09
シャッ シャッ
調理場の一角。
そこで執事のブランドンは、砥石を使い小さなナイフを研いでいた。
この後でシルヴィアが唯香の髭を剃るために使う、髭剃り専用のナイフだ。
唯香が使うたびに怪我をしていた代物は、お世辞にも使うのに適していたとは言い難い。
その形状や所々にある刃こぼれといった要因もあり、それを人に対して使うのは躊躇われた。
「切れ味が悪いと、逆に怪我をいたしますので。お互いに」
とはナイフを研ぎ続ける執事の言い分だ。
夕食前に唯香との約束について相談した相手はトリシアであった。
ただ彼女もまた、そういった行為は経験がなく、自然次に話をする相手はブランドンとなる。
調理場で食事の支度をするブランドンへと相談すると、専用のナイフがあるとの話を聞けた。
食後に片づけを終えてから、しばらく使われていなかったそれを、ブランドンは念入りに手入れする。
何か手伝うことがあるだろうかと問うも、問題ないと言われるばかり。
だがシルヴィア自身は、それをありがたいと思う。
消毒のために使う湯を沸かすのでさえ、どうやって良いのかがわからない。
なにしろガス火などというものが存在する訳もなく、火を熾すことすら出来ないのだから。
「火は……魔法で点けたりしないんですか?」
小さな火打ち石を打ち合い、火種へと点けるブランドンの背に問う。
ここまでの数日で見た魔法らしいものといえば、屋敷や上街区の通りで照明に使われているものくらい。
だがこの世界では確かにそういったものが存在し、それを使えば色々な行為が楽になるはずであった。
故にシルヴィアがそういった疑問を抱くのも、当然と言えば当然なのであろう。
「火に関する術の多くは、法によって禁じられております。許可されているのは、軍や騎士団などの組織に属する者くらいです」
「そうなんですか? それはまた何で……」
「防犯や防火上の問題でしょうな。便利であると同時に、悪用され易く攻撃性の高い性質ですので」
次いでブランドンは、他にも理由はあるのでしょうがと呟く。
若干含みを持たされたその物言いに、あまり大っぴらには出来ない事情が存在するのであろうと推測する。
熾した火で湯を沸かすと、ブランドンは研いだナイフを浸して消毒する。
いつの間に用意していたのであろうか、柔らかく清潔なタオルを数枚と、この世界では高価であるという石鹸を一式、纏めてトレーの上に置く。
シルヴィアはここまで頼んではいないのだが、言わずとも必要と思われる物を全て用意してくれたようであった。
流石は執事の職に就く人物だと感心し、感謝の言葉を告げる。
「すみません、何から何まで用意してもらって」
「構いません。それにシルヴィア様は、こういった事をなされた経験がおありではないのでしょう?」
「ええ、正直なにをどうしていいのか」
「まずはしっかりと必要な物を準備すること。そして平常心を保つことです。落ち着いてやれば、そこまで恐れるものではありません」
彼は誰かに対してやっていた経験があるのであろう。
心得とも言えるものをシルヴィアへと伝え、心配する必要はないと言う。
「ブランドンさんは、そういった経験が?」
「はい。ユイカ様の先代様は、髭の手入れを私に任せて下さっていましたので」
「じゃあ唯香さんのも、貴方がやった方が上手くいくんじゃ……」
渡りに船とばかりに、熟練しているであろう執事に任せてしまおうと考えるシルヴィア。
だが頼もうとした言葉は、ブランドンによって制止される。
「ユイカ様はシルヴィア様を信頼なさったからこそ、頼まれたのだと推察します。これは私ではできないことです。その信頼に答えて差し上げてはいかがでしょう」
普段よりも穏やかな調子で諭される。
そう言われてしまっては、シルヴィアには返す言葉もない。
確かに彼女が信用して託したのは自身であり、それに答えようとせず人任せにするのは、外見上はともかくとして、とても男らしいとは言えない。
「わかりました……なんとかやってみます」
その言葉に、表情は変わらず厳しいままのブランドンは満足気に頷く。
彼もまた密かに、これが何がしかの良い影響を与えてくれることを期待しているようであった。
▽
「さあ座って」
屋敷内に幾つか存在する浴場の一つ。
一般家庭のそれとは比べようもないほどに広いそこへと、適当に見繕った椅子を置き、唯香を座らせる。
理容室で見るような、背もたれの倒れる椅子など当然ありはしない。
ある物で代用していくしかないであろう。
唯香を椅子に座らせると、首回りに清潔な布を巻きつける。
見よう見まねではあるが、理容室で使われる汚れ防止シーツの代わりだ。
もたつきながらも準備を進めるシルヴィアの姿に不安を感じたのか、唯香の表情は引きつり始める。
「なんか……緊張してきたんだけど」
「そう。実際に剃刀を持つこっちはもっと緊張してるから、安心していいよ」
「それ全然安心できない……」
唯香が緊張するのも当然か。
なにせ任せる相手は完全な素人だ。
自ら頼んだこととはいえ、唯香も一切の失敗なく終わるとは思ってもいないのだろう。
「大丈夫だって。ブランドンさんにコツも聞いてきた」
「なんて?」
「平常心でやれば問題はありません。だってさ」
「それコツって言えんの?」
揃って苦笑いを浮かべる。
