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06

「やっぱ慣れないな……」



 廊下に面したとある個室から出てきたシルヴィアは、若干頬を染めている。

 扉を閉めて見上げると、そこには金属のプレートに刻印された文字。

 午前中にトリシアから習った内容を思い出せば、そこに刻まれているのは"トイレ"を表す単語だ。


 こちらの世界で意識を取り戻して三日目。

 その間幾度か行われた行為ではあるが、シルヴィアは未だ慣れることが出来ずにいた。

 だがそれも致し方ないのであろう。

 二十数年を男として過ごし、そういった行為に関しても何ら問題なく普通に行ってきたのだ。

 いきなり性別とやり方がまるきり変わってしまい、困惑するのも当然と言えば当然。



「結局は自分の身体なせいか、何とも感じないのがな……」



 肉体が女性となったことにより、そういった衝動に対してさえも変化が生じてしまったのであろうか。

 用を足す時にそれを見ても、これといって興奮を覚えることすらなくなってしまっている。

 ある意味で男としては、自信を無くす現象であるとシルヴィアには思えてならなかった。




 用を足し終えて部屋へと戻ると、テラスへの硝子扉の向こうに見える空は、徐々に茜色へと染まりつつあった。

 午前中はあれだけ睡魔に襲われたというのに、午後に少しだけ取った仮眠では、意外なほど早くに目が覚めている。

 昨日から心身ともに酷使していた割には、随分と短い睡眠であったと言えた。



「夕食までもうちょっと時間があるか」



 時計がないため正確な時間を知る術はないが、おそらく夕食には少し早い頃合いだ。

 それまでの間、もう一度ベッドへ飛び込むという選択肢はある。

 しかし今眠ってしまえば、再び目覚めた時には翌朝という可能性も捨てきれない。

 若干後ろ髪を引かれる思いをしつつも、シルヴィアはそれを振り払い壁に据えられた書棚の前へ。


 そこから本を取り出し捲ってみると、初日には何一つわからなかった文字が、部分的にではあるが一つ二つ読み取れた。

 もちろんその程度では、文章として理解するにはまだまだ遠い道のりではあるが。

 手にした本を書棚へと戻すと、他に部屋でできることが有る訳でもなく手持無沙汰となってしまう。


 暇を持て余したシルヴィアは、夕食までの時間を潰すべく、部屋を出て長い廊下を歩き中庭へと向かう。

 今のところ、この屋敷内で時間を潰せる場所といえばそこくらいしかない。

 何かが遊べるという訳ではないものの、自室でただ呆と天井を見上げているよりは、幾分かマシと言えるであろう。



 中庭へと到着すると、陽はさらに傾き空は真っ赤に染まっていた。

 時折吹き抜ける風が涼しく、疲労の残る身体に気持ち良い。

 明るさが変わりつつある以外、朝と然程変わらぬ様子の中庭を眺めていると、シルヴィアの目へと一つ大きく異なる風景が飛び込んできた。

 朝にシルヴィアが座ってうたた寝をしていた、木製のベンチ。

 そこにある一つの人影。

 低い身長に分厚い身体のドワーフが、背もたれに身体を預けている。

 その姿は間違いなく唯香であろう。



「唯香さん?」



 シルヴィアが寝息を立てている唯香へと近づき声をかけると、ゆっくりと瞼が開かれる。



「ああ……私、寝てた?」


「ええ、とても気持ちよさそうに」


「そっか……ここ暖かいから……」



 唯香は気だるげに言葉を返す。

 ここで昼寝をしているうちに、いつの間にか陽が落ち始めてしまったのであろう。

 一言断ってその隣へと座ると、なるべく親しい空気を出すよう努めて話しかける。



「気持ちはわかるかな。私も朝にここで居眠りしそうになってしまったし」


「……あなたも?」


「ええ。トリシアさんに花壇の水やりを手伝わされて、結局眠れなかったのだけれど」



 話を膨らませるために、トリシアへと自ら声をかけたのは黙っておく。

 このくらいの嘘であるならば、彼女もきっと許してくれるであろう。



「唯香さんはこの中庭、好きなの?」


「……そうね。この身体もこの世界も好きじゃないけど、ここだけは嫌いじゃないかも」



 問うてみると、思っていた以上にしっかりとした感想と言える言葉が返ってくる。

 その抑揚なく語られたその言葉は、シルヴィアにとって少々意外な内容だったのかもしれない。

 今の唯香は、この世界のなにもかもが気に入らないのだと思っていた。

 だがこの中庭に関しては、別段嫌いではないと言う。

 普段からトリシアが丁寧に世話をしていてくれるおかげであろうか。

 この花壇の前であれば、ほんの少しでも心を開いてくれ易いのではないかという希望が垣間見える。



「そう言ってもらえると、トリシアさんはきっと喜ぶよ。……ねえ、この世界はそんなに嫌い?」


