであり、それがシルヴィアには少々意外ではあった。




「感心ですな。休憩中も自習なさっているとは」



 ベンチで横になるシルヴィアの頭上から、不意に降り注ぐ声。

 瞼を開けてみれば、そこにはブランドンの姿があった。

 昨日唐突に表れたデルフィーナに続いて、このベンチでは休憩もままならぬようだ。



「そんなんじゃないよ。トリシアの拷問同然な教育のせいで、他のことを考える余裕すらない」


「それは素晴らしい。トリシアには後で労いの言葉をかけておかねばなりませんな」



 横になったままでするシルヴィアの軽口ではあるが、ブランドンは平然と返すばかり。

 確かに彼からすれば、それが事実であったならば好ましい事態なのであろう。

 もっとも、シルヴィアにとっては冗談ではないという想いではあるが。



「ところでさブランドン」


「はい、なにかございますかな?」


「俺の領地だけどさ、ヒトと小人種がほとんどの場所なのに、エルフが領主でいいのか?」


「然程問題はないでしょう。先代のエイラス様もシルヴィア様と同じ種でありましたが、これといって問題になったという話は聞きません」



 そういえばそうであったか。

 当然自身がこちらの世界へと移る前に亡くなった人物だけに、シルヴィアは顔を会わせたことはない。

 だがシルヴィアと同じくアッシュエルフという種であり、九百年もの長きに渡り形式上領主として立ち続けていた。

 問題になるならば、とっくの昔にどうにかなっているはずであろう。



「ご自身の領地に関心を持たれるというのは結構なことです。多少なりと貴族としての自覚を身に着けて頂くには、良い機会かと」


「自覚が身に付くかはともかくとして、まったく関心がない訳じゃないな。形だけとはいえ、自分の領地なんだから」


「見に行かれたいですかな?」


「それは勿論。でも今から行っても、着く頃には夏の最中(さなか)だろう? なかなか思い立ってすぐ行ける距離じゃないな」



 一応は領主という立場ながら、シルヴィアはこれまで一度たりとも、領地へ顔を出せと言われたことがない。

 その理由がまさにこれであろう。

 交通機関などが整備されている訳もなく、移動手段となれば徒歩か馬車。

 膨大な時間と労力が必要であり、そう易々と挨拶に向かうのも難しい。

 特にシルヴィアたちのような精神を召喚された者たちが持つ領は、大陸の端に位置する場合がほとんど。

 中には一度たりとその地を踏まず一生を終える者も居ると、シルヴィアは聞いていた。

 アウグストやハウは自身の領に行った経験はあるそうだが、ベルナデッタなどは一度も無いとのことであった。



「確かに仰る通り、特別な用事でもない限り行かれることはないでしょうな。領地の運営も、代行の者が行っておりますし」



 これもまた、領地に帰らずに済んでいる理由であろう。

 代理として領地運営を行う役人が常駐しているため、そういった面の心配をする必要性がないのだ。

 もっとも、これは王都に住んでいる多くの貴族が同じではあるのだが。



「それに俺なんかが行ったところで、ただの役立たずに過ぎないだろう?」


「なるほど、やはりご領地を見るのはなかなかに難しいですな」


「いや……ちょっとは否定してくれよ……」



 シルヴィアには農地改革を行えるだけの知識も、この世界で画期的な鉱山での採掘技術の提供もできない。

 かつてシルヴィアの友となった少女も言ってはいたが、ただの一般人が異界に行ったところで、そう易々と発展を促す事など出来はしないのだ。




「ではそんなシルヴィア様に、これは丁度良い品やもしれませぬな」


「……ん?」



 ブランドンがそう言って懐から取り出したのは、布に包まれた細長い物体。

 それを両手に持ち、恭しく片膝ついて差し出す。

 シルヴィアは身体を起こして立ち上がり、それを受け取る。



「……これは?」


「ご覧になってください」



 促されて布を剥ぎ取ると、中から現れたのは一振りの短剣であった。

 これといって華美な装飾が施されてはいないが、シンプルながらも品の良い意匠であり、作りの良さが窺える。

 鞘から抜いてみると、現れたのは随分と黒みがかった刀身。



「デルフィーナ様から下賜された品です」


「これを……デルフィーナ様が俺に」



 軽く振ってみると思いの外軽く、非力なシルヴィアの腕にも負担は少なそうではある。

 一見するとその色は、包丁などに使われるダマスカス鋼を濃くしたものに似ていると思えるが、それとは異なり波紋も浮かんではいない。

 鉄や銀にも見えず、一体何の金属であろうかとシルヴィアが考えていると、ブランドンはその疑問を悟ったようであった。



「こちらはシルヴィア様のご領地で産出される、特殊な鉱石を鍛え上げた逸品です」


「それで俺に丁度良いってことか……。でもいいのか? こんな良さそうな物を」


「デルフィーナ様が、親交の証として贈られたのです。遠慮なく受け取られてよろしいかと。それに昨日の一件で、これ以上ご自身の短剣を使われるのは難しいかと」



 ブランドンの言う通りだ。

 昨日シルヴィアに襲い掛かった男の一撃により、シルヴィアの持つ短剣の刃は大きく刃こぼれしてしまっていた。

 研ぎ直すことは可能だが、強度が落ちてしまっている可能性は否めない。

 あくまでも脅し用の安物であったので、致し方ないとも言える。



「それじゃあ……有り難く。デルフィーナ様にお礼を言っていたと伝えてくれないか」


「賜りました」



 ブランドンは了承の意を告げると、一礼して屋敷の中へと戻っていく。

 その背を見送った後で、シルヴィアは周囲を確認し、再び何度か抜身の短剣を振るってみた。

 握り手部分の形状によるものか、それとも軽い刀身のおかげか。

 幾度か振っていくうちに、素人なりにも徐々に馴染んでいく感覚が得られる。



「良い物を頂いた。デルフィーナ様、感謝します。……って、これ口止め料とかじゃないよな……?」



 昨日デルフィーナから聞いた、というよりも聞かされた、爆弾発言の数々が思い起こされる。

 あの中のどれか一つでも漏れれば、さぞかしマズイ状況に追い込まれることであろう。

 シルヴィアの発言が信用されるかはともかくとして。


 そんな冷や汗をかく体験ではあったが、思い出せばどこか愉快であったようにも思えなくはない。

 フッとシルヴィアは笑み、短剣を鞘へと納める。


 とりあえずは携帯し易いように、革のベルトでも取り付けるべきであろう。

 裁縫の類が苦手であるシルヴィアは、トリシアの腕を頼りに、夕暮れに染まる中庭から屋敷へと戻っていくのであった。

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