これといった意味がある会話ではないが、こうやって言葉を重ねるにつれ、緊張感も幾分か和らいでいくようではあった。
だがいつまでの喋っていては埒が明かない。
湯に潜らせた布を、熱さに耐えながら絞り唯香の顔に押し当てる。
一瞬だけ熱さに驚いたかに見えた唯香であったが、すぐさま目を閉じ身を任せる。
その熱さがむしろ、心地良いのかもしれない。
ブランドンから教わった通りに、蒸れた頃を見計らって布を取り、泡立てた石鹸を塗りたくる。
「それじゃお客さん、剃りますからジッとしててくださいね」
「はーーい」
いざ刃を持つと再び緊張し、それを誤魔化すかのように小芝居を挟む。
それに対してただ軽くノってくれた唯香に、シルヴィアは密かに感謝をした。
静かな浴場内。髭が刃で削られる音と、滴る水音のみが響く。
ゆっくり、ゆっくりとナイフを滑らせる。
唯香は信頼しているのであろうか、言葉とは裏腹に特別緊張した様子も無く、ただ目を閉じて浅い呼吸を繰り返す。
次第にシルヴィアも慣れてはきたが、急ぐことなく丁寧に手を動かし続けた。
「はい終わり」
顔に残った泡を丁寧に拭き取り、終了を告げる。
初めてにしては上出来と言えるであろう。
所々に剃り残しが見えるものの、とりあえずは失敗もなく無事済んだ。
気にして何度も刃を当てては傷になるかもしれないし、そこはご愛嬌といったところか。
「痛くなかった」
「失敗しなかったからね」
そう言い笑いあう。
シルヴィアが手鏡を渡すと、唯香は矯めつ眇めつし、満足したのか笑顔を向け「上出来」と告げる。
それに対してシルヴィアは、「お粗末様でした」と返す。
椅子から立ち上がった唯香は、大きく背伸びをし深呼吸をする。
髭がほぼ失われたその顔は、どこか晴れやかで、何かに吹っ切れたかのよう。
「なんかスッキリした。……ありがとうね」
「俺に出来るのなんてこの程度だからね。流石に毎日は困るけど、またやって欲しかった言ってよ」
「…………うん」
使った道具の片づけを始め、溜めた湯の中でナイフを丁寧に洗う。
その状態で背を向けて放った言葉に対し、唯香は大きく間を開けて返す。
「ねえ雄喜……一つ聞いていいかな?」
「どうかした?」
「私は……今からでもやり直せるのかな?」
シルヴィアの背中越しに聞こえてくる声は、のんびりしているような、それでいて微かに緊張しているような。
そんな何とも形容しがたい空気を孕む。
若干どうしたのかと思いこそするものの、緊張の時間を越え気が緩んでいたシルヴィアは、それに対して然程気にすることはなかった。
「たぶんだけど、やり直すのに遅いなんてことはないんだよ。もう起きてしまった事は取り返せないけど、今から起きることは変えられるはず」
「そう……だよね。大丈夫だよね」
唯香は背中越しに掛けられるその言葉に目を閉じ「やり直せる」と幾度か反芻する。
そうして固い決意を顔に表し、浴場へと静かに響く声で、しっかりと宣言した。
「ありがとうね雄喜。私、がんばってみる。今からでもやり直してみせるよ」
その強い意志の込められた言葉にシルヴィアが振り返ると、視線を合わせた唯香はニッコリと大きく笑い、踵を返して足早に浴場から立ち去っていく。
「なんだ……? 急に」
唯香の言葉を訝しんでいると、呆としてしまっていたせいか、手にしたナイフで僅かに自身の指を傷付けてしまう。
折角本番を上手くいったというのに、最後の最後でこれでは格好がつかない。
肩を落として血の滲む指を咥えていると、トリシアから助言された春の祭りへと誘いを、今日も忘れていたのに気が付く。
「しまった、また言いそびれた……。あと何日後だったっけか? まあ……明日言えばいいか」
気を取り直して片づけの続きを再開しながら、「今からでもやり直して見せる」との言葉を思い出し微笑む。
あの様子であれば、これからも大丈夫であろう。
まだまだこれから先は永く、もう少しすればきっと本当の意味で立ち直ってくれるはずだと信じた。
祭りの誘いにしても、春がダメなら夏もあるし、来年も同じ季節は巡る。
とりあえずは明日こそ、どうやって誘うべきか。
誘い文句を考えながら、シルヴィアは使った浴場の掃除を続けていた。
▽
柔らかな照明に照らされる廊下を歩く唯香の足取りは、浴場を出た時と比べて随分と重い。
それはこれから自身が迎えるであろう、恐怖に対しての躊躇からくるものではない。
おそらくは唯香の言葉を信用し、安堵しているであろうシルヴィアを騙してしまったこと。それを気に病んでいるが故にであった。
シルヴィアは確かに最初、唯香に対して嘘をついた。
今しがた唯香がしたように、勘違いを意図的に利用した嘘を。
だが今まさに唯香がついた嘘は、シルヴィアがしたそれよりも遥かに重いものであると言える。
きっと……いや、悟られれば間違いなく止められる。
だからこそ隠さなければならず、嘘をつく必要があった。
このことを知れば、おそらくシルヴィアの心は酷く傷付くのだろう。
唯香自身それは理解しているし、その罪は自身に有る。それは間違いないと考えていた。
だがもう決めたのだ、やり直すと。
例えそれが、ずっと気にかけてくれていたシルヴィアへの、酷い裏切りになるとしても。
「ごめん雄喜……私……頑張ってくる」
その足は先程よりも僅かに力強く、中庭へと踏み出して行った。