「好きになれるわけないでしょ。無理やりにこんな所に呼び出された挙句、こんな身体にされて。嫌いに決まってる」


「まあ、それはそうだよね」


「エアコンも携帯もないし、お醤油もコーラもない。お風呂とトイレなんて変な物見せられて特に最悪……。……ユウキだっけ? あなたはどうなの」



 名前はしっかりと憶えていてくれたようだ。

 シルヴィアに対しあまり良い感情を持っていないと思っていたが、昨夜のことがあったせいかもしれない。

 こちらで名乗るべき名前ではなく、本名で呼ばれたがそれは別にいいであろう。

 そもそもこちらでの名を知らないというのもあるが、シルヴィアも唯香に対しては本名で呼んでいる。

 もし知っていたとしても、その名で呼ばれるのは愉快ではないだろうけれど。


 入浴とトイレでの件に関しては、先ほど自身が体感したばかりだ。

 その気持ちはある程度察しが付く。

 もちろん男女の違いによるものはあり、その抵抗感の差は決して小さなものではないであろう。



「それはまあ一応。私も好きでこっちに来た訳じゃないし。それに呼び出した連中は謝りにも来ないし」


「だよね……なんで私なんだろ」



 それについては、シルヴィア自身も聞きたいことではあった。

 聞いたとしても答えてくれるとは思えないが、どうして自分が選ばれたのか、なぜ自分でなくてはならなかったのかを問い質したい気持ちはある。

 意図して選ばれたのか、それとも誰でもよく、ただランダムで選ばれただけなのか。

 それすらも知らされてはいない。




「私さ……本当はこういうの憧れてたんだよね」


「え?」


「異世界に行くってやつ……」


「ああ……」



 昨夜唯香が錯乱していた時に言っていた、異世界に召喚されて世界を救う云々の話であろう。

 ああいった言葉が出てくるあたり、唯香はシルヴィア同様に、そういった物語に接する機会が多かったようではある。



「なんでもない女子高生の私が異世界に行ってさ……、神様からチートな力をもらって魔王とか倒すの。冒険者ギルドとかで因縁つけられて、返り討ちにしたりさ。一緒に旅に出る仲間はカッコいい王子様だったり、イケメンの魔法使いだったり……。それでいろんな町とか救って褒められるの、勇者様ありがとうございますって」



 独り言のように呟き続ける言葉を、シルヴィアはただ黙って聞く。

 おそらくは唯香がそれを望んでいるのだろうし、これといって答えを期待している訳でもないであろう。

 ただ単に、思いのたけを聞いて欲しいのだ。



「それかファンタジーな学園に通うやつ。幼馴染のカッコイイ男の子と一緒に。私に才能はないけど、凄い力を持った男の子たちに囲まれてチヤホヤされたりさ。強くて可愛いモンスターの卵を手に入れて、親代わりになっちゃったり……」



 唯香が感情の起伏少なく淡々と語る内容は、彼女自身の願望の表れなのだろう。

 もし自分が行くならこんな世界がいい、こんな物語の主人公になりたい、そういった話だ。

 だが唯香に現実として起こった状況は、夢想したそれらとは随分とかけ離れていた。



「でも実際に来てみればこれよ……。チートな力もないし、幼馴染の男の子も居ない。しかも私はおっさんのドワーフ。私は主人公なんかじゃなくてギャグ担当のモブキャラだったってことね」



 叶わないと思いつつも願っていた理想。

 そして実際に起きてしまった、理想とは程遠い世界。

 あまりにも大きすぎるその違いは、彼女を苦しめているようであった。

 多くの人と同様に、自分が絶対的な主人公となる世界に憧れを抱いていた唯香にとっては、耐えがたい現実なのであろう。

 だがそれを少しずつシルヴィアに話すことによって、この状況を受け止めていこうとしているようにも見える。


 しばし言葉も無く時間が流れる。

 次第に陽は落ちていき、中庭のほとんどを夜が占め、屋敷内から漏れ出た明りがベンチを淡く照らす。

 徐々に下がりつつある空気に身を震わせ、シルヴィアは喋りかける。



「夜はやっぱり少し冷えるね」


「うん……あのさ」


「なに?」


「……いや、やっぱいいわ。もう少しで食事でしょ? 私、先に行ってるから」



 一方的に告げた唯香は、小走りに去っていく。

 屋敷の中へと向かう唯香の後ろ姿は、朝に顔を会わせた時よりも、ずっと生命力を感じさせる。

 このまま接していけば、いずれ前を向いてくれるようになるのはないかと思わせるほどに。

 去り際に唯香が何を言おうとしていたのか、それを想像することは難しい。

 だがここで話せて一歩だけ、唯香の心の内へと近づけた気がしていた。

 そのうち話抱え込んだ物を話してくれる時を信じ、ここで会ってちょっとづつ打ち解けていけばいい。

 シルヴィアにはそう思えていた。

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